夢中問答集 / 『夢中問答集』妄情に任せる任病
問修行用心は皆妄想なり。敎禪の法門も枝葉なりとて、たゞ妄情にまかせて、ふるまふ人を眞實の道人といふべしや。 答若しさやうの見解をなす人は、妄想の中の第一の妄想なり。圓覺經に四病を明せる中に、任病といへるは是れなり。
新字:問修行用心は皆妄想なり。教禅の法門も枝葉なりとて、たゞ妄情にまかせて、ふるまふ人を真実の道人といふべしや。 答若しさやうの見解をなす人は、妄想の中の第一の妄想なり。円覚経に四病を明せる中に、任病といへるは是れなり。
書き下し
問修行用心は皆妄想なり。敎禪の法門も枝葉なりとて、たゞ妄情にまかせて、ふるまふ人を眞實の道人といふべしや。 答若しさやうの見解をなす人は、妄想の中の第一の妄想なり。圓覺經に四病を明せる中に、任病といへるは是れなり。
現代語訳
問:修行も心がけもみな妄想であり、教も禅の法門も枝葉だといって、ただ妄情にまかせてふるまう人を、真実の道人というべきだろうか。 答:もしそのような見解をする人がいるなら、妄想の中の第一の妄想である。円覚経に四つの病を明かしている中で、任病というのがこれである。
解説
修行も心がけも妄想で教禅も枝葉だと言うなら、妄情のままにふるまう人が真実の道人なのか、という問いです。夢窓の答えは短く、そう考える人は妄想の中の第一の妄想で、円覚経が挙げる四つの病のうち「任病」にあたる、というものです。任病とは、修行を求めず成り行きに任せきる病を指します。すべてを相対化する考えが、怠惰や放縦の言い訳にすり替わる危険を、はっきり断っています。自由と放縦は別であり、規律を手放した自由は成長を止める、という現代にも通じる戒めです。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
妄情任病円覚経四病道人放縦
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