夢中問答集 / 『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(一)
問佛菩薩は皆一切衆生の願を滿給はんといふ誓あり。たとひ衆生の方より祈求めずとも、苦みある者をばこれをぬきて樂をあたへ給ふべし。しかるに末代のやうをみれば。心をつくして祈れ共かなふ事のまれなることは何ぞや。 答予三十年の前きに此の疑の起る事ありき、常州臼庭といふ所に獨住せし時、五月の始め庵外に遊行す、其の頃ひさしく雨ふらす、田畠みな枯野のごとし、これを見てあはれむ心ふかく起れり。心中に思ふやうなどか龍王にこれをあはれむ心のなかるらん。其時、又うちかへして思ふやう。龍王は雨をふらす能はあれども、人をあはれむ心なし。我れには人をあはれむ心はあれ共、雨をふらす德なし。佛菩薩は雨をふらす德も、龍王にすぐれ人をあはれむ心も我よりふかゝるべし。しかれ共かやうの厄難をたすけ給はぬことは、何ぞや若し衆生の業報つたなき故に佛の利益もかなはぬと、いはゞ凡夫の苦にあふことは皆業報の故なり。若し業報をばたすくべからざることならば、佛菩薩の凡夫の願ひを滿ち給ふといふこと虛言なるべし。若し又聖敎にあかすこと何ぞ虛言ならんやといはゞ古はしらず、今をみるに貴賤上下誰れこそ所願滿足せりとみゆる人もなし。藥師如來は衆生の病を除滅せんと誓ひ給へども、世間をみるに病者ならぬ人はすくなし。普賢菩薩は一切衆生に隨順して給使せんと誓給へども、世間をみれば從ふ者一人もなくしていやしき人も多し。たま〱眷屬はあまたあれども、誰こそ普賢かとおほしくて主人の心にかなへる人もなし。上代は大師高僧出世して靈驗をほどこし、衆生の厄難をすくひ給ひき。古は世も上代にて人の果報もいみじかりしかば、たとひ大師高僧の靈驗をほどこし給はずともありぬべし。今は世もいよ〱濁惡になりぬ人も亦、薄福なりかやうの時こそ、ことさらに靈驗まします大師高僧も大切なるに、或は入滅、或は入定とて出現し給はぬことは何ぞや。かやうの疑さま〱に起れり。しかれどもさせる一大事の因緣ならねば打捨て心にかけず。其の後一兩月をへていさゝか思出づる事あり。昔西行江口といふ宿にてやどをかりけるに、あるじの君ゆるさず。西行一首の謌をすさめり。世の中をいとふまでこそかたからぬかりのやどりをおしむ君かな。家主これを聞て、世をいとふ人としきけばかりのやどに心とむなと思ふばかりぞと詠じけり。つねさまになさけといへる事は皆妄執をとゞむる因緣なり。されば人のなさけもなく、世の意にかなはぬ事は出離生死のたすけとなるべし。昔洛陽に外典の才學拔群なる人ありき、其の子の小童を膝もとにをきて文をならはしむ。我が身の出仕する時は此の小童の一身坐するやうなる構をして、繩にて梁につりあげて文をあづけてよましめけり。其繼母なりける人、此の小童をあはれみて、父の他行しけるあとには、いだきおろして暫時あり、はじめて父の歸り來るべき時節には本のごとく坐せしむ。彼小童の心に父のいましめはうらめしく、繼母のなさけのうれしき事限りなし。成長の後、日來の稽古によりて、つゐに家業を續で辨官にめしつかはる。
新字:問仏菩薩は皆一切衆生の願を満給はんといふ誓あり。たとひ衆生の方より祈求めずとも、苦みある者をばこれをぬきて楽をあたへ給ふべし。しかるに末代のやうをみれば。心をつくして祈れ共かなふ事のまれなることは何ぞや。 答予三十年の前きに此の疑の起る事ありき、常州臼庭といふ所に独住せし時、五月の始め庵外に遊行す、其の頃ひさしく雨ふらす、田畠みな枯野のごとし、これを見てあはれむ心ふかく起れり。心中に思ふやうなどか竜王にこれをあはれむ心のなかるらん。其時、又うちかへして思ふやう。竜王は雨をふらす能はあれども、人をあはれむ心なし。