夢中問答集 / 『夢中問答集』後世を祈る愚かさ
問今生の名利を祈るこそ愚なれ、後生の果報をいのらんはかしこしといはんや。 答よのつね人の今生と思へるは前世に後生と思ひし世なり。今ま又後生と思へる世は、後世の今生なるべし。然らば卽ち前世に後生の祈りをせしことは今生の名利となりにけり、今又後生の祈りとてすることも、後生の名利となるべし。今生の名利を祈るを制することは、今生の夢のごとくなる名利をいのらんよりは當來に無上道を成せんことを祈れかしとすゝむるなり。今生の名利をばうちすてゝ、當來の名利をいのる人は、前世の業因にこたへたる定業の轉じがたきをもしやと祈る人よりもかしこきには似たれ共、夢幻の身心を執著して來生の果報をいのる意の愚癡なる事は亦同じ。たとひ無上道を祈るとも、若し又一身の出離のためならば是も亦愚癡なり。大論に云く、菩薩は一身一衆生のために善根をなさずと云々。されば一切衆生のために、諸の善根を修め、無上道を求むるを菩薩とは申すなり。普賢菩薩十大願を發し給へり。其の初に敬禮諸佛の願あり、其の文に云く、願はくば我が身を無量無邊に分けて、無量無邊の如來の前へことに影現して禮拜し奉ること、盡未來際念々相續して間斷なかるべし。又廣修供養の願あり、其の文に云く、願はくば無邊の妙供を出生して、無邊の佛の前に身を現じて、無邊の佛を供養し奉ること、盡未來際間斷なかるべし餘願も皆此の趣なり。第九は恆順衆生の願なり。其の文に云く、願はくば我が身を無量無邊に分けて、一切衆生に隨順して給使すること佛を敬ふことならず、盡未來際間斷なかるべし。第十は普皆廻向の願なり。其の文に云く、前に修する所の敬禮供養等の功德を普く皆一切衆生に廻向して、菩提を成ぜしむべしと云々。かやうの心を發すを無上道を祈る人とは申すなり。愚人はたまたま佛を禮すれ共、其の心たゞ我が信ずる一佛のみにあり、供養をのぶる事も又此の心なり。たま〱父母の追善檀那の祈禱とてなすことも、其の志偏に是我が身にむけて恩ある人のためなり。法界衆生に及ぼすこともなし。この故に所得の功德廣大ならず、時にあたり緣に隨つて一佛を禮し、一人のために善をなせども、其の廻向の心廣大なれば、うくるところの功德も又廣大なるべし。俗典には三世をさたせぬ故に、たゞ現在の父母主君の恩を報ずることばかりを申したり。經に云く、衆生の六道に輪廻する事車輪のごとし。或は父母となり男女となり、生々世々たがひに恩ありと云々。この故に菩薩心を發す人は、七世の父母ともかぎらず。况んや、一世の父母のみと思はんや。
新字:問今生の名利を祈るこそ愚なれ、後生の果報をいのらんはかしこしといはんや。 答よのつね人の今生と思へるは前世に後生と思ひし世なり。今ま又後生と思へる世は、後世の今生なるべし。然らば即ち前世に後生の祈りをせしことは今生の名利となりにけり、今又後生の祈りとてすることも、後生の名利となるべし。今生の名利を祈るを制することは、今生の夢のごとくなる名利をいのらんよりは当来に無上道を成せんことを祈れかしとすゝむるなり。今生の名利をばうちすてゝ、当来の名利をいのる人は、前世の業因にこたへたる定業の転じがたきをもしやと祈る人よりもかしこきには似たれ共、夢幻の身心を執著して来生の果報をいのる意の愚痴なる事は亦同じ。たとひ無上道を祈るとも、若し又一身の出離のためならば是も亦愚痴なり。大論に云く、菩薩は一身一衆生のために善根をなさずと云々。されば一切衆生のために、諸の善根を修め、無上道を求むるを菩薩とは申すなり。普賢菩薩十大願を発し給へり。其の初に敬礼諸仏の願あり、其の文に云く、願はくば我が身を無量無辺に分けて、無量無辺の如来の前へことに影現して礼拝し奉ること、尽未来際念々相続して間断なかるべし。又広修供養の願あり、其の文に云く、願はくば無辺の妙供を出生して、無辺の仏の前に身を現じて、無辺の仏を供養し奉ること、尽未来際間断なかるべし余願も皆此の趣なり。第九は恒順衆生の願なり。其の文に云く、願はくば我が身を無量無辺に分けて、一切衆生に随順して給使すること仏を敬ふことならず、尽未来際間断なかるべし。第十は普皆廻向の願なり。其の文に云く、前に修する所の敬礼供養等の功徳を普く皆一切衆生に廻向して、菩提を成ぜしむべしと云々。かやうの心を発すを無上道を祈る人とは申すなり。愚人はたまたま仏を礼すれ共、其の心たゞ我が信ずる一仏のみにあり、供養をのぶる事も又此の心なり。たま〱父母の追善檀那の祈祷とてなすことも、其の志偏に是我が身にむけて恩ある人のためなり。法界衆生に及ぼすこともなし。この故に所得の功徳広大ならず、時にあたり縁に随つて一仏を礼し、一人のために善をなせども、其の廻向の心広大なれば、うくるところの功徳も又広大なるべし。俗典には三世をさたせぬ故に、たゞ現在の父母主君の恩を報ずることばかりを申したり。経に云く、衆生の六道に輪廻する事車輪のごとし。或は父母となり男女となり、生々世々たがひに恩ありと云々。この故に菩薩心を発す人は、七世の父母ともかぎらず。況んや、一世の父母のみと思はんや。
書き下し
