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夢中問答集 / 『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(四)

かやうの決定の業報をば佛菩薩のちからも轉ずることかなはず。形容の妍醜福德の大小壽命の長短種姓の貴賤これらはみな前世の業因にこたへたる定業なり、莊子等は前世の業因によれる事をしらざるが故に、貧富貴賤はみなこれ自然なりと思へり、佛敎にはしからず、前世の惡因によりて惡果を得たる人この理をしりて、今生に惡業をつくらずば當來必ず善果を得べし、轉じがたき現報をとかくもちあつかふ程に當來の善因をも修せず、これは愚人にあらずや。たとへば農夫の田をつくるがごとし。春の時耕すこともねんごろならず。草をも入ず水をもかけず、種をまき苗をうふることも疎略なりし故に、秋になりてみればかたのごとく稻には似たれども、藁をとるほどの得利もありがたし。いはんや米を收むることあらんや。此の時、農人これを歎きて始めて水をかけ、草を入どもかなふべからず。しかるをもしや〱と秋の稻をもちあつかふ事は愚痴なりたゞ此の西收の時、得利のなきことは偏に東作の時、疎略なりしとがなりとして、明年の耕作をよくいとなまば、必ず此の秋のやうなる損亡はあるべからず、經の中に佛力法力をあかす時、定業も亦よく轉ずといへる文あり、又佛力も業力にはかたずともいへり、若し人日來の凡情をひるがへして、正念に住して、或は道行を成せんため、或は他人を利益せんために現報を祈りかへんと思ふて佛力法力によりて、至誠心にて修せば、定業なりとも必ず轉ずべし。故に定業も亦能く轉ずともいへり。若人凡情の執着によりて、命をのべたく福をたもちたき故に祈るならば、かやうの欲心は佛心と冥合せざる故に、感應あるべからず、この故に佛力も業力にかたずといへり。諸佛は大悲を體とす故に、一切衆生をあはれむこと一子のごとしと說き給へり。佛力若したやすく業力をさへぎることあらば、惡道におつる者はあるべからず、濁世に生れて諸の苦みを受る人もなかるべし。佛在世の時、瑠璃太子釋氏とあだをむすびし因緣によりて、王位につきて後、釋氏をほろぼす事九千九百九十萬人、目連尊者佛に申ていはく、衆生の苦をば親疎をえらばず救ひ給ふこそ佛の大悲なれば餘人なりともかやうの難にあふをばたすけ給ふべし。しかるに今ほろぶる人は皆佛の御一族なり、しかるをたすけ給はざることは何ぞや。佛の言、彼等がほろぶることは皆前世の業因のむくひなるが故に、たすくることあたはず、爾の時、目連まさしく金口の說を聞けども、猶疑心やまず、卽神通を以て殺しのこされたる者五百人を相具して、四王天の邊にゆきて鉢をひろくなして、五百人の上に覆てかくし給ひけり。かやうにしたらばさりとものかゝる事もありなんと思はれけり、佛に參りて此の由を申す。佛の言く、業力のいたる事は處をもえらばず、神通にもさえられず、汝かしこがほにしたれども、五百人皆鉢の中にて死にぬ。目連卽かのところへとひ行いて見られければ、佛の御言にたがはざりけり。經論の中にかやうの因緣一つにあらず。しるべし業力のたやすく轉ずべからざる事を。

