夢中問答集 / 『夢中問答集』有相と無相の本意
問眞言師の中に有相の悉地こそ密敎の本意なれ、無相を貴ぶは顯敎の所談なりと申す人あり其義如何。 答眞實の法理に約せば、有相無相不可有異論迷悟の機情によせてしばらく兩岐を立たり。外道の法の中にも有相無相を論せり。小乘權敎にも亦これをあかせり。實に大乘の中にも又談せり。其語は同じといへ共、其義各ことなり、大日經に甚深無相法と說くるは、顯敎の所談にもあらず。いはんや外道の所解に同じからんや。大日經疏云空下不空と畢竟して無相なり、しかも一切の相を具するを大空三昧となづくと云々。空とは無相なり、不空とは有相なり有相無相共に無相といへるはいかなる處ぞや。此無相の上にしかも一切の相を具すといへるはこれ凡夫所見の有相ならんや。然らば卽密宗所談の無相法といへるは甚深微細の法門なり。凡情の及ぶ處ろにあらず故に、劣慧のかなはざる所と說けり。しかるを無相を貴ぶは眞言の本意にあらずといはんや。若人この無相の法を顯敎所談の無相のやうに心得たらばまことにきらふべし。若し、此の甚深無用の悉地の開きたる人の愚人を誘引せんために調伏等の法を行ふをば、有相の法とてきらふべからず。しかる故は其の行は有相なれ共、其の心無相なればなり。若し其の心世俗の有相に住著して名利を求むる故に、自身のため他人のために、大法祕法を行ふは有相の悉地を成ずることもかたかるべし。いはんや無相の悉地をや、たとへば利劔を以て稚子にあたへぬれば、身をやぶり、命をうしなふことあり。たとひあやまちなけれども、此の劔をもて泥土瓦石を切るほどに劔の刄つゐに損して寶とはならざるがごとし。密宗の先德も此理をのべ給へり。密宗に調伏の法と申すことは、惡心邪見の衆生の心を祕法の力を以て降伏して、佛法の正理に入れしむる事なり。或は佛法のために障礙をなす人のいかにする共、邪心をひるがへすことあるまじきをば先づ彼が命を奪つて、正法をして世に住せしめて後に方便をめぐらして、彼の惡人をも佛法に入しめんためなり。或は人の怨敵によりて心を惱亂して、佛法に入る事あたはぬを見て、彼の敵を調伏して佛法に入れしむることもあり。菩薩のかやうの逆行を修するは皆な是れ興法利生のためなり。世俗の名利のためにはあらず。涅槃經に云く、釋迦如來の因地に國王にていましゝ時、數多の惡僧ありて、一人の正法を行ずる僧をそねみて、さま〱にあだをなす。爾時に國王自ら彼の惡僧と合戰す。
新字:問真言師の中に有相の悉地こそ密教の本意なれ、無相を貴ぶは顕教の所談なりと申す人あり其義如何。 答真実の法理に約せば、有相無相不可有異論迷悟の機情によせてしばらく両岐を立たり。外道の法の中にも有相無相を論せり。小乗権教にも亦これをあかせり。実に大乗の中にも又談せり。其語は同じといへ共、其義各ことなり、大日経に甚深無相法と説くるは、顕教の所談にもあらず。いはんや外道の所解に同じからんや。大日経疏云空下不空と畢竟して無相なり、しかも一切の相を具するを大空三昧となづくと云々。空とは無相なり、不空とは有相なり有相無相共に無相といへるはいかなる処ぞや。此無相の上にしかも一切の相を具すといへるはこれ凡夫所見の有相ならんや。然らば即密宗所談の無相法といへるは甚深微細の法門なり。凡情の及ぶ処ろにあらず故に、劣慧のかなはざる所と説けり。しかるを無相を貴ぶは真言の本意にあらずといはんや。若人この無相の法を顕教所談の無相のやうに心得たらばまことにきらふべし。若し、此の甚深無用の悉地の開きたる人の愚人を誘引せんために調伏等の法を行ふをば、有相の法とてきらふべからず。しかる故は其の行は有相なれ共、其の心無相なればなり。若し其の心世俗の有相に住著して名利を求むる故に、自身のため他人のために、大法秘法を行ふは有相の悉地を成ずることもかたかるべし。いはんや無相の悉地をや、たとへば利剣を以て稚子にあたへぬれば、身をやぶり、命をうしなふことあり。たとひあやまちなけれども、此の剣をもて泥土瓦石を切るほどに剣の刄つゐに損して宝とはならざるがごとし。密宗の先徳も此理をのべ給へり。密宗に調伏の法と申すことは、悪心邪見の衆生の心を秘法の力を以て降伏して、仏法の正理に入れしむる事なり。或は仏法のために障礙をなす人のいかにする共、邪心をひるがへすことあるまじきをば先づ彼が命を奪つて、正法をして世に住せしめて後に方便をめぐらして、彼の悪人をも仏法に入しめんためなり。或は人の怨敵によりて心を悩乱して、仏法に入る事あたはぬを見て、彼の敵を調伏して仏法に入れしむることもあり。菩薩のかやうの逆行を修するは皆な是れ興法利生のためなり。世俗の名利のためにはあらず。涅槃経に云く、釈迦如来の因地に国王にていましゝ時、数多の悪僧ありて、一人の正法を行ずる僧をそねみて、さま〱にあだをなす。爾時に国王自ら彼の悪僧と合戦す。
