夢中問答集 / 『夢中問答集』魔障を退ける不見不聞
問魔障若しおこらん時は、いかゞ對治すべきや。 答敎門に種々の對治あり具に引くことあたはず、禪宗の學者若よく敎外の玄旨は箇々圓成して智愚の勝劣もなく、今古の移易もなきことを信ぜばたとひ日來にかはり餘人にまされる道德智用ありとも、皆是幻妄なりと知りてこれを執著すべからず。古人の云く、たとひ一法の涅槃にすぎたるありとも、斬つて三段となすべしと云々。自性天眞の如來を信ずる人は、三身四智をも貴しとせず。蠢動含靈をも賤しとせず。たとひ身上に相好を具し、腦後に圓光を生ず共、奇特の想をなすべからず。若しよくかやうならば、內外の諸魔何ぞ其の便を得る事あらんや。昔唐の道就師三峯山に住す。衣服つねさまならぬ異人來りて常に庵邊に徘徊す。佛菩薩の形を現ずる時もあり、天仙の形を化する時もあり、或は奇特の光明を放ち、或は怪異なる言句を出す。かやうにすること十年其の後は見えずなりぬ。禪師其の門弟に語つていはく、此の間天魔來りて我をなやまさんために種々に變化しつれども、我れたゞ不見不聞を以てこれに對す。彼が變化はきはまることあり。我が不見不聞はつくる事なし。是の故に彼れつひに退沒しぬと云云。是れ卽ち魔を降する祕術なり。たゞ魔境のみにあらず。一切の逆順の境に對する時も、道樹禪師のごとくならば、道行自然に成ずべし。達磨大師の外に諸緣を逐はず。內心喘ぐことなく、心墻壁のごとくならば、道に入べしと仰られたるも此の意なり。たゞ平生の歷緣對境のみならず、臨終到來の時も亦かくのごとくならば、業緣に轉ぜらるゝことあるべからず。黃蘗禪師の傳心法要に云く、凡夫臨終の時但觀ずべし、五蘊皆空にして四大無我なり、眞心無相にして不去不來生の時性亦不來死の時性亦不去、湛然圓寂にして心境一如なり、但能くかくのごとくならば、便是れ出世の人なり、若し諸佛來迎し種々の善相ありとも隨ひ去る心を生ずべからず。若し諸の惡相の現ずることありとも、怖畏を生ぜず心を妄じて、法界に同じからしむべし。便是れ臨終の要節なりと云云。
新字:問魔障若しおこらん時は、いかゞ対治すべきや。 答教門に種々の対治あり具に引くことあたはず、禅宗の学者若よく教外の玄旨は箇々円成して智愚の勝劣もなく、今古の移易もなきことを信ぜばたとひ日来にかはり余人にまされる道徳智用ありとも、皆是幻妄なりと知りてこれを執著すべからず。古人の云く、たとひ一法の涅槃にすぎたるありとも、斬つて三段となすべしと云々。自性天真の如来を信ずる人は、三身四智をも貴しとせず。蠢動含霊をも賤しとせず。たとひ身上に相好を具し、脳後に円光を生ず共、奇特の想をなすべからず。若しよくかやうならば、内外の諸魔何ぞ其の便を得る事あらんや。昔唐の道就師三峯山に住す。衣服つねさまならぬ異人来りて常に庵辺に徘徊す。仏菩薩の形を現ずる時もあり、天仙の形を化する時もあり、或は奇特の光明を放ち、或は怪異なる言句を出す。かやうにすること十年其の後は見えずなりぬ。禅師其の門弟に語つていはく、此の間天魔来りて我をなやまさんために種々に変化しつれども、我れたゞ不見不聞を以てこれに対す。彼が変化はきはまることあり。我が不見不聞はつくる事なし。是の故に彼れつひに退没しぬと云云。是れ即ち魔を降する秘術なり。たゞ魔境のみにあらず。一切の逆順の境に対する時も、道樹禅師のごとくならば、道行自然に成ずべし。達磨大師の外に諸縁を逐はず。内心喘ぐことなく、心墻壁のごとくならば、道に入べしと仰られたるも此の意なり。たゞ平生の歴縁対境のみならず、臨終到来の時も亦かくのごとくならば、業縁に転ぜらるゝことあるべからず。黄蘗禅師の伝心法要に云く、凡夫臨終の時但観ずべし、五蘊皆空にして四大無我なり、真心無相にして不去不来生の時性亦不来死の時性亦不去、湛然円寂にして心境一如なり、但能くかくのごとくならば、便是れ出世の人なり、若し諸仏来迎し種々の善相ありとも随ひ去る心を生ずべからず。若し諸の悪相の現ずることありとも、怖畏を生ぜず心を妄じて、法界に同じからしむべし。便是れ臨終の要節なりと云云。
書き下し