問今生の名利を祈るこそ愚なれ、後生の果報をいのらんはかしこしといはんや。 答よのつね人の今生と思へるは前世に後生と思ひし世なり。今ま又後生と思へる世は、後世の今生なるべし。然らば卽ち前世に後生の祈りをせしことは今生の名利となりにけり、今又後生の祈りとてすることも、後生の名利となるべし。今生の名利を祈るを制することは、今生の夢のごとくなる名利をいのらんよりは當來に無上道を成せんことを祈れかしとすゝむるなり。今生の名利をばうちすてゝ、當來の名利をいのる人は、前世の業因にこたへたる定業の轉じがたきをもしやと祈る人よりもかしこきには似たれ共、夢幻の身心を執著して來生の果報をいのる意の愚癡なる事は亦同じ。たとひ無上道を祈るとも、若し又一身の出離のためならば是も亦愚癡なり。大論に云く、菩薩は一身一衆生のために善根をなさずと云々。されば一切衆生のために、諸の善根を修め、無上道を求むるを菩薩とは申すなり。普賢菩薩十大願を發し給へり。其の初に敬禮諸佛の願あり、其の文に云く、願はくば我が身を無量無邊に分けて、無量無邊の如來の前へことに影現して禮拜し奉ること、盡未來際念々相續して間斷なかるべし。又廣修供養の願あり、其の文に云く、願はくば無邊の妙供を出生して、無邊の佛の前に身を現じて、無邊の佛を供養し奉ること、盡未來際間斷なかるべし餘願も皆此の趣なり。第九は恆順衆生の願なり。其の文に云く、願はくば我が身を無量無邊に分けて、一切衆生に隨順して給使すること佛を敬ふことならず、盡未來際間斷なかるべし。第十は普皆廻向の願なり。其の文に云く、前に修する所の敬禮供養等の功德を普く皆一切衆生に廻向して、菩提を成ぜしむべしと云々。かやうの心を發すを無上道を祈る人とは申すなり。愚人はたまたま佛を禮すれ共、其の心たゞ我が信ずる一佛のみにあり、供養をのぶる事も又此の心なり。たま〱父母の追善檀那の祈禱とてなすことも、其の志偏に是我が身にむけて恩ある人のためなり。法界衆生に及ぼすこともなし。この故に所得の功德廣大ならず、時にあたり緣に隨つて一佛を禮し、一人のために善をなせども、其の廻向の心廣大なれば、うくるところの功德も又廣大なるべし。俗典には三世をさたせぬ故に、たゞ現在の父母主君の恩を報ずることばかりを申したり。經に云く、衆生の六道に輪廻する事車輪のごとし。或は父母となり男女となり、生々世々たがひに恩ありと云々。この故に菩薩心を發す人は、七世の父母ともかぎらず。况んや、一世の父母のみと思はんや。
現代語訳
問:今生の名利を祈るのは愚かだが、後世の果報を祈るのは賢いと言えるのではないか。 答:世間の人がふつう今生と思っている世は、前世でその人が後生と思っていた世である。今また後生と思っている世は、後世の今生となるだろう。そうであれば、前世で後生の祈りをしたことは今生の名利となり、今また後生の祈りとしてすることも、後生の名利となるだろう。今生の名利を祈ることを制するのは、今生の夢のような名利を祈るよりは、来世に無上の悟りを成すことを祈れと勧めるためである。 今生の名利を打ち捨てて、来世の名利を祈る人は、前世の業因に応じた定業を、もしや転ずることができるかと祈る人よりは賢いように見えるが、夢幻のような身心に執着して来世の果報を祈る心の愚かさは同じである。たとえ無上の悟りを祈っても、もしそれが自分一身が迷いから離れるためなら、これもまた愚かである。大智度論に、菩薩は一身一衆生のために善根をなさない、とある。だから、一切衆生のためにさまざまな善根を修め、無上の悟りを求める人を、菩薩と言うのである。 普賢菩薩は十大願を発された。その初めに、諸仏を敬い礼する願がある。その文に言う。願わくは我が身を無量無辺に分けて、無量無辺の如来の前に、それぞれ影を現して礼拝し奉ること、未来の果てまで念々相続して絶えないように、と。また広く供養を修める願がある。その文に言う。願わくは無辺の妙なる供え物を生み出して、無辺の仏の前に身を現し、無辺の仏を供養し奉ること、未来の果てまで絶えないように、と。他の願もみなこの趣旨である。第九は、衆生に従い続ける願である。その文に言う。願わくは我が身を無量無辺に分けて、一切衆生に従って仕えること、仏を敬うのと変わらず、未来の果てまで絶えないように、と。第十は、あまねく皆に振り向ける願である。その文に言う。前に修めた敬礼や供養などの功徳を、あまねく皆、一切衆生に振り向けて、菩提を成就させよう、と。このような心を発すことを、無上の悟りを祈る人と言うのである。 愚かな人はたまたま仏を礼しても、その心はただ自分が信じる一仏だけにあり、供養を述べるのも同じ心である。たまたま父母の追善、檀那の祈禱としてすることも、その志はひとえに我が身に向けて、恩のある人のためである。法界の衆生に及ぼすことはない。このため、得る功徳が広大でない。時にあたり縁に従って一仏を礼し、一人のために善をなしても、その振り向ける心が広大であれば、受ける功徳もまた広大であるはずだ。 儒家の書は、過去・未来の三世を論じないので、ただ現在の父母や主君の恩に報いることばかり言っている。経に言う。衆生が六道に輪廻することは車輪のようだ。あるいは父母となり、男女となり、生々世々、互いに恩がある、と。このため、菩薩心を発した人は、七世の父母に限らない。まして一世の父母だけと思うはずがない。
解説

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