夢中問答集 / 『夢中問答集』坐禅の狂乱を恐れるな
問坐禪する人の中に狂亂することのあるを見て、坐禪をおづる人ありかやうに狂亂することは、實に坐禪のとがやらん。 答坐禪する人の中に狂亂する者のあればとて、坐禪をうとむ事は宿習のつたなき故なり。よのつね世事にのみ執著して、坐禪をばせぬ人の中に狂亂する者あり。これをみる時、何ぞ世事をうとまざるや。坐禪をする時、狂亂する人のあることは、或は少分の見解の起るによりて、高慢の心を生ずる故に、魔精其の心に托して狂亂することあり、或は前業によりて鬼魅になやまされて狂亂するもあり、或は有所得の心に住して速疾に悟を開くことを求めて、身心を勞役する故に血脉みだれて狂亂するもあり。かやうなる種々の因緣ありて狂亂す。坐禪のとがにはあらず、狂亂は一旦のことなり、終には必ずやむ期あり、やめば卽ち道心にかへるべし、狂亂をおそれて、坐禪せざる者は永く地獄に入て出る期ありがたし。これ卽ち眞實の物狂ひなり。然れば卽ち坐禪して、物狂になるをば怖るべからず。物狂ひを見て坐禪をうとむ心の生ずることを怖るべし。
新字:問坐禅する人の中に狂乱することのあるを見て、坐禅をおづる人ありかやうに狂乱することは、実に坐禅のとがやらん。 答坐禅する人の中に狂乱する者のあればとて、坐禅をうとむ事は宿習のつたなき故なり。よのつね世事にのみ執著して、坐禅をばせぬ人の中に狂乱する者あり。これをみる時、何ぞ世事をうとまざるや。坐禅をする時、狂乱する人のあることは、或は少分の見解の起るによりて、高慢の心を生ずる故に、魔精其の心に托して狂乱することあり、或は前業によりて鬼魅になやまされて狂乱するもあり、或は有所得の心に住して速疾に悟を開くことを求めて、身心を労役する故に血脉みだれて狂乱するもあり。かやうなる種々の因縁ありて狂乱す。坐禅のとがにはあらず、狂乱は一旦のことなり、終には必ずやむ期あり、やめば即ち道心にかへるべし、狂乱をおそれて、坐禅せざる者は永く地獄に入て出る期ありがたし。これ即ち真実の物狂ひなり。然れば即ち坐禅して、物狂になるをば怖るべからず。物狂ひを見て坐禅をうとむ心の生ずることを怖るべし。
書き下し
問坐禪する人の中に狂亂することのあるを見て、坐禪をおづる人ありかやうに狂亂することは、實に坐禪のとがやらん。 答坐禪する人の中に狂亂する者のあればとて、坐禪をうとむ事は宿習のつたなき故なり。よのつね世事にのみ執著して、坐禪をばせぬ人の中に狂亂する者あり。これをみる時、何ぞ世事をうとまざるや。坐禪をする時、狂亂する人のあることは、或は少分の見解の起るによりて、高慢の心を生ずる故に、魔精其の心に托して狂亂することあり、或は前業によりて鬼魅になやまされて狂亂するもあり、或は有所得の心に住して速疾に悟を開くことを求めて、身心を勞役する故に血脉みだれて狂亂するもあり。かやうなる種々の因緣ありて狂亂す。坐禪のとがにはあらず、狂亂は一旦のことなり、終には必ずやむ期あり、やめば卽ち道心にかへるべし、狂亂をおそれて、坐禪せざる者は永く地獄に入て出る期ありがたし。これ卽ち眞實の物狂ひなり。然れば卽ち坐禪して、物狂になるをば怖るべからず。物狂ひを見て坐禪をうとむ心の生ずることを怖るべし。
現代語訳