我れには人をあはれむ心はあれ共、雨をふらす徳なし。仏菩薩は雨をふらす徳も、竜王にすぐれ人をあはれむ心も我よりふかゝるべし。しかれ共かやうの厄難をたすけ給はぬことは、何ぞや若し衆生の業報つたなき故に仏の利益もかなはぬと、いはゞ凡夫の苦にあふことは皆業報の故なり。若し業報をばたすくべからざることならば、仏菩薩の凡夫の願ひを満ち給ふといふこと虚言なるべし。若し又聖教にあかすこと何ぞ虚言ならんやといはゞ古はしらず、今をみるに貴賤上下誰れこそ所願満足せりとみゆる人もなし。薬師如来は衆生の病を除滅せんと誓ひ給へども、世間をみるに病者ならぬ人はすくなし。普賢菩薩は一切衆生に随順して給使せんと誓給へども、世間をみれば従ふ者一人もなくしていやしき人も多し。たま〱眷属はあまたあれども、誰こそ普賢かとおほしくて主人の心にかなへる人もなし。上代は大師高僧出世して霊験をほどこし、衆生の厄難をすくひ給ひき。古は世も上代にて人の果報もいみじかりしかば、たとひ大師高僧の霊験をほどこし給はずともありぬべし。今は世もいよ〱濁悪になりぬ人も亦、薄福なりかやうの時こそ、ことさらに霊験まします大師高僧も大切なるに、或は入滅、或は入定とて出現し給はぬことは何ぞや。かやうの疑さま〱に起れり。しかれどもさせる一大事の因縁ならねば打捨て心にかけず。其の後一両月をへていさゝか思出づる事あり。昔西行江口といふ宿にてやどをかりけるに、あるじの君ゆるさず。西行一首の謌をすさめり。世の中をいとふまでこそかたからぬかりのやどりをおしむ君かな。家主これを聞て、世をいとふ人としきけばかりのやどに心とむなと思ふばかりぞと詠じけり。つねさまになさけといへる事は皆妄執をとゞむる因縁なり。されば人のなさけもなく、世の意にかなはぬ事は出離生死のたすけとなるべし。昔洛陽に外典の才学抜群なる人ありき、其の子の小童を膝もとにをきて文をならはしむ。我が身の出仕する時は此の小童の一身坐するやうなる構をして、縄にて梁につりあげて文をあづけてよましめけり。其継母なりける人、此の小童をあはれみて、父の他行しけるあとには、いだきおろして暫時あり、はじめて父の帰り来るべき時節には本のごとく坐せしむ。彼小童の心に父のいましめはうらめしく、継母のなさけのうれしき事限りなし。成長の後、日来の稽古によりて、つゐに家業を続で弁官にめしつかはる。
書き下し
問佛菩薩は皆一切衆生の願を滿給はんといふ誓あり。たとひ衆生の方より祈求めずとも、苦みある者をばこれをぬきて樂をあたへ給ふべし。しかるに末代のやうをみれば。心をつくして祈れ共かなふ事のまれなることは何ぞや。 答予三十年の前きに此の疑の起る事ありき、常州臼庭といふ所に獨住せし時、五月の始め庵外に遊行す、其の頃ひさしく雨ふらす、田畠みな枯野のごとし、これを見てあはれむ心ふかく起れり。心中に思ふやうなどか龍王にこれをあはれむ心のなかるらん。其時、又うちかへして思ふやう。龍王は雨をふらす能はあれども、人をあはれむ心なし。我れには人をあはれむ心はあれ共、雨をふらす德なし。佛菩薩は雨をふらす德も、龍王にすぐれ人をあはれむ心も我よりふかゝるべし。しかれ共かやうの厄難をたすけ給はぬことは、何ぞや若し衆生の業報つたなき故に佛の利益もかなはぬと、いはゞ凡夫の苦にあふことは皆業報の故なり。若し業報をばたすくべからざることならば、佛菩薩の凡夫の願ひを滿ち給ふといふこと虛言なるべし。若し又聖敎にあかすこと何ぞ虛言ならんやといはゞ古はしらず、今をみるに貴賤上下誰れこそ所願滿足せりとみゆる人もなし。藥師如來は衆生の病を除滅せんと誓ひ給へども、世間をみるに病者ならぬ人はすくなし。普賢菩薩は一切衆生に隨順して給使せんと誓給へども、世間をみれば從ふ者一人もなくしていやしき人も多し。