書き下し
問眞言師の中に有相の悉地こそ密敎の本意なれ、無相を貴ぶは顯敎の所談なりと申す人あり其義如何。 答眞實の法理に約せば、有相無相不可有異論迷悟の機情によせてしばらく兩岐を立たり。外道の法の中にも有相無相を論せり。小乘權敎にも亦これをあかせり。實に大乘の中にも又談せり。其語は同じといへ共、其義各ことなり、大日經に甚深無相法と說くるは、顯敎の所談にもあらず。いはんや外道の所解に同じからんや。大日經疏云空下不空と畢竟して無相なり、しかも一切の相を具するを大空三昧となづくと云々。空とは無相なり、不空とは有相なり有相無相共に無相といへるはいかなる處ぞや。此無相の上にしかも一切の相を具すといへるはこれ凡夫所見の有相ならんや。然らば卽密宗所談の無相法といへるは甚深微細の法門なり。凡情の及ぶ處ろにあらず故に、劣慧のかなはざる所と說けり。しかるを無相を貴ぶは眞言の本意にあらずといはんや。若人この無相の法を顯敎所談の無相のやうに心得たらばまことにきらふべし。若し、此の甚深無用の悉地の開きたる人の愚人を誘引せんために調伏等の法を行ふをば、有相の法とてきらふべからず。しかる故は其の行は有相なれ共、其の心無相なればなり。若し其の心世俗の有相に住著して名利を求むる故に、自身のため他人のために、大法祕法を行ふは有相の悉地を成ずることもかたかるべし。いはんや無相の悉地をや、たとへば利劔を以て稚子にあたへぬれば、身をやぶり、命をうしなふことあり。たとひあやまちなけれども、此の劔をもて泥土瓦石を切るほどに劔の刄つゐに損して寶とはならざるがごとし。密宗の先德も此理をのべ給へり。密宗に調伏の法と申すことは、惡心邪見の衆生の心を祕法の力を以て降伏して、佛法の正理に入れしむる事なり。或は佛法のために障礙をなす人のいかにする共、邪心をひるがへすことあるまじきをば先づ彼が命を奪つて、正法をして世に住せしめて後に方便をめぐらして、彼の惡人をも佛法に入しめんためなり。或は人の怨敵によりて心を惱亂して、佛法に入る事あたはぬを見て、彼の敵を調伏して佛法に入れしむることもあり。菩薩のかやうの逆行を修するは皆な是れ興法利生のためなり。世俗の名利のためにはあらず。涅槃經に云く、釋迦如來の因地に國王にていましゝ時、數多の惡僧ありて、一人の正法を行ずる僧をそねみて、さま〱にあだをなす。爾時に國王自ら彼の惡僧と合戰す。
現代語訳
問:真言の師の中には、有相の悉地こそ密教の本意であり、無相を貴ぶのは顕教で語ることだ、と言う人がいる。その意味はどうか。 答:真実の法理から言えば、有相と無相に異論はあり得ない。迷いと悟りの機根や心に応じて、しばらく二つの道を立てているのである。外道の教えの中にも有相と無相を論じる。小乗や権教にもこれを説く。実教である大乗の中にもまた論じる。その言葉は同じでも、その意味はそれぞれ異なる。大日経に甚深無相の法と説くのは、顕教で語る無相ではない。まして外道の理解と同じではない。 大日経疏に、空の下に不空があり、最終的に無相であって、しかもあらゆる相を備えているのを大空三昧と名づける、とある。空とは無相であり、不空とは有相である。有相も無相もともに無相だというのはどういうところか。この無相の上にあらゆる相を備えるというのは、凡夫が見る有相であろうか。だとすれば、密宗で語る無相の法とは、甚深で微細な法門である。凡夫の情の及ぶところではない。だから、劣った智慧では及ばないところと説いているのである。それなのに、無相を貴ぶのは真言の本意ではないと言えようか。 もし人がこの無相の法を、顕教で語る無相のように理解したなら、たしかに嫌うべきである。もしこの甚深無用の悉地が開けた人が、愚かな人を誘い導くために調伏などの法を行うなら、有相の法だといって嫌ってはならない。なぜなら、その行は有相でも、その心は無相だからである。もしその心が世俗の有相に執着して名利を求めるために、自身のため他人のために大法や秘法を行うなら、有相の悉地を成就することさえ難しいだろう。まして無相の悉地は言うまでもない。たとえば、鋭い剣を幼子に与えると、身を傷つけ命を失うことがある。