法句経 / 第十九 住法の部 二七一・二七二 意を安んずる勿れ
二七一 我は唯禁戒を持ち、或は復多く學び、又は心の安定を得、或は閑靜處に住みて、 二七二 (此に由つて)凡夫の習はざる出離樂を證せず、比丘よ、未だ心中の穢を盡さずんば意を安んずる勿れ。
新字:二七一 我は唯禁戒を持ち、或は復多く学び、又は心の安定を得、或は閑静処に住みて、 二七二 (此に由つて)凡夫の習はざる出離楽を証せず、比丘よ、未だ心中の穢を尽さずんば意を安んずる勿れ。
書き下し
二七一 我は唯禁戒を持ち、或は復多く学び、又は心の安定を得、或は閑静処に住みて、 二七二 (此に由つて)凡夫の習はざる出離楽を証せず、比丘よ、未だ心中の穢を尽さずんば意を安んずる勿れ。
現代語訳
私はただ禁戒を守っている、あるいは多く学んでいる、あるいは心の安定を得た、あるいは静かな所に住んでいる、と言っても、それによって凡夫の味わったことのない出離(世俗の束縛を離れること)の楽しみを悟るのではない。比丘よ、まだ心の中の汚れを尽くしていないうちは、安心してはならない。
解説
「住法の部」の結びの二偈である。挙げられるのは、戒を守ること、多く学ぶこと、心の安定を得ること、閑静な所に住むこと。どれも修行者にとって大切なもので、否定されているわけではない。だが、それらを積んだことで満足してはならないという。「我は」で始まる一人称が効いている。自分は戒を守っている、よく学んでいる、という自己評価こそが落とし穴になるのである。目指すのは出離の楽、すなわち世俗の束縛から離れた安らぎで、そこへの手段を積み上げたことと、そこに着いたこととは違う。「未だ心中の穢を尽さずんば意を安んずる勿れ」は、名と中身を問い続けてきたこの章の議論を、最後に自分自身へ向け直す。資格を取り、経験を積み、環境を整えた。それで目的に達したのかどうかは別の問いである。
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