たま〱眷屬はあまたあれども、誰こそ普賢かとおほしくて主人の心にかなへる人もなし。上代は大師高僧出世して靈驗をほどこし、衆生の厄難をすくひ給ひき。古は世も上代にて人の果報もいみじかりしかば、たとひ大師高僧の靈驗をほどこし給はずともありぬべし。今は世もいよ〱濁惡になりぬ人も亦、薄福なりかやうの時こそ、ことさらに靈驗まします大師高僧も大切なるに、或は入滅、或は入定とて出現し給はぬことは何ぞや。かやうの疑さま〱に起れり。しかれどもさせる一大事の因緣ならねば打捨て心にかけず。其の後一兩月をへていさゝか思出づる事あり。昔西行江口といふ宿にてやどをかりけるに、あるじの君ゆるさず。西行一首の謌をすさめり。世の中をいとふまでこそかたからぬかりのやどりをおしむ君かな。家主これを聞て、世をいとふ人としきけばかりのやどに心とむなと思ふばかりぞと詠じけり。つねさまになさけといへる事は皆妄執をとゞむる因緣なり。されば人のなさけもなく、世の意にかなはぬ事は出離生死のたすけとなるべし。昔洛陽に外典の才學拔群なる人ありき、其の子の小童を膝もとにをきて文をならはしむ。我が身の出仕する時は此の小童の一身坐するやうなる構をして、繩にて梁につりあげて文をあづけてよましめけり。其繼母なりける人、此の小童をあはれみて、父の他行しけるあとには、いだきおろして暫時あり、はじめて父の歸り來るべき時節には本のごとく坐せしむ。彼小童の心に父のいましめはうらめしく、繼母のなさけのうれしき事限りなし。成長の後、日來の稽古によりて、つゐに家業を續で辨官にめしつかはる。
現代語訳
問:仏や菩薩はみな、一切の衆生の願いを満たそうという誓いを立てておられる。衆生のほうから祈り求めなくても、苦しむ者の苦を抜いて楽を与えてくださるはずだ。ところが末世の様子を見ると、心を尽くして祈っても叶うことが稀なのはどういうわけか。 答:私は三十年前に、この疑いを抱いたことがあった。常陸国の臼庭というところに一人で住んでいたとき、五月の初めに庵の外を歩いた。そのころは長く雨が降らず、田畑はみな枯れ野のようだった。これを見て深く哀れむ心が起こった。心の中で、どうして龍王にはこれを哀れむ心がないのだろうと思った。そのとき、また思い返した。龍王には雨を降らせる力はあるが、人を哀れむ心がない。私には人を哀れむ心はあるが、雨を降らせる徳がない。仏や菩薩は、雨を降らせる徳も龍王に勝り、人を哀れむ心も私より深いはずである。それなのにこうした災難をお助けくださらないのは、なぜか。 もし衆生の業報が拙いので仏の利益も及ばないと言うなら、凡夫が苦に遭うのはすべて業報のせいである。もし業報を助けることができないのなら、仏や菩薩が凡夫の願いを満たすというのは嘘になる。また、聖教の説くことがどうして嘘であろうかと言うなら、昔のことは知らないが、今を見ると、身分の高い者も低い者も、誰一人として願いが満たされたと見える人はいない。薬師如来は衆生の病を除こうと誓われたが、世間を見ると病のない人は少ない。普賢菩薩は一切衆生に従って仕えようと誓われたが、世間を見ると従う者は一人もおらず、賤しい人も多い。たまたま従者は大勢いても、あれが普賢かと思われるような、主人の心にかなう人もいない。 上代には大師や高僧が世に出て霊験を施し、衆生の災難を救われた。昔は世も上代で人の果報も優れていたから、大師や高僧が霊験を施されなくてもよかったであろう。今は世がますます濁り悪くなり、人も福が薄い。こういう時こそ、とりわけ霊験のある大師や高僧が大切なのに、入滅されたとか入定されたとかで現れてくださらないのは、なぜか。こうしたさまざまな疑いが起こった。しかし、さほどの一大事でもないので、打ち捨てて心にかけなかった。 