古典を学びたいすべての人に 法人向けワークシート法人向けワークシート

夢中問答集 / 『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(二)

其の時、幼少の時の心にはひきかへてうらめしかりし父の誡めは恩となり。うれしかりし繼母の情は仇となれりと語りける事を傳へ聞しも、此の次でに思ひ出られて日來佛菩薩の利益をさかさまに心得て、末代には佛菩薩の利益なしと思ひける謬りをやめにき、佛菩薩の誓願さま〱也といへ共、其本意をたづぬればたゞ無始輪廻の迷衢を出て、本有清淨の覺岸に到らしめんためなり。しかるに凡夫のねがふ事は皆是輪廻の基なり。かやうの願ひをみつるを聖賢の慈悲といはんや。しかれども先づ衆生の性欲に隨つて、やうやく誘引せんためにかりに所願をかなふる事なり。若し人世間の所願の滿足せるにほこりて、いよ〱執着を生じて放逸無慙愧の心を起すべき者には、その所願をかなふることあるべからず。是れ卽ち聖賢の利益なり。されば末代の凡夫の祈ることのしるしなきこそしるしなりけれ。たとへば醫師の病者を療治する時、或はにがき藥をのましめ、或はあつき灸をやけといふ病者愚痴にして其意をしらず。我が療治を求めることは、身心の苦をやめんがためなり。しかるを今又療治によりていよ〱苦をそへたり。此醫師は慈悲なき人なりといはんがごとし、醫師の慈悲なきにはあらず、病者の心のひかめるなり。諸經の終りの流通分にいたりて、諸天善神願をおこしていはく、我れ等此の持經の人を守護して災難をのぞき、財寶をあたへ、病苦をすくふべしと云々。其の趣をみれば、佛法修行の人若し前世の業因によりて、諸の苦厄にあふて行道の障りとならば、我れ等其苦厄を除きて修行の人をして、退屈することなからしめんとなり。邪見放逸の人の佛法をば行せず。たゞ世間の名利をもとめ災難をいとふ者のために、此誓をおこし給へるにはあらず。つら〱これを思へば末代の人のいのることのしるしなきはことはりなり。中頃一人の老尼公ありき、清水に詣でねんごろに禮拜をいたして願はくは、大悲觀世音尼が心にいとはしき物を早く失ふてたひ候へとくりかへし申しけり。傍に聞く人これをあやしみて、何事を祈り申し給ふぞと問ければ、尼がわかゝりし時より枇杷をこのみ侍に、あまりにさねのおほきことのいたはしく覺ゆる程に、年ごとに五月の比はこれへ參りて此の枇杷のさねをうしなふてたひ候へと申せ共、いまだしるしもなしと答へけり。だれ〱も枇杷を食する時は、さねのうるさき事はあれ共、觀音に祈り申すまでの事にはあらずとて、おかしくはかなき事に語り傳へたり。世間をみれば佛神に參り經だらにを讀ぶて身を祈る人もよも、無上道のためにはあらじ。たゞ世間の福壽をたもち災厄をまぬがれんためにこそと覺たり。若し其の分ならば枇杷のさね祈りける尼公をはかなしと思はんや。たとへば人の長者の家に到りてわづかなる輕物を求むるがごとし、それほどの所望ならば長者ならぬ人にも乞ひぬべし。され共世間の長者は慳貪の心あるが故に、重寳なんどを求めんにはたやすくあたふべからざる故に、せめての所望に輕き物をこふ共いひぬべし。

