夢中問答集 / 『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(三)
佛菩薩は世間の長者にはかはりて、慈悲廣大にまします故に、世間有爲の壽福を祈ることをばきらふて、無上道をねがふ事をすゝめ給へり。しかるを佛神に參りてたゞ世事をのみ祈る人は長者の家にゆきて、わづかなる輕物をこふ人よりも猶愚なりと申しぬべし。北州に生れたる人は田畠を耕作せざれども、自然の粳米ありて食にともしきことなし、綾錦を紡織せざれども、殊勝の衣服身をかざり、命の長きこと千年其の內には中天なし。人王の中に金銀銅鐵の四種の輪王あり。其の中に金輪聖王は人間第一の果報を得て、四天下を統領し、七寳を受用す。其の壽命或は無量歲或は八萬歲なり。欲界の中に六天あり初めをば四王天となづく。毘沙門等の四天王の住所なり。福のともしきことあるべからず其の壽命は世間の五十年を一日一夜として五百歲なり、其の次には忉利天となづく。須彌山の頂きにあり、帝釋は其天王なり。毘沙門等の四天王日月星宿も皆帝釋の眷屬なり、其の果報いやしといはんや。其の壽は人間の百年を一日一夜として一千歲なり。其の上の四天次第に果報も勝れし壽命も各一倍長し第六の他化自在天の壽命は、人間の一千六百年を一日一夜として、一萬六千歲なり、これらは天人と申せどせ、猶も欲界の內に生れたるが故に、壽福つくる時、必ず五衰の悲み生ず。此の上へに色界無色界あり、これを三界となづく。色界の內に四禪あり、此の界の天人皆色相ならびなく、身光ことに明かなり。其の初禪には梵王居して、三界一統の王なりと許し給へり。壽の長きこと一劫半、第四禪には壞劫の時の三災もいたらず。其の中廣果天命の長き事五百劫無色界の內に四處あり。此の天に生ずる者は色身なきが故に、衣食財寳等すべて入る事なし。其の壽は初の天は二萬劫乃至第四の悲想天は八萬劫なり。かやうの果報めでたしといへ共、皆な是れ有爲の善因にこたへ、有漏の禪定によりて得たるが故に、福壽ともに限りありて、つゐには惡趣に輪廻す。故に法華經に云く、三界は安き事なし、なをし火宅のごとしと云々。然らば卽ち智者はかやうの果報をばねかはず五濁惡世に生れたる人、果報いみじと見ゆるも、北州の人にだも及ばず、いはんや諸天をや壽命長しといふ人も、百歲なるはありがたし。たとひ百歲になるとも、忉利天の一日一夜にあたれり、まして悲想の八萬劫にたくらべは片時にもあたるべからず。これほどあさましき果報を佛神に祈り奉る事、枇杷のさねを祈りける尼公と何の差別があらんや。たゞ無上道を祈り求めば、やがて正覺を成ずるまでこそなく共、其の自善根の力により佛神の加彼力によりて災難もをのづから除かり、壽福もつゝがなきほどの得利はたゞ今生のみにあらず、生々世々までもあるべきに、たとひ祈り得てしるしありとも、幾程もなき果報を祈るとて、一期をばいたづらにくらして、當來は惡趣に入ん事あさましき事にあらずや。佛は一切の事にみな自在を得給へりといへども、其の中に三不能といへることあり。一には無緣の衆生を度することあたはず、二つには衆生界をつくすことあたはず、三には定業を轉ずる事あたはず、定業とは前世の善惡の業因によりて、感得したる善惡の業報なり。
新字:仏菩薩は世間の長者にはかはりて、慈悲広大にまします故に、世間有為の寿福を祈ることをばきらふて、無上道をねがふ事をすゝめ給へり。しかるを仏神に参りてたゞ世事をのみ祈る人は長者の家にゆきて、わづかなる軽物をこふ人よりも猶愚なりと申しぬべし。北州に生れたる人は田畠を耕作せざれども、自然の粳米ありて食にともしきことなし、綾錦を紡織せざれども、殊勝の衣服身をかざり、命の長きこと千年其の内には中天なし。人王の中に金銀銅鉄の四種の輪王あり。其の中に金輪聖王は人間第一の果報を得て、四天下を統領し、七宝を受用す。