その後、一、二か月経って、ふと思い出したことがあった。昔、西行が江口という宿で宿を借りようとしたところ、主の女性が許さなかった。西行は一首の歌を詠んだ。世の中を厭うことまでは難しくない、仮の宿を惜しむあなたであることよ。主人はこれを聞いて、世を厭う人と聞けば、仮の宿に心を留めるなと思うだけです、と詠み返した。つねづね、人の情けというものは、すべて妄執をとどめる因縁である。だから人の情けがなく、世の思いにかなわないことは、生死から離れる助けとなるのだろう。 昔、洛陽に漢籍の才学が抜きん出た人がいた。その子の幼い子供を膝元に置いて文を習わせた。自分が出仕するときは、この幼子が座っているような形にして縄で梁に吊り上げ、書物を預けて読ませた。その継母は幼子を哀れんで、父が出かけた後には抱き下ろして少し休ませ、父が帰る時刻になると元のように座らせた。その幼子の心には、父の戒めは恨めしく、継母の情けは限りなく嬉しかった。成長してから、日頃の稽古のおかげで、ついに家業を継いで弁官に召し使われた。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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夢中問答集・『夢中問答集』後世を祈る愚かさ問今生の名利を祈るこそ愚なれ、後生の果報をいのらんはかしこしといはんや。 答よのつね人の今生と思へるは前世に後生と思ひし世なり。今ま又後生と思へる世は、後世の今生なるべし。然らば卽ち前世に後生の祈りをせしことは今生の名利となりにけり、今又後生の祈りとてすることも、後生の名利となるべし。今生の名利を祈るを制することは、今生の夢のごとくなる名利をいのらんよりは當來に無上道を成せんことを祈れかしとすゝむるなり。今生の名利をばうちすてゝ、當來の名利をいのる人は、前世の業因にこたへたる定業の轉じがたきをもしやと祈る人よりもかしこきには似たれ共、夢幻の身心を執著して來生の果報をいのる意の愚癡なる事は亦同じ。たとひ無上道を祈るとも、若し又一身の出離のためならば是も亦愚癡なり。大論に云く、菩薩は一身一衆生のために善根をなさずと云々。されば一切衆生のために、諸の善根を修め、無上道を求むるを菩薩とは申すなり。普賢菩薩十大願を發し給へり。其の初に敬禮諸佛の願あり、其の文に云く、願はくば我が身を無量無邊に分けて、無量無邊の如來の前へことに影現して禮拜し奉ること、盡未來際念々相續して間斷なかるべし。又廣修供養の願あり、其の文に云く、願はくば無邊の妙供を出生して、無邊の佛の前に身を現じて、無邊の佛を供養し奉ること、盡未來際間斷なかるべし餘願も皆此の趣なり。第九は恆順衆生の願なり。其の文に云く、願はくば我が身を無量無邊に分けて、一切衆生に隨順して給使すること佛を敬ふことならず、盡未來際間斷なかるべし。第十は普皆廻向の願なり。其の文に云く、前に修する所の敬禮供養等の功德を普く皆一切衆生に廻向して、菩提を成ぜしむべしと云々。かやうの心を發すを無上道を祈る人とは申すなり。愚人はたまたま佛を禮すれ共、其の心たゞ我が信ずる一佛のみにあり、供養をのぶる事も又此の心なり。たま〱父母の追善檀那の祈禱とてなすことも、其の志偏に是我が身にむけて恩ある人のためなり。法界衆生に及ぼすこともなし。この故に所得の功德廣大ならず、時にあたり緣に隨つて一佛を禮し、一人のために善をなせども、其の廻向の心廣大なれば、うくるところの功德も又廣大なるべし。俗典には三世をさたせぬ故に、たゞ現在の父母主君の恩を報ずることばかりを申したり。經に云く、衆生の六道に輪廻する事車輪のごとし。或は父母となり男女となり、生々世々たがひに恩ありと云々。この故に菩薩心を發す人は、七世の父母ともかぎらず。况んや、一世の父母のみと思はんや。
