夢中問答集 / 『夢中問答集』福を祈る読経の愚かさ
問世間のわざをして福を求るは、罪業の因緣なればまことに制せらるべし。福を祈らんために佛神を歸敬し、經呪を誦持するは、結緣とも成ぬべければゆるさるゝ方も有べしや。 答若し結緣の分を論せば、世のわざをなして福を求めるよりも勝れたりと申すべし。しかれ共、世福を求むるほどの愚人はとかく申すにたらず。たまたま人身を得てあひ難き佛法にあふて、無上道をば求めずして、あたら經呪を誦持して世福を求むる人は、殊に愚なるに非ずや。古人の云く世法の上において情を忘れば佛法なり。佛法の中において情を生ずれば、便是れ世法也と云々縱ひ佛法を修行して、自も菩提を證し、亦衆生を度せんと大願を發せる人だにも若し、佛法において愛着の情を生ずれば、自利利他ともに成就せず。况んや我が身の出離のためにもあらず。亦衆生利益のよしにもあらず。たゞ世間の名利のためなる欲情にて、佛神を歸敬し、經呪を讀誦せば、いかでか冥慮にかなはんや。若し身命をたすけて佛法を修行し、衆生を誘引する方便のためならば世間の種々の事業をなすとも皆善根となるべし。若し又、其の中において佛法を悟りぬれば、前になす所の世間の事業たゞ衆生利益の緣となり、佛法修行の資けとなるのみにあらず。卽ち是れ不思議化脫の妙用となるべし。法華經に治生產業も皆實相にそむかずと說けるは此の意なり。
新字:問世間のわざをして福を求るは、罪業の因縁なればまことに制せらるべし。福を祈らんために仏神を帰敬し、経呪を誦持するは、結縁とも成ぬべければゆるさるゝ方も有べしや。 答若し結縁の分を論せば、世のわざをなして福を求めるよりも勝れたりと申すべし。しかれ共、世福を求むるほどの愚人はとかく申すにたらず。たまたま人身を得てあひ難き仏法にあふて、無上道をば求めずして、あたら経呪を誦持して世福を求むる人は、殊に愚なるに非ずや。古人の云く世法の上において情を忘れば仏法なり。仏法の中において情を生ずれば、便是れ世法也と云々縦ひ仏法を修行して、自も菩提を証し、亦衆生を度せんと大願を発せる人だにも若し、仏法において愛着の情を生ずれば、自利利他ともに成就せず。況んや我が身の出離のためにもあらず。亦衆生利益のよしにもあらず。たゞ世間の名利のためなる欲情にて、仏神を帰敬し、経呪を読誦せば、いかでか冥慮にかなはんや。若し身命をたすけて仏法を修行し、衆生を誘引する方便のためならば世間の種々の事業をなすとも皆善根となるべし。若し又、其の中において仏法を悟りぬれば、前になす所の世間の事業たゞ衆生利益の縁となり、仏法修行の資けとなるのみにあらず。即ち是れ不思議化脱の妙用となるべし。法華経に治生産業も皆実相にそむかずと説けるは此の意なり。
書き下し
問世間のわざをして福を求るは、罪業の因緣なればまことに制せらるべし。福を祈らんために佛神を歸敬し、經呪を誦持するは、結緣とも成ぬべければゆるさるゝ方も有べしや。 答若し結緣の分を論せば、世のわざをなして福を求めるよりも勝れたりと申すべし。しかれ共、世福を求むるほどの愚人はとかく申すにたらず。たまたま人身を得てあひ難き佛法にあふて、無上道をば求めずして、あたら經呪を誦持して世福を求むる人は、殊に愚なるに非ずや。古人の云く世法の上において情を忘れば佛法なり。佛法の中において情を生ずれば、便是れ世法也と云々縱ひ佛法を修行して、自も菩提を證し、亦衆生を度せんと大願を發せる人だにも若し、佛法において愛着の情を生ずれば、自利利他ともに成就せず。况んや我が身の出離のためにもあらず。亦衆生利益のよしにもあらず。たゞ世間の名利のためなる欲情にて、佛神を歸敬し、經呪を讀誦せば、いかでか冥慮にかなはんや。若し身命をたすけて佛法を修行し、衆生を誘引する方便のためならば世間の種々の事業をなすとも皆善根となるべし。若し又、其の中において佛法を悟りぬれば、前になす所の世間の事業たゞ衆生利益の緣となり、佛法修行の資けとなるのみにあらず。卽ち是れ不思議化脫の妙用となるべし。法華經に治生產業も皆實相にそむかずと說けるは此の意なり。
現代語訳
問:世間の仕事をして福を求めるのは罪業の因縁だから、まことに戒められるべきである。しかし福を祈るために仏や神に帰依し敬い、経や呪を唱え持つのは、仏縁を結ぶことにもなるので、許される面もあるのではないか。 答:結縁という面から論じれば、世間の仕事をして福を求めるよりは優れていると言ってよい。とはいえ、世の福を求める程度の愚かな人は、取り上げて言うまでもない。せっかく人の身を得て、会いがたい仏法に会いながら、無上の悟りの道を求めず、わざわざ経や呪を唱え持って世の福を求める人は、とりわけ愚かではないか。 古人は、世間の法のうえで情を忘れれば仏法であり、仏法のうえで情を生ずれば、それがそのまま世間の法である、と言っている。たとえ仏法を修行して自らも悟りを得、また衆生を救おうと大願を発した人でも、もし仏法に愛着の情を生じれば、自利も利他もともに成就しない。まして、我が身の迷いからの解脱のためでもなく、衆生の利益のためでもなく、ただ世間の名利を求める欲情から仏や神に帰依し、経や呪を読誦したところで、どうして仏神の御心にかなおうか。 もし身命を養って仏法を修行し、衆生を導く手立てのためであるなら、世間のさまざまな事業をしても、すべて善根となるだろう。さらにその中で仏法を悟れば、先になした世間の事業は、ただ衆生を利益する縁となり、仏法修行の助けとなるだけではない。そのまま不思議な教化と解脱の妙なるはたらきとなるだろう。法華経に、生活のための産業もみな実相に背かない、と説かれているのは、この意味である。
解説

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