夢中問答集 / 『夢中問答集』欲を捨てる難しさへの答え
問福を求むる欲心をすつれば、福報自然に滿足すべしといへることは疑なし。然れども此の欲心を捨る事のたやすからぬをばいかゞすべきや。 答若し人欲心をすてんと思ふ志、福をねがふ心のごとく懇切ならば捨がたしとはいふべからず。たゞし欲心を捨れば、大福を得と思ふてこれを捨んとせば利錢等の計りごとをめぐらして福を求める人にことならず。有爲の福報を求めるのみをきらふにはあらず。二乘は無爲涅槃をねがふ欲心あるが故に、猶も化城にとゞまる。三賢十聖の菩薩も法欲いまだつきざる故に、妙覺の大智あらはれず。若し人世間出世の一切の欲心を直下に放下せば、本分の無盡藏忽ちに開けて無邊の妙用無量の三昧等の種々の家財を運び出して、自を利し、他を利するごときあまりなかるべしとても欲心を發すとならば、何ぞかやうの大欲をばおこさゞるや。若し此の大欲をおこす人は、小乘の極果をもねがはず菩薩の高位をもうらやまず、いはんや人中天上の福報をや。
新字:問福を求むる欲心をすつれば、福報自然に満足すべしといへることは疑なし。然れども此の欲心を捨る事のたやすからぬをばいかゞすべきや。 答若し人欲心をすてんと思ふ志、福をねがふ心のごとく懇切ならば捨がたしとはいふべからず。たゞし欲心を捨れば、大福を得と思ふてこれを捨んとせば利銭等の計りごとをめぐらして福を求める人にことならず。有為の福報を求めるのみをきらふにはあらず。二乗は無為涅槃をねがふ欲心あるが故に、猶も化城にとゞまる。三賢十聖の菩薩も法欲いまだつきざる故に、妙覚の大智あらはれず。若し人世間出世の一切の欲心を直下に放下せば、本分の無尽蔵忽ちに開けて無辺の妙用無量の三昧等の種々の家財を運び出して、自を利し、他を利するごときあまりなかるべしとても欲心を発すとならば、何ぞかやうの大欲をばおこさゞるや。若し此の大欲をおこす人は、小乗の極果をもねがはず菩薩の高位をもうらやまず、いはんや人中天上の福報をや。
書き下し
問福を求むる欲心をすつれば、福報自然に滿足すべしといへることは疑なし。然れども此の欲心を捨る事のたやすからぬをばいかゞすべきや。 答若し人欲心をすてんと思ふ志、福をねがふ心のごとく懇切ならば捨がたしとはいふべからず。たゞし欲心を捨れば、大福を得と思ふてこれを捨んとせば利錢等の計りごとをめぐらして福を求める人にことならず。有爲の福報を求めるのみをきらふにはあらず。二乘は無爲涅槃をねがふ欲心あるが故に、猶も化城にとゞまる。三賢十聖の菩薩も法欲いまだつきざる故に、妙覺の大智あらはれず。若し人世間出世の一切の欲心を直下に放下せば、本分の無盡藏忽ちに開けて無邊の妙用無量の三昧等の種々の家財を運び出して、自を利し、他を利するごときあまりなかるべしとても欲心を發すとならば、何ぞかやうの大欲をばおこさゞるや。若し此の大欲をおこす人は、小乘の極果をもねがはず菩薩の高位をもうらやまず、いはんや人中天上の福報をや。
現代語訳
問:福を求める欲心を捨てれば福の報いは自然に満ち足りる、という点に疑いはない。しかし、この欲心を捨てることが容易でないのは、どうしたらよいか。 答:もし人が欲心を捨てようと思う志が、福を願う心のように切実であれば、捨てがたいとは言えないはずだ。ただし、欲心を捨てれば大きな福を得ると思って捨てようとするなら、金貸しの算段をめぐらして福を求める人と変わらない。有為の福の報いを求めることだけを嫌うのではない。二乗は無為の涅槃を願う欲心があるために、なお化城にとどまっている。三賢十聖の菩薩も、法を求める欲がまだ尽きていないために、妙覚の大智が現れない。 もし人が、世間と出世間のすべての欲心をその場で放ち捨てれば、本来そなわった尽きない蔵がたちまち開き、限りないはたらきと数えきれない三昧など、さまざまな家財を運び出して、自分を利し他人を利することは、どれほどあっても足りなくなるだろう。どうせ欲心を起こすというなら、どうしてこのような大きな欲を起こさないのか。この大欲を起こす人は、小乗の最高の悟りも願わず、菩薩の高い位もうらやまない。まして人間・天上の福の報いなど願うはずがない。
解説

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