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夢中問答集・『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(四)かやうの決定の業報をば佛菩薩のちからも轉ずることかなはず。形容の妍醜福德の大小壽命の長短種姓の貴賤これらはみな前世の業因にこたへたる定業なり、莊子等は前世の業因によれる事をしらざるが故に、貧富貴賤はみなこれ自然なりと思へり、佛敎にはしからず、前世の惡因によりて惡果を得たる人この理をしりて、今生に惡業をつくらずば當來必ず善果を得べし、轉じがたき現報をとかくもちあつかふ程に當來の善因をも修せず、これは愚人にあらずや。たとへば農夫の田をつくるがごとし。春の時耕すこともねんごろならず。草をも入ず水をもかけず、種をまき苗をうふることも疎略なりし故に、秋になりてみればかたのごとく稻には似たれども、藁をとるほどの得利もありがたし。いはんや米を收むることあらんや。此の時、農人これを歎きて始めて水をかけ、草を入どもかなふべからず。しかるをもしや〱と秋の稻をもちあつかふ事は愚痴なりたゞ此の西收の時、得利のなきことは偏に東作の時、疎略なりしとがなりとして、明年の耕作をよくいとなまば、必ず此の秋のやうなる損亡はあるべからず、經の中に佛力法力をあかす時、定業も亦よく轉ずといへる文あり、又佛力も業力にはかたずともいへり、若し人日來の凡情をひるがへして、正念に住して、或は道行を成せんため、或は他人を利益せんために現報を祈りかへんと思ふて佛力法力によりて、至誠心にて修せば、定業なりとも必ず轉ずべし。故に定業も亦能く轉ずともいへり。若人凡情の執着によりて、命をのべたく福をたもちたき故に祈るならば、かやうの欲心は佛心と冥合せざる故に、感應あるべからず、この故に佛力も業力にかたずといへり。諸佛は大悲を體とす故に、一切衆生をあはれむこと一子のごとしと說き給へり。佛力若したやすく業力をさへぎることあらば、惡道におつる者はあるべからず、濁世に生れて諸の苦みを受る人もなかるべし。佛在世の時、瑠璃太子釋氏とあだをむすびし因緣によりて、王位につきて後、釋氏をほろぼす事九千九百九十萬人、目連尊者佛に申ていはく、衆生の苦をば親疎をえらばず救ひ給ふこそ佛の大悲なれば餘人なりともかやうの難にあふをばたすけ給ふべし。しかるに今ほろぶる人は皆佛の御一族なり、しかるをたすけ給はざることは何ぞや。佛の言、彼等がほろぶることは皆前世の業因のむくひなるが故に、たすくることあたはず、爾の時、目連まさしく金口の說を聞けども、猶疑心やまず、卽神通を以て殺しのこされたる者五百人を相具して、四王天の邊にゆきて鉢をひろくなして、五百人の上に覆てかくし給ひけり。かやうにしたらばさりとものかゝる事もありなんと思はれけり、佛に參りて此の由を申す。佛の言く、業力のいたる事は處をもえらばず、神通にもさえられず、汝かしこがほにしたれども、五百人皆鉢の中にて死にぬ。目連卽かのところへとひ行いて見られければ、佛の御言にたがはざりけり。經論の中にかやうの因緣一つにあらず。しるべし業力のたやすく轉ずべからざる事を。