其の寿命或は無量歳或は八万歳なり。欲界の中に六天あり初めをば四王天となづく。毘沙門等の四天王の住所なり。福のともしきことあるべからず其の寿命は世間の五十年を一日一夜として五百歳なり、其の次には忉利天となづく。須弥山の頂きにあり、帝釈は其天王なり。毘沙門等の四天王日月星宿も皆帝釈の眷属なり、其の果報いやしといはんや。其の寿は人間の百年を一日一夜として一千歳なり。其の上の四天次第に果報も勝れし寿命も各一倍長し第六の他化自在天の寿命は、人間の一千六百年を一日一夜として、一万六千歳なり、これらは天人と申せどせ、猶も欲界の内に生れたるが故に、寿福つくる時、必ず五衰の悲み生ず。此の上へに色界無色界あり、これを三界となづく。色界の内に四禅あり、此の界の天人皆色相ならびなく、身光ことに明かなり。其の初禅には梵王居して、三界一統の王なりと許し給へり。寿の長きこと一劫半、第四禅には壊劫の時の三災もいたらず。其の中広果天命の長き事五百劫無色界の内に四処あり。此の天に生ずる者は色身なきが故に、衣食財宝等すべて入る事なし。其の寿は初の天は二万劫乃至第四の悲想天は八万劫なり。かやうの果報めでたしといへ共、皆な是れ有為の善因にこたへ、有漏の禅定によりて得たるが故に、福寿ともに限りありて、つゐには悪趣に輪廻す。故に法華経に云く、三界は安き事なし、なをし火宅のごとしと云々。然らば即ち智者はかやうの果報をばねかはず五濁悪世に生れたる人、果報いみじと見ゆるも、北州の人にだも及ばず、いはんや諸天をや寿命長しといふ人も、百歳なるはありがたし。たとひ百歳になるとも、忉利天の一日一夜にあたれり、まして悲想の八万劫にたくらべは片時にもあたるべからず。これほどあさましき果報を仏神に祈り奉る事、枇杷のさねを祈りける尼公と何の差別があらんや。たゞ無上道を祈り求めば、やがて正覚を成ずるまでこそなく共、其の自善根の力により仏神の加彼力によりて災難もをのづから除かり、寿福もつゝがなきほどの得利はたゞ今生のみにあらず、生々世々までもあるべきに、たとひ祈り得てしるしありとも、幾程もなき果報を祈るとて、一期をばいたづらにくらして、当来は悪趣に入ん事あさましき事にあらずや。仏は一切の事にみな自在を得給へりといへども、其の中に三不能といへることあり。一には無縁の衆生を度することあたはず、二つには衆生界をつくすことあたはず、三には定業を転ずる事あたはず、定業とは前世の善悪の業因によりて、感得したる善悪の業報なり。
書き下し
佛菩薩は世間の長者にはかはりて、慈悲廣大にまします故に、世間有爲の壽福を祈ることをばきらふて、無上道をねがふ事をすゝめ給へり。しかるを佛神に參りてたゞ世事をのみ祈る人は長者の家にゆきて、わづかなる輕物をこふ人よりも猶愚なりと申しぬべし。北州に生れたる人は田畠を耕作せざれども、自然の粳米ありて食にともしきことなし、綾錦を紡織せざれども、殊勝の衣服身をかざり、命の長きこと千年其の內には中天なし。人王の中に金銀銅鐵の四種の輪王あり。其の中に金輪聖王は人間第一の果報を得て、四天下を統領し、七寳を受用す。其の壽命或は無量歲或は八萬歲なり。欲界の中に六天あり初めをば四王天となづく。毘沙門等の四天王の住所なり。福のともしきことあるべからず其の壽命は世間の五十年を一日一夜として五百歲なり、其の次には忉利天となづく。須彌山の頂きにあり、帝釋は其天王なり。毘沙門等の四天王日月星宿も皆帝釋の眷屬なり、其の果報いやしといはんや。其の壽は人間の百年を一日一夜として一千歲なり。其の上の四天次第に果報も勝れし壽命も各一倍長し第六の他化自在天の壽命は、人間の一千六百年を一日一夜として、一萬六千歲なり、これらは天人と申せどせ、猶も欲界の內に生れたるが故に、壽福つくる時、必ず五衰の悲み生ず。此の上へに色界無色界あり、これを三界となづく。