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夢中問答集 / 『夢中問答集』見返りを求める心でも修行は続ける

問僧俗ことなりといへども、凡夫地にあるほどは誰も有所得の心をはなれたることはなし。若しこの有所得の心を以て修すること皆魔業となるならば、凡夫の修行佛道を成ずることあらんや。 答世間の諸事みな損あり益あり。是れ卽ち其の事をなす人のよくするとあしくするとの差別によれり。あしくすれば損あることを見て、よくする者の益あることを捨つべからず。忠功をいたせる人の恩賞にほこりて、誅罰にあふて見て忠功をいたすこと詮なしといふべからず。誅罰にあふことは忠功のとがにはあらず、恩賞にほこりて過分の心を起せる故なり。然らば卽ち恩賞の餘人に勝れたるによりて、たとひほこる心は起るとも、かやう〱の心は身をほろぼし。家をうしなふべき因緣なりと知りて過分のふるまひをせず、いよ〱忠をいたし、功をつまば唯身を立て家を起すのみならず、君のため世のため無窮の巨益あるべし。佛法も亦かくのごとし修行の功つもりて、道德を發する人の有所得の心に住して魔道に入るといふことを聞て、出離の行を退屈せば何れの道に入てか生死を出づべきや。佛法の內は諸宗ことなりといへども、若し有所得の心に住して行德にほこる人は魔道に入る事をのがれがたし。若し一向に佛法を捨てゝ行せずば魔道に入までもなくして、直に三惡道に墮すべし。魔道に入事は佛法修行のとがにはあらず。道德にほこり、慢心を起す故なり。いまだ聖位にのぼらざる人は誰か有所得の心なからんや。たとひ有所得の心は起るとも、かやうの心は皆魔業なりと知りてこれを堅執せず。或は日來にかはれる小智小德ありとも、これを以て足れりとせず。若しいまだ一知一解をうる事なくとも退屈の心を生ぜず。いよ〱修行の功をつまば、本分の靈光忽ちに現前し、無邊の德用自ら成就すべし。たゞ一身の迷倒をひるがへすのみならず、一切衆生を引導する廣大の利益を致すべし。若しよくかくのごとくならば、一切の天魔外道も亦同じく伴侶となりて、佛事の障礙あるべからず、維摩居士の一切衆魔及び諸外道皆な、吾が侍也と說き給へるは此の義なり。

新字:問僧俗ことなりといへども、凡夫地にあるほどは誰も有所得の心をはなれたることはなし。若しこの有所得の心を以て修すること皆魔業となるならば、凡夫の修行仏道を成ずることあらんや。 答世間の諸事みな損あり益あり。是れ即ち其の事をなす人のよくするとあしくするとの差別によれり。あしくすれば損あることを見て、よくする者の益あることを捨つべからず。忠功をいたせる人の恩賞にほこりて、誅罰にあふて見て忠功をいたすこと詮なしといふべからず。誅罰にあふことは忠功のとがにはあらず、恩賞にほこりて過分の心を起せる故なり。然らば即ち恩賞の余人に勝れたるによりて、たとひほこる心は起るとも、かやう〱の心は身をほろぼし。家をうしなふべき因縁なりと知りて過分のふるまひをせず、いよ〱忠をいたし、功をつまば唯身を立て家を起すのみならず、君のため世のため無窮の巨益あるべし。仏法も亦かくのごとし修行の功つもりて、道徳を発する人の有所得の心に住して魔道に入るといふことを聞て、出離の行を退屈せば何れの道に入てか生死を出づべきや。仏法の内は諸宗ことなりといへども、若し有所得の心に住して行徳にほこる人は魔道に入る事をのがれがたし。若し一向に仏法を捨てゝ行せずば魔道に入までもなくして、直に三悪道に堕すべし。魔道に入事は仏法修行のとがにはあらず。道徳にほこり、慢心を起す故なり。いまだ聖位にのぼらざる人は誰か有所得の心なからんや。たとひ有所得の心は起るとも、かやうの心は皆魔業なりと知りてこれを堅執せず。或は日来にかはれる小智小徳ありとも、これを以て足れりとせず。若しいまだ一知一解をうる事なくとも退屈の心を生ぜず。いよ〱修行の功をつまば、本分の霊光忽ちに現前し、無辺の徳用自ら成就すべし。たゞ一身の迷倒をひるがへすのみならず、一切衆生を引導する広大の利益を致すべし。若しよくかくのごとくならば、一切の天魔外道も亦同じく伴侶となりて、仏事の障礙あるべからず、維摩居士の一切衆魔及び諸外道皆な、吾が侍也と説き給へるは此の義なり。