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夢中問答集・『夢中問答集』檀那の祈祷と信心の深さ問佛言く佛法をば國王大臣有力の檀那に付屬す。然れば檀方つゝがなくして佛法も紹隆すべし。僧家も檀方の祈をせられんは何ぞ、理にそむかんや。 答佛の付屬し給へる意は國王大臣等、或は外護となり、或は檀越となりて佛法を流通し、自もまた此の佛法に入て出離せよとの謂れなり。此の佛法を以て世俗の名利をいのり給へとて付屬し給へるにはあらず。然らば、卽ち世上もおさまり、檀門もつゝがなくして佛法を紹隆し、衆生を利益せんために御祈りをせよと仰られ、僧家も此志をはげまして御祈りを申されば、佛の付屬にそむくべからず、末代といへどもさすがに佛法の運もひかへたる故に、禪敎律の僧をば軍勢にもかられず、世間の公務にもめしつかはれずして、御祈りを申せと仰せらるゝことは、皆善事なればたとひ御公事につとむるとも、僧家あながちにいさみ申すべきにはあらず。しかれ共、近年世の亂によりて關東京都御祈禱とてなさるゝ事なのめならず。されどもその作法を見奉れば、此式にてはいかでか御祈りにもなるべきやと覺へたり。因緣和合し、感應道交して一切のは事を成就すといへる事は佛敎の定判なり。古の大師高僧の、國家をいのり災厄をはらひ給ふことはこれを方便門として、衆生を攝引して、大菩提を證せしめんためなり。我が身の名利のためにいのり給ふこと更にあるべからず。此れ大慈悲の德を內につゝみ給へるによりて、國王大臣の歸崇も他にことなり、下賤の類にいたるまでも同く信仰し奉る。然らば卽ち萬人信力高僧の慈力佛力法力感應道交し、因緣和合せし故に、靈驗むなしからず。祈願皆成しき今は僧家の內德も古に及ばず、檀方の御信もことおろそかなり。此故に僧家をば佛法方の奉公にめしつかはるゝよしにて、御祈禱の課役をかけらるゝ事世俗の御公事にことならず、大法祕法を行なはるれ共、供料ごときの御沙汰も如法ならず、とりわきたる御祈りとて、たま〱施物も下行あるべしと仰せ出ださるれども、大略は有名無實なり。御祈禱ばかりにもあらず、御佛事とて修せらるゝ事も亦此の式なり。これ偏に佛法の御信心のうすき故なり。かやうならばいかでか御祈禱もかなひ御善根も成すべきや、近來鎌倉に智光といふ唐人あり、醫道に名を得たり。ある時、蘇香圓を合せけるに、傍らに人ありて此藥をなめてみんとて、少分つみかきて口に入れけるを見て、智光あたら藥をすこしなめ給ふことよ、猶服し給へと申けり。其の人心得ず思ふて、其の故を問ければ、藥は皆一服の分量定まれり、その分量にたらずして服しぬれば藥は費てその效しなし、とても服し給はゞ藥となるやうに服し給へと申すなりと答へけり。智光が申せるがごとく、とても御祈禱御佛事とてなさるゝあたらことを同じくは其效もあるやうに御沙汰もあれかしと申すなり。御祈禱の成否も善根の大小も偏に、御信心の淺深によるべし。施物の多少によるべからず。しかれば諸人の歎きもなく、三寶も感じ給ふやうに、御祈禱をも御佛事をも修せられば、目出たき御事なるべし。佛法は國王大臣有力の檀那に付屬すと說ける事は、下賤の人は各の宿習にまかせて、何れの法にても一宗を信じぬれば、出離の要道不足なし。然れども外護となり、檀那となりてあまねく佛法を流通することあたはず。この故に國王大臣有力の檀那に付屬すとの給へり。然らば卽ち此の付囑をうけ給へる人は、偏に一法をのみ御信じありて、餘宗をすて給ふ事あるべからず。たとひ諸宗をもらさず信じ給ふ共、若し、又諸の佛法を以てたゞ世俗の御祈りにあてさせ給はゞそれも亦よろしからず。末代なりといへどもかたじけなく如來の御付囑にあたり給へるはうれしき御事にあらずや。先づ佛の付屬にそむかじと大願を發して、外には大小の伽藍を興隆し、內には眞實の道心に安住して、諸宗を流通して、普く善緣を結び、萬人を引導して同じく覺果を證せしめんとふかく誓ひましますべし。若し、爾らば乃し是れ眞實の御祈禱廣大の御善根なるべし。十善五戒の宿熏によりて、國王大臣有力の檀那とならせ給へるも、併しながら三寶の恩力なり。若し又佛の付屬にそむきましまさば佛の付屬をうけざる下賤の人とことならじ。