色界の內に四禪あり、此の界の天人皆色相ならびなく、身光ことに明かなり。其の初禪には梵王居して、三界一統の王なりと許し給へり。壽の長きこと一劫半、第四禪には壞劫の時の三災もいたらず。其の中廣果天命の長き事五百劫無色界の內に四處あり。此の天に生ずる者は色身なきが故に、衣食財寳等すべて入る事なし。其の壽は初の天は二萬劫乃至第四の悲想天は八萬劫なり。かやうの果報めでたしといへ共、皆な是れ有爲の善因にこたへ、有漏の禪定によりて得たるが故に、福壽ともに限りありて、つゐには惡趣に輪廻す。故に法華經に云く、三界は安き事なし、なをし火宅のごとしと云々。然らば卽ち智者はかやうの果報をばねかはず五濁惡世に生れたる人、果報いみじと見ゆるも、北州の人にだも及ばず、いはんや諸天をや壽命長しといふ人も、百歲なるはありがたし。たとひ百歲になるとも、忉利天の一日一夜にあたれり、まして悲想の八萬劫にたくらべは片時にもあたるべからず。これほどあさましき果報を佛神に祈り奉る事、枇杷のさねを祈りける尼公と何の差別があらんや。たゞ無上道を祈り求めば、やがて正覺を成ずるまでこそなく共、其の自善根の力により佛神の加彼力によりて災難もをのづから除かり、壽福もつゝがなきほどの得利はたゞ今生のみにあらず、生々世々までもあるべきに、たとひ祈り得てしるしありとも、幾程もなき果報を祈るとて、一期をばいたづらにくらして、當來は惡趣に入ん事あさましき事にあらずや。佛は一切の事にみな自在を得給へりといへども、其の中に三不能といへることあり。一には無緣の衆生を度することあたはず、二つには衆生界をつくすことあたはず、三には定業を轉ずる事あたはず、定業とは前世の善惡の業因によりて、感得したる善惡の業報なり。
現代語訳
仏や菩薩は世間の長者とは違って、慈悲が広大でいらっしゃるので、世間の有為の寿命や福を祈ることを嫌って、無上の悟りを願うことを勧められる。それなのに、仏や神に参って、ただ世間のことばかりを祈る人は、長者の家に行ってわずかな軽い物を乞う人よりも、なお愚かだと言ってよいだろう。 北州(北倶盧洲)に生まれた人は、田畑を耕さなくても自然に生える粳米があって食に不足がなく、綾や錦を紡ぎ織らなくても立派な衣服が身を飾り、寿命は千年と長く、その間に若死にがない。人間の王の中に、金・銀・銅・鉄の四種の輪王がある。その中の金輪聖王は人間の中で第一の果報を得て、四天下を統べ、七宝を受け用いる。その寿命は無量歳、あるいは八万歳である。 欲界の中に六つの天がある。最初を四王天と名づける。毘沙門などの四天王の住所である。福が乏しいということはなく、その寿命は人間界の五十年を一日一夜として五百歳である。その次を忉利天と名づける。須弥山の頂にあり、帝釈がその天王である。毘沙門などの四天王や日月星宿も、みな帝釈の眷属である。その果報が賤しいはずがない。その寿命は人間の百年を一日一夜として千歳である。その上の四つの天は、次第に果報も優れ、寿命もそれぞれ倍ずつ長くなる。第六の他化自在天の寿命は、人間の千六百年を一日一夜として一万六千歳である。これらは天人と言っても、なお欲界の内に生まれたものなので、寿命と福が尽きるときには必ず五衰の悲しみが生じる。 この上に色界・無色界があり、これを三界と名づける。色界の内に四禅があり、この世界の天人はみな容貌が並びなく、身の光がことに明るい。その初禅には梵天王が住み、三界を統べる王と認められている。寿命の長さは一劫半。第四禅には壊劫のときの三つの災いも及ばない。その中の広果天の寿命の長さは五百劫である。無色界には四つの処がある。この天に生まれる者は色身がないので、衣食や財宝などはまったく要らない。その寿命は、最初の天は二万劫、第四の非想天は八万劫である。 