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夢中問答集 / 『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(一)

問佛菩薩は皆一切衆生の願を滿給はんといふ誓あり。たとひ衆生の方より祈求めずとも、苦みある者をばこれをぬきて樂をあたへ給ふべし。しかるに末代のやうをみれば。心をつくして祈れ共かなふ事のまれなることは何ぞや。 答予三十年の前きに此の疑の起る事ありき、常州臼庭といふ所に獨住せし時、五月の始め庵外に遊行す、其の頃ひさしく雨ふらす、田畠みな枯野のごとし、これを見てあはれむ心ふかく起れり。心中に思ふやうなどか龍王にこれをあはれむ心のなかるらん。其時、又うちかへして思ふやう。龍王は雨をふらす能はあれども、人をあはれむ心なし。我れには人をあはれむ心はあれ共、雨をふらす德なし。佛菩薩は雨をふらす德も、龍王にすぐれ人をあはれむ心も我よりふかゝるべし。しかれ共かやうの厄難をたすけ給はぬことは、何ぞや若し衆生の業報つたなき故に佛の利益もかなはぬと、いはゞ凡夫の苦にあふことは皆業報の故なり。若し業報をばたすくべからざることならば、佛菩薩の凡夫の願ひを滿ち給ふといふこと虛言なるべし。若し又聖敎にあかすこと何ぞ虛言ならんやといはゞ古はしらず、今をみるに貴賤上下誰れこそ所願滿足せりとみゆる人もなし。藥師如來は衆生の病を除滅せんと誓ひ給へども、世間をみるに病者ならぬ人はすくなし。普賢菩薩は一切衆生に隨順して給使せんと誓給へども、世間をみれば從ふ者一人もなくしていやしき人も多し。たま〱眷屬はあまたあれども、誰こそ普賢かとおほしくて主人の心にかなへる人もなし。上代は大師高僧出世して靈驗をほどこし、衆生の厄難をすくひ給ひき。古は世も上代にて人の果報もいみじかりしかば、たとひ大師高僧の靈驗をほどこし給はずともありぬべし。今は世もいよ〱濁惡になりぬ人も亦、薄福なりかやうの時こそ、ことさらに靈驗まします大師高僧も大切なるに、或は入滅、或は入定とて出現し給はぬことは何ぞや。かやうの疑さま〱に起れり。しかれどもさせる一大事の因緣ならねば打捨て心にかけず。其の後一兩月をへていさゝか思出づる事あり。昔西行江口といふ宿にてやどをかりけるに、あるじの君ゆるさず。西行一首の謌をすさめり。世の中をいとふまでこそかたからぬかりのやどりをおしむ君かな。家主これを聞て、世をいとふ人としきけばかりのやどに心とむなと思ふばかりぞと詠じけり。つねさまになさけといへる事は皆妄執をとゞむる因緣なり。されば人のなさけもなく、世の意にかなはぬ事は出離生死のたすけとなるべし。昔洛陽に外典の才學拔群なる人ありき、其の子の小童を膝もとにをきて文をならはしむ。我が身の出仕する時は此の小童の一身坐するやうなる構をして、繩にて梁につりあげて文をあづけてよましめけり。其繼母なりける人、此の小童をあはれみて、父の他行しけるあとには、いだきおろして暫時あり、はじめて父の歸り來るべき時節には本のごとく坐せしむ。彼小童の心に父のいましめはうらめしく、繼母のなさけのうれしき事限りなし。成長の後、日來の稽古によりて、つゐに家業を續で辨官にめしつかはる。

