夢中問答集 / 『夢中問答集』名利を祈る者にも導きを
問若ししからば世間の名利を祈ることは、一向に制しとゞむべしや。 答名利をいのるを愚なりと申すはけには枇杷のさねをいのり、うしなふ事もかたかるべし、たとひ祈り得てさねもなき枇杷を得たりとも、幾程ながらへてこれを食すべきや。名利を祈る事も亦かくのごとし。定業を祈りて轉せん事もかたかるべし。たとひ祈り得たりとも、幾程かこれをたもつべき世間の愛著いよ〱增長して、當來は必ず惡趣に入べしとても、祈りをするとならば無上道を祈れかしと勸めんためなり。しかれども枇杷のさねをいのる程の愚人はたとひかやうの敎訓によりて、此祈りをとゞめたりとも、さらば、佛神に參りて菩提をいのらんと思ふ心あるべからず。かやうにて一期をすごしなば、佛菩薩に參詣して値遇の緣を結び奉ることも、亦やみぬべし、さればかやうの人には清水に詣で枇杷のさねを祈り申せかしとわざともすゝむべし、制しとゞむる事はあるべからす。密敎の中に調伏息災等の有相の悉地を設くる事は此の謂れなり。大日經に甚深無相の法は愚人及びかたき故に、有相の說を兼存せりと說けるも此意なり。
新字:問若ししからば世間の名利を祈ることは、一向に制しとゞむべしや。 答名利をいのるを愚なりと申すはけには枇杷のさねをいのり、うしなふ事もかたかるべし、たとひ祈り得てさねもなき枇杷を得たりとも、幾程ながらへてこれを食すべきや。名利を祈る事も亦かくのごとし。定業を祈りて転せん事もかたかるべし。たとひ祈り得たりとも、幾程かこれをたもつべき世間の愛著いよ〱增長して、当来は必ず悪趣に入べしとても、祈りをするとならば無上道を祈れかしと勧めんためなり。しかれども枇杷のさねをいのる程の愚人はたとひかやうの教訓によりて、此祈りをとゞめたりとも、さらば、仏神に参りて菩提をいのらんと思ふ心あるべからず。かやうにて一期をすごしなば、仏菩薩に参詣して値遇の縁を結び奉ることも、亦やみぬべし、さればかやうの人には清水に詣で枇杷のさねを祈り申せかしとわざともすゝむべし、制しとゞむる事はあるべからす。密教の中に調伏息災等の有相の悉地を設くる事は此の謂れなり。大日経に甚深無相の法は愚人及びかたき故に、有相の説を兼存せりと説けるも此意なり。
書き下し
問若ししからば世間の名利を祈ることは、一向に制しとゞむべしや。 答名利をいのるを愚なりと申すはけには枇杷のさねをいのり、うしなふ事もかたかるべし、たとひ祈り得てさねもなき枇杷を得たりとも、幾程ながらへてこれを食すべきや。名利を祈る事も亦かくのごとし。定業を祈りて轉せん事もかたかるべし。たとひ祈り得たりとも、幾程かこれをたもつべき世間の愛著いよ〱增長して、當來は必ず惡趣に入べしとても、祈りをするとならば無上道を祈れかしと勸めんためなり。しかれども枇杷のさねをいのる程の愚人はたとひかやうの敎訓によりて、此祈りをとゞめたりとも、さらば、佛神に參りて菩提をいのらんと思ふ心あるべからず。かやうにて一期をすごしなば、佛菩薩に參詣して値遇の緣を結び奉ることも、亦やみぬべし、さればかやうの人には清水に詣で枇杷のさねを祈り申せかしとわざともすゝむべし、制しとゞむる事はあるべからす。密敎の中に調伏息災等の有相の悉地を設くる事は此の謂れなり。大日經に甚深無相の法は愚人及びかたき故に、有相の說を兼存せりと說けるも此意なり。
現代語訳
問:もしそうなら、世間の名利を祈ることは、ひたすら制止すべきなのか。 答:名利を祈るのを愚かだと言うのは、枇杷の種を祈るのと同じで、種をなくすことも難しいからである。たとえ祈って種のない枇杷を得たとしても、いくらの間これを食べられるだろうか。名利を祈ることもまたこのようなものである。定業を祈って転ずることは難しい。たとえ祈り得たとしても、いくらの間これを保てるだろうか。世間への愛着はますます増長し、来世には必ず悪趣に入る。そうであるから、どうせ祈るなら無上の悟りを祈れと勧めたいのである。 しかし、枇杷の種を祈るほどの愚かな人は、たとえこのような教訓によってこの祈りをやめたとしても、それならば仏や神に参って菩提を祈ろうという心は起こらないだろう。こうして一生を過ごせば、仏や菩薩に参詣して巡り会う縁を結ぶことさえもやんでしまう。だからこのような人には、清水に参って枇杷の種を祈りなさいと、わざと勧めるのがよい。制止することはしない。密教の中で調伏や息災などの有相の悉地を設けているのは、こうした訳である。大日経に、甚深で無相の法は愚かな人には及びがたいので、有相の説を併せて残す、と説かれているのも、この意味である。
解説

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