問魔障若しおこらん時は、いかゞ對治すべきや。 答敎門に種々の對治あり具に引くことあたはず、禪宗の學者若よく敎外の玄旨は箇々圓成して智愚の勝劣もなく、今古の移易もなきことを信ぜばたとひ日來にかはり餘人にまされる道德智用ありとも、皆是幻妄なりと知りてこれを執著すべからず。古人の云く、たとひ一法の涅槃にすぎたるありとも、斬つて三段となすべしと云々。自性天眞の如來を信ずる人は、三身四智をも貴しとせず。蠢動含靈をも賤しとせず。たとひ身上に相好を具し、腦後に圓光を生ず共、奇特の想をなすべからず。若しよくかやうならば、內外の諸魔何ぞ其の便を得る事あらんや。昔唐の道就師三峯山に住す。衣服つねさまならぬ異人來りて常に庵邊に徘徊す。佛菩薩の形を現ずる時もあり、天仙の形を化する時もあり、或は奇特の光明を放ち、或は怪異なる言句を出す。かやうにすること十年其の後は見えずなりぬ。禪師其の門弟に語つていはく、此の間天魔來りて我をなやまさんために種々に變化しつれども、我れたゞ不見不聞を以てこれに對す。彼が變化はきはまることあり。我が不見不聞はつくる事なし。是の故に彼れつひに退沒しぬと云云。是れ卽ち魔を降する祕術なり。たゞ魔境のみにあらず。一切の逆順の境に對する時も、道樹禪師のごとくならば、道行自然に成ずべし。達磨大師の外に諸緣を逐はず。內心喘ぐことなく、心墻壁のごとくならば、道に入べしと仰られたるも此の意なり。たゞ平生の歷緣對境のみならず、臨終到來の時も亦かくのごとくならば、業緣に轉ぜらるゝことあるべからず。黃蘗禪師の傳心法要に云く、凡夫臨終の時但觀ずべし、五蘊皆空にして四大無我なり、眞心無相にして不去不來生の時性亦不來死の時性亦不去、湛然圓寂にして心境一如なり、但能くかくのごとくならば、便是れ出世の人なり、若し諸佛來迎し種々の善相ありとも隨ひ去る心を生ずべからず。若し諸の惡相の現ずることありとも、怖畏を生ぜず心を妄じて、法界に同じからしむべし。便是れ臨終の要節なりと云云。
現代語訳
問:魔障がもし起こった時は、どのように対治すべきか。 答:教門にはさまざまな対治があり、詳しくは引けない。禅宗の学者は、もし教外の玄旨が一人一人に円満に成り立っており、智者と愚者の優劣も、今と昔の移り変わりもないことを信じるなら、たとえ以前と違い、他人よりすぐれた道徳や智のはたらきがあっても、それらはみな幻の妄想だと知って執着してはならない。古人は「たとえ涅槃に勝る一法があっても、斬って三段にせよ」と言った。自性そのままの如来を信じる人は、三身四智をも貴しとせず、ものを動かす微細な生き物をも賤しとしない。たとえ身に相好をそなえ、頭の後ろに円光を生じても、特別なことと思ってはならない。もしこのようであれば、内外の諸魔がどうして隙を得ることがあろうか。昔、唐の道就師が三峰山に住んでいた。衣服が尋常でない異人が来て、いつも庵のほとりを徘徊した。仏や菩薩の形を現す時もあり、天人や仙人の姿に化ける時もあり、あるいは不思議な光を放ち、あるいは怪しい言葉を発した。このようなことが十年続き、その後は見えなくなった。禅師は門弟に語って言った。このところ天魔が来て、私を悩まそうと種々に変化したが、私はただ見ず聞かずでこれに対した。彼の変化は尽きることがあるが、私の見ず聞かずは尽きることがない。そのために、彼はついに退き去った、と。これこそ魔を降す秘術である。ただ魔境のみならず、あらゆる逆境順境に対する時も、道樹禅師のようであれば、修行はおのずから成就するだろう。達磨大師が「外には諸縁を追わず、内には心があえぐことなく、心が壁のようであれば、道に入れる」と仰せられたのも、この意である。ただ日ごろの縁に歴り境に対する時だけでなく、臨終が来た時もまたこのようであれば、業縁に引きずられることはない。黄檗禅師の伝心法要に言う。凡夫の臨終の時は、ただ観ぜよ。五蘊はみな空であり、四大に我はない。真心は相がなく、去ることも来ることもない。生まれる時、性もまた来るのではない。死ぬ時、性もまた去るのではない。澄みきって円満に静寂であり、心と境は一つである。ただよくこのようであれば、それこそ出世の人である。もし諸仏が迎えに来て、種々のよい相が現れても、従って行く心を生じてはならない。もし諸々の悪相が現れることがあっても、怖れる心を生じず、心を妄想せず、法界に同じくせよ。これこそ臨終の要節である、と。
解説

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