たとえ過ちがなくても、その剣で泥や土、瓦や石を切るうちに、剣の刃はついに損なわれて宝ではなくなる。密宗の先徳もこの理を述べておられる。 密宗で調伏の法というのは、悪心や邪見を持つ衆生の心を、秘法の力で降伏させ、仏法の正しい理に入らせることである。あるいは、仏法の妨げをする人が、どうしても邪な心をひるがえすことがないときは、まずその命を奪って正法を世に存続させ、その後に方便をめぐらして、その悪人をも仏法に入らせようとするためである。あるいは、人が怨敵によって心を悩まされて仏法に入れないのを見て、その敵を調伏して仏法に入らせることもある。菩薩がこのような逆の行を修めるのは、すべて法を興し衆生を利するためである。世俗の名利のためではない。 涅槃経に説かれている。釈迦如来がまだ修行の因位におられたとき国王であった。多くの悪僧がいて、一人の正法を行う僧を妬み、さまざまに怨みをなした。そのとき国王は自ら、その悪僧たちと合戦した。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』一心三密の観法をも許さず問大乘敎の中に或は行者の一念について、三諦の觀行を修せしめ、或は行者の當體について、三密の加持を作しむ。かやうの法門は皆身心の所作なればいたづら事と申すべしや。 答佛事門の中には、有漏の戒善小乘の修行をも拾つる事なし。况んや顯密大乘の深旨をや、しかれ共衆生を化導する各の方便門は其差別なきにあらず。禪門の宗師の手段いかでか敎門と同じからんや。敎門は生佛すでにわかれたる處について、衆生を引導して、佛境界に入らしむる法門を設けたり。禪門は生佛いまだわかれざる本分の田地に直に到らしめんとす。然らば卽ち身口意業の修行をも論ぜず。一心三密の觀法をもゆるさず。三祖大師の云く、心を用ふるは大なる錯なり。古德の云く、無用心の處これ諸佛用心の處なりと云云。
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夢中問答集・『夢中問答集』教外別伝は思い込みか(一)問敎者の中に禪宗を難じて云く、佛說にもよらず、義理をもたゞさず、敎外別傳と號して、胸臆の說をほしいまゝにす信じ用ふるにたらずと云云、其の謂れあることやらん。 答かやうに申すことは、たゞ敎の文字を學して、敎の本意をしらざる人なり、若し佛の敎門を設け玉へる本意をしらばかならず、敎外別傳を信ずべし。これを眞實の敎者とは申すなり。楞伽經に云く、始め鹿野苑より終り、跋提河に至るまで、其の二中間においていまだかつて一字をもとかずと云云、若し此の經文によらば、一代の敎法とて實に有と執著すべしや、像法決疑經に云く、文のごとく義をとる者は、三世の諸佛のあだなりと云云。經論の文にまかせて義理を論ずる事、何ぞ佛意にかなはんや。圓覺經に云く、修多羅の敎は月をさすゆびの如しと云云。指を以て月をさす事は人をして、直に月を見せしめんためなりもし其の指に目をつけたる人は月をみる事あたはず、贍さへ其の指の長短を論じ大小を諍ふ、實に是れ迷ひ中の迷ひなり、古の敎家の先德は皆佛の本意を悟り玉へる故に、敎の指にかゝはらず、しかれ共中下の機根の直に月を見る事あたはざる者のために假りに敎の指を用ひ玉へり。然らば卽ち其本意をあらはさんために、法相の廢詮三論の聖默天台の妙旨花嚴の果分とて、諸宗に皆言說も及ばず、思慮も到らざる法門を立られたり、密宗には顯敎の無言無說と談ずるをば、猶是れ遮情の法門なりときらふて、其の上に如義言說を談ず。如義言說といへるは、有言無言の域を超出して、三世常恒に談ずる所の祕密不思議の言說なり、妄執言說等のごとく心得べきにあらず、是故に至極深祕の處には我れ本と言ある事なし、たゞ利益のために說くといへる經文あり、大日經の疏に云く、如來自證の境は觀る者も見ることなく、說く者も言なし、言語を以て人に授くべからず、傳敎大師の弘法大師の御もとへ、理趣釋を借り申させ玉ひける御返事に云、祕藏の奥旨は文字の傳ふるところにあらず、只是れ心を以て心に傳ふるのみなり、文字は是糟粕、文字は是れ瓦礫と云云。敎文の本意も文字語言の上にあらざること分明なり、敎外別傳といへること、何ぞ胸臆の說ならんや。傳敎大師內證佛法相承血脈の譜に云く、達磨大師付法相承師々の血脈一首天台法花宗の相承、師々の血脈一首天台圓頓菩薩戒の相承、師々の血脈一首胎藏金剛兩曼茶羅の相承、師々の血脈一首と云云。