新字:かやうの決定の業報をば仏菩薩のちからも転ずることかなはず。形容の妍醜福徳の大小寿命の長短種姓の貴賤これらはみな前世の業因にこたへたる定業なり、荘子等は前世の業因によれる事をしらざるが故に、貧富貴賤はみなこれ自然なりと思へり、仏教にはしからず、前世の悪因によりて悪果を得たる人この理をしりて、今生に悪業をつくらずば当来必ず善果を得べし、転じがたき現報をとかくもちあつかふ程に当来の善因をも修せず、これは愚人にあらずや。たとへば農夫の田をつくるがごとし。春の時耕すこともねんごろならず。草をも入ず水をもかけず、種をまき苗をうふることも疎略なりし故に、秋になりてみればかたのごとく稲には似たれども、藁をとるほどの得利もありがたし。いはんや米を収むることあらんや。此の時、農人これを嘆きて始めて水をかけ、草を入どもかなふべからず。しかるをもしや〱と秋の稲をもちあつかふ事は愚痴なりたゞ此の西収の時、得利のなきことは偏に東作の時、疎略なりしとがなりとして、明年の耕作をよくいとなまば、必ず此の秋のやうなる損亡はあるべからず、経の中に仏力法力をあかす時、定業も亦よく転ずといへる文あり、又仏力も業力にはかたずともいへり、若し人日来の凡情をひるがへして、正念に住して、或は道行を成せんため、或は他人を利益せんために現報を祈りかへんと思ふて仏力法力によりて、至誠心にて修せば、定業なりとも必ず転ずべし。故に定業も亦能く転ずともいへり。若人凡情の執着によりて、命をのべたく福をたもちたき故に祈るならば、かやうの欲心は仏心と冥合せざる故に、感応あるべからず、この故に仏力も業力にかたずといへり。諸仏は大悲を体とす故に、一切衆生をあはれむこと一子のごとしと説き給へり。仏力若したやすく業力をさへぎることあらば、悪道におつる者はあるべからず、濁世に生れて諸の苦みを受る人もなかるべし。仏在世の時、瑠璃太子釈氏とあだをむすびし因縁によりて、王位につきて後、釈氏をほろぼす事九千九百九十万人、目連尊者仏に申ていはく、衆生の苦をば親疎をえらばず救ひ給ふこそ仏の大悲なれば余人なりともかやうの難にあふをばたすけ給ふべし。しかるに今ほろぶる人は皆仏の御一族なり、しかるをたすけ給はざることは何ぞや。仏の言、彼等がほろぶることは皆前世の業因のむくひなるが故に、たすくることあたはず、爾の時、目連まさしく金口の説を聞けども、猶疑心やまず、即神通を以て殺しのこされたる者五百人を相具して、四王天の辺にゆきて鉢をひろくなして、五百人の上に覆てかくし給ひけり。かやうにしたらばさりとものかゝる事もありなんと思はれけり、仏に参りて此の由を申す。仏の言く、業力のいたる事は処をもえらばず、神通にもさえられず、汝かしこがほにしたれども、五百人皆鉢の中にて死にぬ。目連即かのところへとひ行いて見られければ、仏の御言にたがはざりけり。経論の中にかやうの因縁一つにあらず。しるべし業力のたやすく転ずべからざる事を。

書き下し

かやうの決定の業報をば佛菩薩のちからも轉ずることかなはず。形容の妍醜福德の大小壽命の長短種姓の貴賤これらはみな前世の業因にこたへたる定業なり、莊子等は前世の業因によれる事をしらざるが故に、貧富貴賤はみなこれ自然なりと思へり、佛敎にはしからず、前世の惡因によりて惡果を得たる人この理をしりて、今生に惡業をつくらずば當來必ず善果を得べし、轉じがたき現報をとかくもちあつかふ程に當來の善因をも修せず、これは愚人にあらずや。たとへば農夫の田をつくるがごとし。春の時耕すこともねんごろならず。草をも入ず水をもかけず、種をまき苗をうふることも疎略なりし故に、秋になりてみればかたのごとく稻には似たれども、藁をとるほどの得利もありがたし。いはんや米を收むることあらんや。此の時、農人これを歎きて始めて水をかけ、草を入どもかなふべからず。しかるをもしや〱と秋の稻をもちあつかふ事は愚痴なりたゞ此の西收の時、得利のなきことは偏に東作の時、疎略なりしとがなりとして、明年の耕作をよくいとなまば、必ず此の秋のやうなる損亡はあるべからず、經の中に佛力法力をあかす時、定業も亦よく轉ずといへる文あり、又佛力も業力にはかたずともいへり、若し人日來の凡情をひるがへして、正念に住して、或は道行を成せんため、或は他人を利益せんために現報を祈りかへんと思ふて佛力法力によりて、至誠心にて修せば、定業なりとも必ず轉ずべし。故に定業も亦能く轉ずともいへり。若人凡情の執着によりて、命をのべたく福をたもちたき故に祈るならば、かやうの欲心は佛心と冥合せざる故に、感應あるべからず、この故に佛力も業力にかたずといへり。諸佛は大悲を體とす故に、一切衆生をあはれむこと一子のごとしと說き給へり。佛力若したやすく業力をさへぎることあらば、惡道におつる者はあるべからず、濁世に生れて諸の苦みを受る人もなかるべし。佛在世の時、瑠璃太子釋氏とあだをむすびし因緣によりて、王位につきて後、釋氏をほろぼす事九千九百九十萬人、目連尊者佛に申ていはく、衆生の苦をば親疎をえらばず救ひ給ふこそ佛の大悲なれば餘人なりともかやうの難にあふをばたすけ給ふべし。しかるに今ほろぶる人は皆佛の御一族なり、しかるをたすけ給はざることは何ぞや。佛の言、彼等がほろぶることは皆前世の業因のむくひなるが故に、たすくることあたはず、爾の時、目連まさしく金口の說を聞けども、猶疑心やまず、卽神通を以て殺しのこされたる者五百人を相具して、四王天の邊にゆきて鉢をひろくなして、五百人の上に覆てかくし給ひけり。かやうにしたらばさりとものかゝる事もありなんと思はれけり、佛に參りて此の由を申す。佛の言く、業力のいたる事は處をもえらばず、神通にもさえられず、汝かしこがほにしたれども、五百人皆鉢の中にて死にぬ。目連卽かのところへとひ行いて見られければ、佛の御言にたがはざりけり。經論の中にかやうの因緣一つにあらず。しるべし業力のたやすく轉ずべからざる事を。