新字:其の時、幼少の時の心にはひきかへてうらめしかりし父の誡めは恩となり。うれしかりし継母の情は仇となれりと語りける事を伝へ聞しも、此の次でに思ひ出られて日来仏菩薩の利益をさかさまに心得て、末代には仏菩薩の利益なしと思ひける謬りをやめにき、仏菩薩の誓願さま〱也といへ共、其本意をたづぬればたゞ無始輪廻の迷衢を出て、本有清浄の覚岸に到らしめんためなり。しかるに凡夫のねがふ事は皆是輪廻の基なり。かやうの願ひをみつるを聖賢の慈悲といはんや。しかれども先づ衆生の性欲に随つて、やうやく誘引せんためにかりに所願をかなふる事なり。若し人世間の所願の満足せるにほこりて、いよ〱執着を生じて放逸無慚愧の心を起すべき者には、その所願をかなふることあるべからず。是れ即ち聖賢の利益なり。されば末代の凡夫の祈ることのしるしなきこそしるしなりけれ。たとへば医師の病者を療治する時、或はにがき薬をのましめ、或はあつき灸をやけといふ病者愚痴にして其意をしらず。我が療治を求めることは、身心の苦をやめんがためなり。しかるを今又療治によりていよ〱苦をそへたり。此医師は慈悲なき人なりといはんがごとし、医師の慈悲なきにはあらず、病者の心のひかめるなり。諸経の終りの流通分にいたりて、諸天善神願をおこしていはく、我れ等此の持経の人を守護して災難をのぞき、財宝をあたへ、病苦をすくふべしと云々。其の趣をみれば、仏法修行の人若し前世の業因によりて、諸の苦厄にあふて行道の障りとならば、我れ等其苦厄を除きて修行の人をして、退屈することなからしめんとなり。邪見放逸の人の仏法をば行せず。たゞ世間の名利をもとめ災難をいとふ者のために、此誓をおこし給へるにはあらず。つら〱これを思へば末代の人のいのることのしるしなきはことはりなり。中頃一人の老尼公ありき、清水に詣でねんごろに礼拝をいたして願はくは、大悲観世音尼が心にいとはしき物を早く失ふてたひ候へとくりかへし申しけり。傍に聞く人これをあやしみて、何事を祈り申し給ふぞと問ければ、尼がわかゝりし時より枇杷をこのみ侍に、あまりにさねのおほきことのいたはしく覚ゆる程に、年ごとに五月の比はこれへ参りて此の枇杷のさねをうしなふてたひ候へと申せ共、いまだしるしもなしと答へけり。だれ〱も枇杷を食する時は、さねのうるさき事はあれ共、観音に祈り申すまでの事にはあらずとて、おかしくはかなき事に語り伝へたり。世間をみれば仏神に参り経だらにを読ぶて身を祈る人もよも、無上道のためにはあらじ。たゞ世間の福寿をたもち災厄をまぬがれんためにこそと覚たり。若し其の分ならば枇杷のさね祈りける尼公をはかなしと思はんや。たとへば人の長者の家に到りてわづかなる軽物を求むるがごとし、それほどの所望ならば長者ならぬ人にも乞ひぬべし。され共世間の長者は慳貪の心あるが故に、重宝なんどを求めんにはたやすくあたふべからざる故に、せめての所望に軽き物をこふ共いひぬべし。

書き下し

其の時、幼少の時の心にはひきかへてうらめしかりし父の誡めは恩となり。うれしかりし繼母の情は仇となれりと語りける事を傳へ聞しも、此の次でに思ひ出られて日來佛菩薩の利益をさかさまに心得て、末代には佛菩薩の利益なしと思ひける謬りをやめにき、佛菩薩の誓願さま〱也といへ共、其本意をたづぬればたゞ無始輪廻の迷衢を出て、本有清淨の覺岸に到らしめんためなり。しかるに凡夫のねがふ事は皆是輪廻の基なり。かやうの願ひをみつるを聖賢の慈悲といはんや。しかれども先づ衆生の性欲に隨つて、やうやく誘引せんためにかりに所願をかなふる事なり。若し人世間の所願の滿足せるにほこりて、いよ〱執着を生じて放逸無慙愧の心を起すべき者には、その所願をかなふることあるべからず。是れ卽ち聖賢の利益なり。されば末代の凡夫の祈ることのしるしなきこそしるしなりけれ。たとへば醫師の病者を療治する時、或はにがき藥をのましめ、或はあつき灸をやけといふ病者愚痴にして其意をしらず。我が療治を求めることは、身心の苦をやめんがためなり。しかるを今又療治によりていよ〱苦をそへたり。此醫師は慈悲なき人なりといはんがごとし、醫師の慈悲なきにはあらず、病者の心のひかめるなり。諸經の終りの流通分にいたりて、諸天善神願をおこしていはく、我れ等此の持經の人を守護して災難をのぞき、財寶をあたへ、病苦をすくふべしと云々。其の趣をみれば、佛法修行の人若し前世の業因によりて、諸の苦厄にあふて行道の障りとならば、我れ等其苦厄を除きて修行の人をして、退屈することなからしめんとなり。邪見放逸の人の佛法をば行せず。たゞ世間の名利をもとめ災難をいとふ者のために、此誓をおこし給へるにはあらず。つら〱これを思へば末代の人のいのることのしるしなきはことはりなり。中頃一人の老尼公ありき、清水に詣でねんごろに禮拜をいたして願はくは、大悲觀世音尼が心にいとはしき物を早く失ふてたひ候へとくりかへし申しけり。傍に聞く人これをあやしみて、何事を祈り申し給ふぞと問ければ、尼がわかゝりし時より枇杷をこのみ侍に、あまりにさねのおほきことのいたはしく覺ゆる程に、年ごとに五月の比はこれへ參りて此の枇杷のさねをうしなふてたひ候へと申せ共、いまだしるしもなしと答へけり。だれ〱も枇杷を食する時は、さねのうるさき事はあれ共、觀音に祈り申すまでの事にはあらずとて、おかしくはかなき事に語り傳へたり。世間をみれば佛神に參り經だらにを讀ぶて身を祈る人もよも、無上道のためにはあらじ。たゞ世間の福壽をたもち災厄をまぬがれんためにこそと覺たり。若し其の分ならば枇杷のさね祈りける尼公をはかなしと思はんや。たとへば人の長者の家に到りてわづかなる輕物を求むるがごとし、それほどの所望ならば長者ならぬ人にも乞ひぬべし。され共世間の長者は慳貪の心あるが故に、重寳なんどを求めんにはたやすくあたふべからざる故に、せめての所望に輕き物をこふ共いひぬべし。