このような果報はめでたいと言っても、みな有為の善因に応じ、有漏の禅定によって得たものなので、福も寿命もともに限りがあり、ついには悪趣に輪廻する。だから法華経に、三界に安らぎはない、なお火のついた家のようなものだ、と説かれている。そうであれば、智者はこのような果報を願わない。五濁悪世に生まれた人は、果報が優れているように見えても北州の人にさえ及ばず、まして諸天には及ばない。寿命が長いと言う人も、百歳に至る人は稀である。たとえ百歳になったとしても、忉利天の一日一夜にあたる。まして非想天の八万劫に比べれば、一瞬にも当たらない。これほどあさましい果報を仏や神に祈ることは、枇杷の種を祈った尼と何の違いがあろうか。 ただ無上の悟りを祈り求めれば、すぐに正覚を成就するまではいかなくても、その自らの善根の力によって、仏や神の加護の力によって、災難もおのずと除かれ、寿命と福も滞りなく保たれる。その利益は今生だけでなく生々世々に及ぶはずなのに、たとえ祈って験があったとしても、いくらも続かない果報を祈って、一生を無駄に暮らし、来世は悪趣に入るというのは、あさましいことではないか。 仏はあらゆることに自在を得ておられるけれども、その中に三つの不能ということがある。一つには、縁のない衆生を救うことができない。二つには、衆生界を尽くすことができない。三つには、定業を転ずることができない。定業とは、前世の善悪の業因によって感じ得た、善悪の業報のことである。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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夢中問答集・『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(一)問佛菩薩は皆一切衆生の願を滿給はんといふ誓あり。たとひ衆生の方より祈求めずとも、苦みある者をばこれをぬきて樂をあたへ給ふべし。しかるに末代のやうをみれば。心をつくして祈れ共かなふ事のまれなることは何ぞや。 答予三十年の前きに此の疑の起る事ありき、常州臼庭といふ所に獨住せし時、五月の始め庵外に遊行す、其の頃ひさしく雨ふらす、田畠みな枯野のごとし、これを見てあはれむ心ふかく起れり。心中に思ふやうなどか龍王にこれをあはれむ心のなかるらん。其時、又うちかへして思ふやう。龍王は雨をふらす能はあれども、人をあはれむ心なし。我れには人をあはれむ心はあれ共、雨をふらす德なし。佛菩薩は雨をふらす德も、龍王にすぐれ人をあはれむ心も我よりふかゝるべし。しかれ共かやうの厄難をたすけ給はぬことは、何ぞや若し衆生の業報つたなき故に佛の利益もかなはぬと、いはゞ凡夫の苦にあふことは皆業報の故なり。若し業報をばたすくべからざることならば、佛菩薩の凡夫の願ひを滿ち給ふといふこと虛言なるべし。若し又聖敎にあかすこと何ぞ虛言ならんやといはゞ古はしらず、今をみるに貴賤上下誰れこそ所願滿足せりとみゆる人もなし。藥師如來は衆生の病を除滅せんと誓ひ給へども、世間をみるに病者ならぬ人はすくなし。普賢菩薩は一切衆生に隨順して給使せんと誓給へども、世間をみれば從ふ者一人もなくしていやしき人も多し。たま〱眷屬はあまたあれども、誰こそ普賢かとおほしくて主人の心にかなへる人もなし。上代は大師高僧出世して靈驗をほどこし、衆生の厄難をすくひ給ひき。古は世も上代にて人の果報もいみじかりしかば、たとひ大師高僧の靈驗をほどこし給はずともありぬべし。今は世もいよ〱濁惡になりぬ人も亦、薄福なりかやうの時こそ、ことさらに靈驗まします大師高僧も大切なるに、或は入滅、或は入定とて出現し給はぬことは何ぞや。かやうの疑さま〱に起れり。しかれどもさせる一大事の因緣ならねば打捨て心にかけず。其の後一兩月をへていさゝか思出づる事あり。