新字:問仏菩薩は皆一切衆生の願を満給はんといふ誓あり。たとひ衆生の方より祈求めずとも、苦みある者をばこれをぬきて楽をあたへ給ふべし。しかるに末代のやうをみれば。心をつくして祈れ共かなふ事のまれなることは何ぞや。 答予三十年の前きに此の疑の起る事ありき、常州臼庭といふ所に独住せし時、五月の始め庵外に遊行す、其の頃ひさしく雨ふらす、田畠みな枯野のごとし、これを見てあはれむ心ふかく起れり。心中に思ふやうなどか竜王にこれをあはれむ心のなかるらん。其時、又うちかへして思ふやう。竜王は雨をふらす能はあれども、人をあはれむ心なし。我れには人をあはれむ心はあれ共、雨をふらす徳なし。仏菩薩は雨をふらす徳も、竜王にすぐれ人をあはれむ心も我よりふかゝるべし。しかれ共かやうの厄難をたすけ給はぬことは、何ぞや若し衆生の業報つたなき故に仏の利益もかなはぬと、いはゞ凡夫の苦にあふことは皆業報の故なり。若し業報をばたすくべからざることならば、仏菩薩の凡夫の願ひを満ち給ふといふこと虚言なるべし。若し又聖教にあかすこと何ぞ虚言ならんやといはゞ古はしらず、今をみるに貴賤上下誰れこそ所願満足せりとみゆる人もなし。薬師如来は衆生の病を除滅せんと誓ひ給へども、世間をみるに病者ならぬ人はすくなし。普賢菩薩は一切衆生に随順して給使せんと誓給へども、世間をみれば従ふ者一人もなくしていやしき人も多し。たま〱眷属はあまたあれども、誰こそ普賢かとおほしくて主人の心にかなへる人もなし。上代は大師高僧出世して霊験をほどこし、衆生の厄難をすくひ給ひき。古は世も上代にて人の果報もいみじかりしかば、たとひ大師高僧の霊験をほどこし給はずともありぬべし。今は世もいよ〱濁悪になりぬ人も亦、薄福なりかやうの時こそ、ことさらに霊験まします大師高僧も大切なるに、或は入滅、或は入定とて出現し給はぬことは何ぞや。かやうの疑さま〱に起れり。しかれどもさせる一大事の因縁ならねば打捨て心にかけず。其の後一両月をへていさゝか思出づる事あり。昔西行江口といふ宿にてやどをかりけるに、あるじの君ゆるさず。西行一首の謌をすさめり。世の中をいとふまでこそかたからぬかりのやどりをおしむ君かな。家主これを聞て、世をいとふ人としきけばかりのやどに心とむなと思ふばかりぞと詠じけり。つねさまになさけといへる事は皆妄執をとゞむる因縁なり。されば人のなさけもなく、世の意にかなはぬ事は出離生死のたすけとなるべし。昔洛陽に外典の才学抜群なる人ありき、其の子の小童を膝もとにをきて文をならはしむ。我が身の出仕する時は此の小童の一身坐するやうなる構をして、縄にて梁につりあげて文をあづけてよましめけり。其継母なりける人、此の小童をあはれみて、父の他行しけるあとには、いだきおろして暫時あり、はじめて父の帰り来るべき時節には本のごとく坐せしむ。彼小童の心に父のいましめはうらめしく、継母のなさけのうれしき事限りなし。成長の後、日来の稽古によりて、つゐに家業を続で弁官にめしつかはる。

書き下し

問佛菩薩は皆一切衆生の願を滿給はんといふ誓あり。たとひ衆生の方より祈求めずとも、苦みある者をばこれをぬきて樂をあたへ給ふべし。しかるに末代のやうをみれば。心をつくして祈れ共かなふ事のまれなることは何ぞや。 答予三十年の前きに此の疑の起る事ありき、常州臼庭といふ所に獨住せし時、五月の始め庵外に遊行す、其の頃ひさしく雨ふらす、田畠みな枯野のごとし、これを見てあはれむ心ふかく起れり。心中に思ふやうなどか龍王にこれをあはれむ心のなかるらん。其時、又うちかへして思ふやう。龍王は雨をふらす能はあれども、人をあはれむ心なし。我れには人をあはれむ心はあれ共、雨をふらす德なし。佛菩薩は雨をふらす德も、龍王にすぐれ人をあはれむ心も我よりふかゝるべし。しかれ共かやうの厄難をたすけ給はぬことは、何ぞや若し衆生の業報つたなき故に佛の利益もかなはぬと、いはゞ凡夫の苦にあふことは皆業報の故なり。若し業報をばたすくべからざることならば、佛菩薩の凡夫の願ひを滿ち給ふといふこと虛言なるべし。若し又聖敎にあかすこと何ぞ虛言ならんやといはゞ古はしらず、今をみるに貴賤上下誰れこそ所願滿足せりとみゆる人もなし。藥師如來は衆生の病を除滅せんと誓ひ給へども、世間をみるに病者ならぬ人はすくなし。普賢菩薩は一切衆生に隨順して給使せんと誓給へども、世間をみれば從ふ者一人もなくしていやしき人も多し。たま〱眷屬はあまたあれども、誰こそ普賢かとおほしくて主人の心にかなへる人もなし。上代は大師高僧出世して靈驗をほどこし、衆生の厄難をすくひ給ひき。古は世も上代にて人の果報もいみじかりしかば、たとひ大師高僧の靈驗をほどこし給はずともありぬべし。今は世もいよ〱濁惡になりぬ人も亦、薄福なりかやうの時こそ、ことさらに靈驗まします大師高僧も大切なるに、或は入滅、或は入定とて出現し給はぬことは何ぞや。かやうの疑さま〱に起れり。しかれどもさせる一大事の因緣ならねば打捨て心にかけず。其の後一兩月をへていさゝか思出づる事あり。昔西行江口といふ宿にてやどをかりけるに、あるじの君ゆるさず。西行一首の謌をすさめり。世の中をいとふまでこそかたからぬかりのやどりをおしむ君かな。家主これを聞て、世をいとふ人としきけばかりのやどに心とむなと思ふばかりぞと詠じけり。つねさまになさけといへる事は皆妄執をとゞむる因緣なり。されば人のなさけもなく、世の意にかなはぬ事は出離生死のたすけとなるべし。昔洛陽に外典の才學拔群なる人ありき、其の子の小童を膝もとにをきて文をならはしむ。我が身の出仕する時は此の小童の一身坐するやうなる構をして、繩にて梁につりあげて文をあづけてよましめけり。其繼母なりける人、此の小童をあはれみて、父の他行しけるあとには、いだきおろして暫時あり、はじめて父の歸り來るべき時節には本のごとく坐せしむ。彼小童の心に父のいましめはうらめしく、繼母のなさけのうれしき事限りなし。成長の後、日來の稽古によりて、つゐに家業を續で辨官にめしつかはる。