現代語訳

その子が後に、幼少のときの心とは打って変わって、恨めしかった父の戒めは恩となり、嬉しかった継母の情けは仇となった、と語ったという話を伝え聞いたのも、この折に思い出された。それで、日頃、仏や菩薩の利益を逆さまに受け取って、末世には仏菩薩の利益がないと思っていた誤りをやめた。 仏や菩薩の誓願はさまざまだが、その本意を尋ねれば、ただ、始めのない昔からの輪廻の迷いの道を出て、本来そなわる清浄な悟りの岸に至らせるためである。ところが凡夫の願うことは、みな輪廻の基となるものである。このような願いを満たすことを、聖賢の慈悲と言えようか。しかし、まず衆生の性質と欲に従って、次第に誘い導くために、仮に願いを叶えることがあるのである。もし人が世間の願いが満たされたことに驕って、ますます執着を生じ、勝手気ままで恥知らずの心を起こしそうな者には、その願いを叶えることはない。これがすなわち聖賢の利益である。だから末代の凡夫の祈りに験がないことこそ、験なのである。 たとえば、医師が病人を治療するとき、苦い薬を飲ませ、熱い灸をすえさせる。病人は愚かでその意図を知らず、自分が治療を求めたのは心身の苦しみをやめるためなのに、今また治療によってますます苦しみが加わった、この医者は慈悲のない人だ、と言うようなものである。医者に慈悲がないのではない。病人の心がひがんでいるのである。 諸経の最後の流通分に至って、諸天や善神は願を起こして言う。我らはこの経を持つ人を守護し、災難を除き、財宝を与え、病苦を救おう、と。その趣旨を見ると、仏法を修行する人が前世の業因で多くの苦厄に遭って修行の障りとなるなら、我らがその苦厄を除いて、修行の人が退き屈することのないようにしよう、ということである。邪な見解で勝手気ままに暮らし仏法を修行せず、ただ世間の名利を求め災難を厭う者のために、この誓いを起こされたのではない。つくづくこれを思えば、末代の人の祈りに験がないのは道理である。 いつの頃か、一人の老いた尼がいた。清水寺に参って丁寧に礼拝し、大慈悲の観世音よ、この尼が嫌だと思うものを早く失わせてください、と繰り返し申し上げた。傍らで聞いた人が不審に思って、何を祈っておられるのですかと尋ねると、尼は答えた。私は若いころから枇杷が好きですが、種があまりに大きいのが気の毒に思えるので、毎年五月のころはここに参って、この枇杷の種をなくしてくださいと申しますのに、まだ験がありません、と。誰でも枇杷を食べるときは種が煩わしいけれども、観音に祈り申し上げるほどのことではないと、おかしくつまらない話として語り伝えている。 世間を見ると、仏や神に参り、経や陀羅尼を読んで我が身のために祈る人も、おそらく無上の悟りのためではなく、ただ世間の福と寿命を保ち災厄を免れるためと思われる。もしその程度なら、枇杷の種を祈った尼をつまらないと思えようか。たとえば、人が長者の家に行ってわずかな軽い物を求めるようなものである。それほどの所望なら、長者でない人にも乞えるだろう。しかし世間の長者はけちな心があるので、貴重な宝などを求めてもたやすくは与えてくれない。だから、せめてもの所望に軽い物を乞うと言うこともできよう。

解説

夢窓疎石は、願いが叶わないことこそ仏菩薩の利益だと言い切ります。凡夫の願いは輪廻の基になることが多く、叶えれば執着や慢心を深めるだけの人には叶えない、というのが聖賢の慈悲です。苦い薬や熱い灸を恨む病人の喩えは、その道理を平易に伝えます。枇杷の種を祈った尼の話は、祈りの中身が小さいことの滑稽さを示します。現代でも、望みが叶うことと本当に益になることは別だと考えると、思い通りにいかない状況を見直す手がかりになります。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

本の中身を見る

この章句が説くこと

祈り利益聖賢の慈悲執着医師の喩え枇杷の種

関連する章句

本2冊(人生の方程式・人生の教科書)+師導1か月=700円本を見る