夢中問答集 / 『夢中問答集』公案は悟りを求める道具か
問福智を求むるをば、悉くこれをきらへるに、禪家の學者一則の公案を提撕して、悟を求るはくるしからずや。 答古人の云く、心を以て悟をもとむることなかれと云云。學者もし悟りを求むる心あらば、公案を提撕する人にあらず。圓悟禪師の云く、若し是れ利根種姓の人はかならずしも、古人の言句公案を看べからずと云云。これを以てしりぬ。公案をあたふるも宗師の本意にあらざる事を、たとひ慈をたれて一則の公案をあたふといへ共、佛の名號を唱へて往生をもとめ、呪を誦し經をよみて功德を求むるには同じからず。其の故は宗師の人に此の公案をあたふること往生淨土のためにもあらず。成佛得道の求めにもあらず。世間の奇特にもあらず法門の義理にもあらず。總じて情識のはからざる處なり。故に公案となづく。これを鐵饅頭にたとへたり。たゞ情識の舌をつくる事あたはざる處に向つて咬來り、嚼去らばかならず咬み破る時分あるべし。其の時始めて此の鐵饅頭は世間の五味六味にもあらず。出世の法味義味にもあらざる事をしるべし。
新字:問福智を求むるをば、悉くこれをきらへるに、禅家の学者一則の公案を提撕して、悟を求るはくるしからずや。 答古人の云く、心を以て悟をもとむることなかれと云云。学者もし悟りを求むる心あらば、公案を提撕する人にあらず。円悟禅師の云く、若し是れ利根種姓の人はかならずしも、古人の言句公案を看べからずと云云。これを以てしりぬ。公案をあたふるも宗師の本意にあらざる事を、たとひ慈をたれて一則の公案をあたふといへ共、仏の名号を唱へて往生をもとめ、呪を誦し経をよみて功徳を求むるには同じからず。其の故は宗師の人に此の公案をあたふること往生浄土のためにもあらず。成仏得道の求めにもあらず。世間の奇特にもあらず法門の義理にもあらず。総じて情識のはからざる処なり。故に公案となづく。これを鉄饅頭にたとへたり。たゞ情識の舌をつくる事あたはざる処に向つて咬来り、嚼去らばかならず咬み破る時分あるべし。其の時始めて此の鉄饅頭は世間の五味六味にもあらず。出世の法味義味にもあらざる事をしるべし。
書き下し
問福智を求むるをば、悉くこれをきらへるに、禪家の學者一則の公案を提撕して、悟を求るはくるしからずや。 答古人の云く、心を以て悟をもとむることなかれと云云。學者もし悟りを求むる心あらば、公案を提撕する人にあらず。圓悟禪師の云く、若し是れ利根種姓の人はかならずしも、古人の言句公案を看べからずと云云。これを以てしりぬ。公案をあたふるも宗師の本意にあらざる事を、たとひ慈をたれて一則の公案をあたふといへ共、佛の名號を唱へて往生をもとめ、呪を誦し經をよみて功德を求むるには同じからず。其の故は宗師の人に此の公案をあたふること往生淨土のためにもあらず。成佛得道の求めにもあらず。世間の奇特にもあらず法門の義理にもあらず。總じて情識のはからざる處なり。故に公案となづく。これを鐵饅頭にたとへたり。たゞ情識の舌をつくる事あたはざる處に向つて咬來り、嚼去らばかならず咬み破る時分あるべし。其の時始めて此の鐵饅頭は世間の五味六味にもあらず。出世の法味義味にもあらざる事をしるべし。
現代語訳
問:福や智を求めることを、ことごとく嫌うのに、禅家の学者が一則の公案を提撕して悟りを求めるのは、よろしいのか。 答:古人は「心をもって悟りを求めてはならない」と言った。学者がもし悟りを求める心があるなら、公案を提撕する人ではない。圓悟禅師は言った。もし利根の資質の人であれば、必ずしも古人の言句や公案を見なくてよい、と。これによって知れる。公案を与えるのも宗師の本意ではないことを。たとえ慈悲を垂れて一則の公案を与えるといっても、仏の名号を唱えて往生を求め、呪を誦し経を読んで功徳を求めることと同じではない。そのわけは、宗師がこの公案を人に与えるのは、浄土往生のためでもなく、成仏得道を求めるためでもなく、世間の不思議のためでもなく、法門の義理のためでもなく、総じて情識の計らいが及ばないところだからである。ゆえに公案と名づける。これを鉄饅頭にたとえた。ただ情識の舌が及ばないところに向かって、噛み続け、噛みしめていくなら、必ず噛み破る時が来る。その時はじめて、この鉄饅頭は世間の五味六味でもなく、出世間の法味・義味でもないことを知るだろう。
解説

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