現代語訳

問:仏や菩薩はみな、一切の衆生の願いを満たそうという誓いを立てておられる。衆生のほうから祈り求めなくても、苦しむ者の苦を抜いて楽を与えてくださるはずだ。ところが末世の様子を見ると、心を尽くして祈っても叶うことが稀なのはどういうわけか。 答:私は三十年前に、この疑いを抱いたことがあった。常陸国の臼庭というところに一人で住んでいたとき、五月の初めに庵の外を歩いた。そのころは長く雨が降らず、田畑はみな枯れ野のようだった。これを見て深く哀れむ心が起こった。心の中で、どうして龍王にはこれを哀れむ心がないのだろうと思った。そのとき、また思い返した。龍王には雨を降らせる力はあるが、人を哀れむ心がない。私には人を哀れむ心はあるが、雨を降らせる徳がない。仏や菩薩は、雨を降らせる徳も龍王に勝り、人を哀れむ心も私より深いはずである。それなのにこうした災難をお助けくださらないのは、なぜか。 もし衆生の業報が拙いので仏の利益も及ばないと言うなら、凡夫が苦に遭うのはすべて業報のせいである。もし業報を助けることができないのなら、仏や菩薩が凡夫の願いを満たすというのは嘘になる。また、聖教の説くことがどうして嘘であろうかと言うなら、昔のことは知らないが、今を見ると、身分の高い者も低い者も、誰一人として願いが満たされたと見える人はいない。薬師如来は衆生の病を除こうと誓われたが、世間を見ると病のない人は少ない。普賢菩薩は一切衆生に従って仕えようと誓われたが、世間を見ると従う者は一人もおらず、賤しい人も多い。たまたま従者は大勢いても、あれが普賢かと思われるような、主人の心にかなう人もいない。 上代には大師や高僧が世に出て霊験を施し、衆生の災難を救われた。昔は世も上代で人の果報も優れていたから、大師や高僧が霊験を施されなくてもよかったであろう。今は世がますます濁り悪くなり、人も福が薄い。こういう時こそ、とりわけ霊験のある大師や高僧が大切なのに、入滅されたとか入定されたとかで現れてくださらないのは、なぜか。こうしたさまざまな疑いが起こった。しかし、さほどの一大事でもないので、打ち捨てて心にかけなかった。 その後、一、二か月経って、ふと思い出したことがあった。昔、西行が江口という宿で宿を借りようとしたところ、主の女性が許さなかった。西行は一首の歌を詠んだ。世の中を厭うことまでは難しくない、仮の宿を惜しむあなたであることよ。主人はこれを聞いて、世を厭う人と聞けば、仮の宿に心を留めるなと思うだけです、と詠み返した。つねづね、人の情けというものは、すべて妄執をとどめる因縁である。だから人の情けがなく、世の思いにかなわないことは、生死から離れる助けとなるのだろう。 昔、洛陽に漢籍の才学が抜きん出た人がいた。その子の幼い子供を膝元に置いて文を習わせた。自分が出仕するときは、この幼子が座っているような形にして縄で梁に吊り上げ、書物を預けて読ませた。その継母は幼子を哀れんで、父が出かけた後には抱き下ろして少し休ませ、父が帰る時刻になると元のように座らせた。その幼子の心には、父の戒めは恨めしく、継母の情けは限りなく嬉しかった。成長してから、日頃の稽古のおかげで、ついに家業を継いで弁官に召し使われた。

解説

祈っても叶わないのはなぜか、という疑いを、夢窓疎石は自分自身の三十年前の疑問として語り始めます。雨の降らない田畑を前に、龍王にも自分にも足りないものがあるが、仏菩薩には力も慈悲もあるはずだと考え抜いた経験です。その答えの入り口が、西行と江口の遊女の歌の応酬と、父に縄で吊られた子の話で、情けが妄執を深め、厳しさが益になる場合があることを示します。願いの不成就を失敗とだけ見ず、自分の見方を問い直すきっかけにする姿勢は、現代の仕事の挫折にも通じます。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

祈り霊験慈悲西行江口継母の情

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