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夢中問答集・『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(三)佛菩薩は世間の長者にはかはりて、慈悲廣大にまします故に、世間有爲の壽福を祈ることをばきらふて、無上道をねがふ事をすゝめ給へり。しかるを佛神に參りてたゞ世事をのみ祈る人は長者の家にゆきて、わづかなる輕物をこふ人よりも猶愚なりと申しぬべし。北州に生れたる人は田畠を耕作せざれども、自然の粳米ありて食にともしきことなし、綾錦を紡織せざれども、殊勝の衣服身をかざり、命の長きこと千年其の內には中天なし。人王の中に金銀銅鐵の四種の輪王あり。其の中に金輪聖王は人間第一の果報を得て、四天下を統領し、七寳を受用す。其の壽命或は無量歲或は八萬歲なり。欲界の中に六天あり初めをば四王天となづく。毘沙門等の四天王の住所なり。福のともしきことあるべからず其の壽命は世間の五十年を一日一夜として五百歲なり、其の次には忉利天となづく。須彌山の頂きにあり、帝釋は其天王なり。毘沙門等の四天王日月星宿も皆帝釋の眷屬なり、其の果報いやしといはんや。其の壽は人間の百年を一日一夜として一千歲なり。其の上の四天次第に果報も勝れし壽命も各一倍長し第六の他化自在天の壽命は、人間の一千六百年を一日一夜として、一萬六千歲なり、これらは天人と申せどせ、猶も欲界の內に生れたるが故に、壽福つくる時、必ず五衰の悲み生ず。此の上へに色界無色界あり、これを三界となづく。色界の內に四禪あり、此の界の天人皆色相ならびなく、身光ことに明かなり。其の初禪には梵王居して、三界一統の王なりと許し給へり。壽の長きこと一劫半、第四禪には壞劫の時の三災もいたらず。其の中廣果天命の長き事五百劫無色界の內に四處あり。此の天に生ずる者は色身なきが故に、衣食財寳等すべて入る事なし。其の壽は初の天は二萬劫乃至第四の悲想天は八萬劫なり。かやうの果報めでたしといへ共、皆な是れ有爲の善因にこたへ、有漏の禪定によりて得たるが故に、福壽ともに限りありて、つゐには惡趣に輪廻す。故に法華經に云く、三界は安き事なし、なをし火宅のごとしと云々。然らば卽ち智者はかやうの果報をばねかはず五濁惡世に生れたる人、果報いみじと見ゆるも、北州の人にだも及ばず、いはんや諸天をや壽命長しといふ人も、百歲なるはありがたし。たとひ百歲になるとも、忉利天の一日一夜にあたれり、まして悲想の八萬劫にたくらべは片時にもあたるべからず。これほどあさましき果報を佛神に祈り奉る事、枇杷のさねを祈りける尼公と何の差別があらんや。たゞ無上道を祈り求めば、やがて正覺を成ずるまでこそなく共、其の自善根の力により佛神の加彼力によりて災難もをのづから除かり、壽福もつゝがなきほどの得利はたゞ今生のみにあらず、生々世々までもあるべきに、たとひ祈り得てしるしありとも、幾程もなき果報を祈るとて、一期をばいたづらにくらして、當來は惡趣に入ん事あさましき事にあらずや。佛は一切の事にみな自在を得給へりといへども、其の中に三不能といへることあり。一には無緣の衆生を度することあたはず、二つには衆生界をつくすことあたはず、三には定業を轉ずる事あたはず、定業とは前世の善惡の業因によりて、感得したる善惡の業報なり。