問:坐禅する人の中に狂乱する者があるのを見て、坐禅を恐れる人がいる。このように狂乱するのは、本当に坐禅の咎なのだろうか。 答:坐禅する人の中に狂乱する者がいるからといって、坐禅を疎むのは、宿習が拙いからである。ふつう世事にばかり執着して坐禅をしない人の中にも、狂乱する者がいる。これを見て、なぜ世事を疎まないのか。坐禅をする時に狂乱する人がいるのは、あるいは少しばかりの見解が起こって高慢の心を生じるために、魔の精が心に取りついて狂乱することがあり、あるいは前世の業によって鬼魅に悩まされて狂乱する者もあり、あるいは有所得の心にとどまって、速やかに悟りを開こうと求め、身心を酷使するために血脈が乱れて狂乱する者もある。このような種々の因縁があって狂乱する。坐禅の咎ではない。狂乱は一時のことで、終には必ずやむ時がある。やめば、そのまま道心に帰るだろう。狂乱を恐れて坐禅をしない者は、永く地獄に入って出る時がない。これこそ真の物狂いである。であるから、坐禅して物狂いになることを怖れてはならない。物狂いを見て、坐禅を疎む心が生じることを怖れるべきである。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』愚かな者の坐禅は無益か問古人の云く、用心朦昧ならば坐禪無益なりと云云。然らば卽ち愚癡なる人の坐禪とて、壁に向つて坐するいたづらことゝ申す人あり。其の謂れありや。 答古人かやうにしめす事は、一大事のために志をはげます人の善知識にも參ぜず。たゞ坐禪となづけて蒙々として坐する人をすゝめて、其の用心を正しくなさんためなり。愚癡なる人は坐禪すること詮なしと申すにはあらず。用心くらき者は坐禪無益なりといふて、坐禪をばせずして愚癡のまゝにて日月を送る人は、何の益かあるべきや。佛法に入ること一世一時の熏修にあらず。今生に利根の姓を受て頓に悟る人は、前生朦昧にして坐禪したりし人なり。今生に朦昧にして坐禪する人は、當來かならず一聞千悟の人となるべし。或は云く坐禪は大事の所作なれば愚癡の身にはかなひがたし。經をよみ陀羅尼を誦し、念佛を申すことは事の行にてたやすければ、是は相應の行なるべしと云云。敎の中に云く、發心僻越しぬれば萬行從に施す。事行理行といへば一往の差別なり。何れの行なりとも用心あやまりぬれば、皆三界輪廻の業因なり。然らば卽ち大乘修行の用心たゞしき人は、其の中にして萬行をなせども錯なし。若し其の分なくば事理の行ともにいたづらなるべし。しかるを坐禪用心は大事なれば、先づ事の行を修せんといへるは偏案なり。坐禪を大事の行と思へるは、いまだ坐禪の玄旨をしらざる故なり。坐禪修行と申すことは、禪門ばかり用ふる事にあらす。顯密の諸宗にもあかせり。乃至小乘外道の法にもあり。坐禪といへる語は同じけれ共、其の旨趣各ことなり。小乘外道の坐禪は有漏無漏其の趣きことなれ共身を動ぜず。念をおこさじと修行する體はこれ同じ、淨土宗の坐禪は十六想觀等なり。盧山の遠法師等は此の行を專らにす。顯密の諸宗の坐禪かはれりといへども、各其の宗の深理を觀ずるを用心とす。末代になりて諸宗の坐禪大略はすたれたる故に、坐禪するは宗門の修行ばかりと思へるはあやまれり。宗門の坐禪と申は念をおさめ、身を動ぜじとするにもあらざれば、さやうに壁に向つて座して念をやむること大事なりともいふべからず。法理を觀ずることもあらざれば、我れは鈍根なる故に、法門の深理を習ふこと大事なりともいふべからず。財寶の入ることにもあらざれば、我れはまづしき故にかなひがたしともいふべからず。身力の入る事にもあらざれば、我は力弱ければ難議なりともいふべからず。塵勞の中には佛法なしともさだめねば、我れは俗人なる故に、修行の便りなしともいふべからず。燒香禮拜等の行は身を以てなす故に、其の身若し、餘の事をなす時は其の行かなはず。讀經誦呪念佛等の行は口を以てなす故に、別の事を談ずる時は、其の行じたる法理を觀ずることは意を以てなす故に、別事を思ふ時は其の觀はせられず。禪門の工夫は身を以てもなさず。口を以てもなさず。意を以てもなさず。何をか大事といふべきや。
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