夢中問答集 / 『夢中問答集』魔を恐れぬ無心と大願
問人の酒に醉る時は醉ることをしらざるがごとく、既に魔境に入れる人は魔境を辨ずる事あるべからず。若ししからばたとひ對治の祕術をかねて習ひおきたりとも用る所なかるべし。初心の學者何としてか魔境に入らぬ方便あるべきや。 答魔境を怖れてこれに入らぬ方便を求む卽ち是れ魔境なり。龍樹菩薩の云く、有念なれば魔網に墮つ。無念なれば卽ち出ることを得と云云。古德云く、心外に魔障なし、無心なるは卽ち降魔なりと云云。道樹禪師の不見不聞を以て魔を降伏し給へるも此の謂なり。佛界の相を愛すれば卽ち魔界なり。魔界の相を妄ずれば卽ち佛界なり。眞實修道の人は佛界をも愛せず、魔界をも怖れず。若しかやうに用心して、證得の想をもなさず。退屈の心をも生ぜずば、諸障自ら消滅すべし。又常に佛前において大願を發すべし。圓覺經に云く、末世の衆生清淨の大願を發すべし。願は我れ今佛の圓覺に住して、善知識を求めて外道二乘にあふことなく、漸く諸障を斷じて、解脫清淨の寳殿に登らんと云云。若しよくかくのごとくならば、初心の學者なりとも、此の大願力に乘じて、生々世々に邪魔外道の眷屬となることあるべからず。かやうの人をば諸佛も護念し、諸天も保持し給ふ故に、一切障難をはなれて、不退轉地に到らんこと疑あるべからず。
新字:問人の酒に酔る時は酔ることをしらざるがごとく、既に魔境に入れる人は魔境を弁ずる事あるべからず。若ししからばたとひ対治の秘術をかねて習ひおきたりとも用る所なかるべし。初心の学者何としてか魔境に入らぬ方便あるべきや。 答魔境を怖れてこれに入らぬ方便を求む即ち是れ魔境なり。竜樹菩薩の云く、有念なれば魔網に堕つ。無念なれば即ち出ることを得と云云。古徳云く、心外に魔障なし、無心なるは即ち降魔なりと云云。道樹禅師の不見不聞を以て魔を降伏し給へるも此の謂なり。仏界の相を愛すれば即ち魔界なり。魔界の相を妄ずれば即ち仏界なり。真実修道の人は仏界をも愛せず、魔界をも怖れず。若しかやうに用心して、証得の想をもなさず。退屈の心をも生ぜずば、諸障自ら消滅すべし。又常に仏前において大願を発すべし。円覚経に云く、末世の衆生清浄の大願を発すべし。願は我れ今仏の円覚に住して、善知識を求めて外道二乗にあふことなく、漸く諸障を断じて、解脱清浄の宝殿に登らんと云云。若しよくかくのごとくならば、初心の学者なりとも、此の大願力に乗じて、生々世々に邪魔外道の眷属となることあるべからず。かやうの人をば諸仏も護念し、諸天も保持し給ふ故に、一切障難をはなれて、不退転地に到らんこと疑あるべからず。
書き下し
問人の酒に醉る時は醉ることをしらざるがごとく、既に魔境に入れる人は魔境を辨ずる事あるべからず。若ししからばたとひ對治の祕術をかねて習ひおきたりとも用る所なかるべし。初心の學者何としてか魔境に入らぬ方便あるべきや。 答魔境を怖れてこれに入らぬ方便を求む卽ち是れ魔境なり。龍樹菩薩の云く、有念なれば魔網に墮つ。無念なれば卽ち出ることを得と云云。古德云く、心外に魔障なし、無心なるは卽ち降魔なりと云云。道樹禪師の不見不聞を以て魔を降伏し給へるも此の謂なり。佛界の相を愛すれば卽ち魔界なり。魔界の相を妄ずれば卽ち佛界なり。眞實修道の人は佛界をも愛せず、魔界をも怖れず。若しかやうに用心して、證得の想をもなさず。退屈の心をも生ぜずば、諸障自ら消滅すべし。又常に佛前において大願を發すべし。圓覺經に云く、末世の衆生清淨の大願を發すべし。願は我れ今佛の圓覺に住して、善知識を求めて外道二乘にあふことなく、漸く諸障を斷じて、解脫清淨の寳殿に登らんと云云。若しよくかくのごとくならば、初心の學者なりとも、此の大願力に乘じて、生々世々に邪魔外道の眷屬となることあるべからず。かやうの人をば諸佛も護念し、諸天も保持し給ふ故に、一切障難をはなれて、不退轉地に到らんこと疑あるべからず。
現代語訳
問:人は酒に酔う時、酔っていることを知らないように、すでに魔境に入った人は魔境を見分けることができないはずである。もしそうなら、たとえ対治の秘術をあらかじめ習っておいても、役に立たないだろう。初心の学者は、どうすれば魔境に入らない方便があるだろうか。 答:魔境を怖れて、これに入らない方便を求めること、それがすなわち魔境である。龍樹菩薩は「有念ならば魔の網に堕ち、無念ならば出ることができる」と言った。古徳は「心の外に魔障はない。無心であることが、そのまま魔を降すことである」と言った。道樹禅師が見ず聞かずによって魔を降伏されたのも、この意味である。仏界の相を愛すればそれは魔界であり、魔界の相を妄想すればそれは仏界である。真実に道を修める人は、仏界をも愛さず、魔界をも怖れない。もしこのように心がけて、悟りを得たという思いもなさず、くじける心も生じなければ、諸々の障りはおのずから消滅するだろう。また常に仏前で大願を発すべきである。円覚経に言う。末世の衆生は、清浄の大願を発せよ。その願とは、我は今仏の円覚に住して、善知識を求め、外道や二乗にあうことなく、しだいに諸障を断って、解脱清浄の宝殿に登ろう、と。もしこのようであれば、初心の学者であっても、この大願力に乗じて、生まれ変わりを重ねても邪魔外道の眷属となることはない。このような人を諸仏も守り、諸天も支えてくださるので、あらゆる障難を離れて、不退転の地に至ることは疑いない。
解説

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