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夢中問答集・『夢中問答集』福を求める欲を捨てよ問衆生の苦をぬきて樂をあたふる事は、佛の大慈大悲なり、しかるを佛敎の中に人の福を求るを制する事は何故ぞや。 答世間に福をもとむる人、或は商賣農作の業をいとなみ、或は利錢賣買の計りごとをめぐらし、或は工巧伎藝の能をほどこし、或は奉公給仕の功をいたす其のしわざは各ことなれども、其の志は皆同じ其のありさまを見るに、生涯たゞ身心を苦勞するばかりにて、其の志のごとくに求め得たる福もなし其の中にたま〱求め得て一旦の樂みありといへども、或は火にやかれ水にながされ、或は賊人にとられ、官人にうばゝる、たとひ一期の間かゝる難にあはざる者も、報命つくる時、其の福身に隨ふ事なし、福多ければ罪も亦多きが故に來生に必ず惡道に入る小利大損なる事、何事か是にしかんや。今生に貧人となれる事は前世の慳貪の業のむくひなり、かやうの理をばしらすして、或は世をわたる計のつたなき故にまづしき人ありと思へり、若前世の福因なくばたとひ世をわたるやうをさま〱に習ふて其ごとくにふるまふとも、福分のまさる事あるべからず、まさにしるべし世をわたる計のつたなき故に、まづしきにはあらず、たゞ是福分のあるまじき故に世をわたる計のつたなきなり、或は我が身のまづしき事は給はるべき御恩を給はらざる故也とて、主人をうらむる人あり、或は我がしるべき所領を他人にうばひとられたる故にこそ、まづしけれとて腹をたつる人あり、是も又御恩をかうふらす所領をうばゝれたる故にまづしきにはあらず、まづしかるべき業報にて給はるべき御恩をも給はらずしるべき所領をもしりえざるなり。然らば卽ち福をもとむる欲心をだに捨つれば福分は自然に滿足すべし、是の故に佛敎に人の福を求むる事を制するなり。福をもとめずしてまづしかれとにはあらず。昔天竺の須達長者老後に福報おとろへて世をわたる計略もつきはてゝ、年來の眷屬一人もなし、たゞ夫妻二人のみに成にけり。財寶はなけれ共、さすがに空倉はあまたありけり。若やとて倉の内をさがす程に旃檀にてさしたる斗を一つ求め得たり。これを米四升にかへてこれにて二三日の命をばつぎ、なんとうれしく思へり。須達は別事によりて他行しぬ。其あとに舍利弗須達か家に到りて乞食し玉ふ。須達が妻四升の米を、一升分けて供養し奉る。其の後目蓮迦葉來りて乞ひ給ふ。又二升奉りぬ。其の殘り一升になりぬ。是れだにあらば、今日ばかりの命をば續なんと思ふほどに、又如來到り給へり。惜み申べきやうもなし、やがて供養し奉る。さても須達が外へいでつるが、つかれにのぞみて歸り來らん時、いかゞはせんと思ふもかなしく、又佛僧を供養し奉ることも時にこそよれ、我が命だにも續がたきおりふしに四升ながら皆奉ることしかるべからずと、須達にしかられんこともあさましく覺て泣臥したり。さる程に須達外より歸りて、其の妻の泣臥したるをあやしみて、其の故を問けるに、其の妻ありのまゝに答ふ。須達これをきゝて申すやう、三寳の御ためには、身命をも惜み奉ることあるべからず。只今やがて餓死に及ぶとも、いかで我身のためとて、物を惜み奉ることあらんや。ありがたく思ひよれりと感歎す。其の後、若し又さきの斗ふぜいの物もあるやとて、空倉に入て求めんとすれば、倉ごとにその戶つまりてあかず。あやしみて戶を打破りて見ければ、米錢絹布金銀等種々の財寶本の如く、面々の倉にみちみてり。其の時眷屬も又集りてもとの長者に成にけり。かゝる福分の再び來れる事は、四升の米のかはりに佛のあたへ給へるにはあらず。たゞ是須達夫妻ともに、無欲清淨なる心中より來れり。末代なりとも若人かやうに無欲ならば、無限の福德やがて滿足すべし。たとひ生れつきにかやうの心なくとも小利を求める心をひるがへして、須達夫妻が心をまなべば、何ぞかやうの大利を得ざらんや。須達か心をばまなばずして、たゞかれがごとく樂みを得んと思て、欲情のまゝに福を求めば、今生に求め得たる大利のなきのみにあちず。來生はかならず餓鬼道に入るべし。