書き下し

問僧俗ことなりといへども、凡夫地にあるほどは誰も有所得の心をはなれたることはなし。若しこの有所得の心を以て修すること皆魔業となるならば、凡夫の修行佛道を成ずることあらんや。 答世間の諸事みな損あり益あり。是れ卽ち其の事をなす人のよくするとあしくするとの差別によれり。あしくすれば損あることを見て、よくする者の益あることを捨つべからず。忠功をいたせる人の恩賞にほこりて、誅罰にあふて見て忠功をいたすこと詮なしといふべからず。誅罰にあふことは忠功のとがにはあらず、恩賞にほこりて過分の心を起せる故なり。然らば卽ち恩賞の餘人に勝れたるによりて、たとひほこる心は起るとも、かやう〱の心は身をほろぼし。家をうしなふべき因緣なりと知りて過分のふるまひをせず、いよ〱忠をいたし、功をつまば唯身を立て家を起すのみならず、君のため世のため無窮の巨益あるべし。佛法も亦かくのごとし修行の功つもりて、道德を發する人の有所得の心に住して魔道に入るといふことを聞て、出離の行を退屈せば何れの道に入てか生死を出づべきや。佛法の內は諸宗ことなりといへども、若し有所得の心に住して行德にほこる人は魔道に入る事をのがれがたし。若し一向に佛法を捨てゝ行せずば魔道に入までもなくして、直に三惡道に墮すべし。魔道に入事は佛法修行のとがにはあらず。道德にほこり、慢心を起す故なり。いまだ聖位にのぼらざる人は誰か有所得の心なからんや。たとひ有所得の心は起るとも、かやうの心は皆魔業なりと知りてこれを堅執せず。或は日來にかはれる小智小德ありとも、これを以て足れりとせず。若しいまだ一知一解をうる事なくとも退屈の心を生ぜず。いよ〱修行の功をつまば、本分の靈光忽ちに現前し、無邊の德用自ら成就すべし。たゞ一身の迷倒をひるがへすのみならず、一切衆生を引導する廣大の利益を致すべし。若しよくかくのごとくならば、一切の天魔外道も亦同じく伴侶となりて、佛事の障礙あるべからず、維摩居士の一切衆魔及び諸外道皆な、吾が侍也と說き給へるは此の義なり。

現代語訳

問:僧と俗は違うとはいえ、凡夫の位にいる間は誰も有所得の心を離れてはいない。もしこの有所得の心で修めることがみな魔業となるなら、凡夫の修行が仏道を成就することがあるだろうか。 答:世間の事はみな、損もあり益もある。それは、その事をする人の、うまいまずいの違いによる。まずくすれば損があるのを見て、うまくする者の益を捨ててはならない。忠功を尽くした人が恩賞に驕って誅罰に遭うのを見て、忠功を尽くすことは無意味だと言ってはならない。誅罰に遭うのは忠功の咎ではなく、恩賞に驕って分に過ぎた心を起こしたためである。そうであれば、恩賞が他人より勝ることで驕る心は起こっても、このような心は身を滅ぼし家を失う因縁だと知って、分に過ぎたふるまいをせず、いよいよ忠を尽くし功を積むなら、ただ身を立て家を興すだけでなく、君のため世のために限りない大きな益があるだろう。仏法もまたこのとおりである。修行の功が積もり、道徳が現れた人が、有所得の心にとどまって魔道に入るということを聞いて、迷いを出る修行を怠るなら、どの道に入って生死を出られようか。仏法の内では諸宗は異なるが、もし有所得の心にとどまって行の徳に誇る人は、魔道に入ることをのがれがたい。もしひたすら仏法を捨てて修行しなければ、魔道に入るまでもなく、直ちに三悪道に堕ちる。魔道に入るのは、仏法修行の咎ではない。道徳に誇り、慢心を起こすためである。まだ聖者の位に昇らない人は、誰が有所得の心がないだろうか。たとえ有所得の心が起こっても、このような心はみな魔業だと知って、これに固執せず、あるいは以前と変わった小さな智や徳があっても、それで足れりとせず、あるいはまだ一つの知も一つの理解も得られなくとも、くじける心を生じない。いよいよ修行の功を積むなら、本分の霊光がたちまち現前し、限りない徳のはたらきがおのずから成就するだろう。ただ一身の迷いをひるがえすだけでなく、すべての衆生を導く広大な利益を致すだろう。もしこのようであれば、一切の天魔や外道もまた同じく伴侶となって、仏事の妨げはなくなる。維摩居士が「一切の衆魔と諸々の外道は、みな私の侍者である」と説かれたのは、この意味である。

解説

凡夫は誰も見返りを求める心(有所得)を離れられないなら、修行は成り立たないのではないか、という問いです。夢窓は、忠功の人が恩賞に驕って罰を受けた例を見て、忠を尽くすこと自体をやめるのは筋違いだと答えます。見返りを求める心が起きても、それは魔業と知って固執せず、小さな成果に満足も落胆もせず続ければ、本分の霊光が現れると言います。執着を完全に消すのではなく、気づいて手放し続ける姿勢は、継続的な仕事や学びを支える考え方として読めます。
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この章句が説くこと

有所得魔業慢心本分霊光維摩居士

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