現代語訳

このように定まった業報は、仏や菩薩の力でも転ずることはできない。容貌の美醜、福徳の大小、寿命の長短、家柄の貴賤、これらはみな前世の業因に応じた定業である。荘子などは、前世の業因によることを知らないので、貧富や貴賤はすべて自然のものだと思っている。仏教はそうではない。前世の悪因によって悪い果を得た人も、この道理を知って今生に悪業を作らなければ、来世には必ず善い果を得るだろう。転じがたい現在の報いをあれこれ扱いかねているうちに、来世の善因も修めないのは、愚かな人ではないか。 たとえば農夫が田を作るようなものである。春の時節に耕すことも丁寧でなく、草を取らず水もかけず、種をまき苗を植えることもおろそかだったので、秋になって見ると、型どおり稲には似ているけれども、藁を取るほどの収穫も得がたい。まして米を収めることなどできようか。このとき農夫が嘆いて、初めて水をかけ草を取っても、もう叶わない。それなのにもしや、もしやと秋の稲を扱いかねているのは愚かである。ただ、この秋の収穫時に得るものがないのは、ひとえに春の耕作のときにおろそかにしたせいだとして、来年の耕作をよく営めば、必ずこの秋のような損失は出ないだろう。 経の中に、仏力や法力を明らかにするとき、定業もまた転ずることができる、という文がある。また、仏力も業力には勝てない、とも言う。もし人が日頃の凡夫の情をひるがえし、正しい念に住して、あるいは道を行い成就するため、あるいは他人を利益するために、現在の報いを祈り変えようと思い、仏力や法力によって誠の心で修めれば、定業であっても必ず転ずるであろう。だから、定業もまた転ずることができる、とも言う。もし人が凡夫の情の執着によって、命を延ばしたく福を保ちたいために祈るなら、このような欲心は仏心と合致しないので、感応はあるはずがない。このため、仏力も業力には勝てない、と言う。 諸仏は大悲を本体とするので、一切衆生を哀れむことは一人子のようだと説かれている。もし仏力がたやすく業力を遮ることができるなら、悪道に落ちる者はなく、濁世に生まれて多くの苦しみを受ける人もないはずである。 仏がおられた時、瑠璃太子は釈迦族と怨みを結んだ因縁によって、王位に就いた後、釈迦族を滅ぼしたこと九千九百九十万人であった。目連尊者は仏に申し上げた。衆生の苦を、親しい者と疎い者を選ばずに救ってくださることこそ仏の大悲ですから、他人であってもこのような難に遭う者をお助けになるはずです。ところが今滅びる人はみな仏の御一族です。それなのにお助けにならないのはなぜですか。仏は言われた。彼らが滅びるのはみな前世の業因の報いなので、助けることができない。そのとき目連は、仏の金口の説を確かに聞きながら、なお疑う心がやまなかった。そこで神通力で、殺されずに残った者五百人を連れて四天王天のあたりまで行き、鉢を大きく広げて五百人の上に覆って隠した。こうしたらいくらなんでも、こういうこともあるだろうと思われた。仏のもとに参ってこのことを申し上げると、仏は言われた。業の力が及ぶことは場所を選ばず、神通力にも遮られない。お前は賢いつもりでいるが、五百人は皆鉢の中で死んだ。目連がすぐにその場所に飛んで行って見ると、仏の言葉のとおりであった。経論の中にこうした因縁は一つではない。業力がたやすく転ずることができないことを知るべきである。

解説

願いが叶わない理由の最後に、夢窓疎石は定業は仏の力でも動かしにくいと述べます。ただし悪因で悪果を受けた人も、今生に悪業を作らなければ来世に善果を得る、と次の一歩を示します。春の耕作を怠った農夫が、秋に嘆いても遅いという喩えは、結果を嘆くよりも次の準備を整えるべきだという教えです。瑠璃太子の滅亡譚で、神通力でも業は覆せないと念を押します。現代でも、過去の結果を悔やむ時間を、次の仕込みに回す発想として読めます。
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人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

定業因果順現報農夫の喩え瑠璃太子目連

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