昔西行江口といふ宿にてやどをかりけるに、あるじの君ゆるさず。西行一首の謌をすさめり。世の中をいとふまでこそかたからぬかりのやどりをおしむ君かな。家主これを聞て、世をいとふ人としきけばかりのやどに心とむなと思ふばかりぞと詠じけり。つねさまになさけといへる事は皆妄執をとゞむる因緣なり。されば人のなさけもなく、世の意にかなはぬ事は出離生死のたすけとなるべし。昔洛陽に外典の才學拔群なる人ありき、其の子の小童を膝もとにをきて文をならはしむ。我が身の出仕する時は此の小童の一身坐するやうなる構をして、繩にて梁につりあげて文をあづけてよましめけり。其繼母なりける人、此の小童をあはれみて、父の他行しけるあとには、いだきおろして暫時あり、はじめて父の歸り來るべき時節には本のごとく坐せしむ。彼小童の心に父のいましめはうらめしく、繼母のなさけのうれしき事限りなし。成長の後、日來の稽古によりて、つゐに家業を續で辨官にめしつかはる。
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夢中問答集・『夢中問答集』仏力で定業は変わるか問佛力法力たやすく定業を轉ずることあたはずば、何をか佛法の利益と申すべきや。 答業に種々のしなあり、現生にやがてむくふをば順現業となづく。次の生にむくふをば順生業といふ。順生の後にむくふは順後業なり、若この三種よりも輕き業なるはいつにても便宜の時むくふべし。かやうなるをば不定業と名づけたり。輕重によりて遲速ありといへ共、つくりおける業のむくはずして、たゞやむ事はあるべからず。佛力法力にあらずば、いかでかこれを消滅せんや佛力法力ありといへども、衆生若求哀懺愧の心なれば、消滅する事あたはずたとへば耆婆扁鵲は名醫なれども、人の病をおさへてなをすことあたはず、病者もし其敎へに隨ふて療治すれば病者の苦忽にやむがごとし。佛も亦かくのごとし。衆生の業報をおさへて轉ずることあたはず、三世了達の智慧を以て衆生の種々業報の因緣を知見して、貧苦は慳貪の業因によれり、短命は殺生の業報なり、形容の醜陋なるは忍辱ならざる故なり。種姓の下賤なるは、他人を輕劣したりしむくひなりと說き給へり。若人此敎へに隨ふて前非を悔てながくかやうの業因をやめなば、何ぞ定業とて轉せざる事あらんや。今時の人をみれば朝夕內には惡念をたくはへ、外には惡行をのみなしてさすがに福分もねがはしく壽命もながらへたきまゝに、佛にいのり、神にまうづるばかりなり。若かやうならば、いかでかしるしもあるべきや、伊勢太神宮には幣帛をさゝぐることをも制し給ふ。經呪を讀誦するをもゆるされず。予先年勢州に下りて外宮の邊に一宿したることありき。其時、一人の禰宜といふ人に其謂れをたづねしかば、此社に詣づる時、內外の清淨あり、外の清淨とは精進潔齋して、身を穢惡にふれざるなり、內の清淨とは胸中に名利の望みをおかざるなり、よのつね幣帛をさゝげ法樂をなすことは、皆な是名利の望みを祈り奉らんためなれば內清淨にあらず、この故にこれを制し給へり。たとへば政道をたすくる官人の訴人のわいろをとらざるがごとし。貧窮下賤にして、名利共にかけたることは偏に是れ前世に名利のために惡業をつくりし故なり。しかればたゞ名利を求めることをやめて、內心清淨ならば、名位福祿をのづから滿足すべし。若し、しからずば、日々夜々に參詣して、幣帛神馬の賄賂をさゝげ、經呪法樂の追從をはげます共、其所望をかなふる事あるべからず、神慮かくのごとし。此の事は御託宣の記に見へたりと云々。此の物語の次でに御殿ちかく法師の入らぬ事は如何なる故やらんとたづね申ししかば、彼禰宜答て云、世間にはさま〱に此謂れを申す人もあり、皆是推義なり、日本に佛法のわたれることは第三十帝廣庭の天皇の御時なり。神明の此地に跡をたれさせ給ひし時は、佛法いまだ流布せず、出家の人もあるべからず。然らば卽ち法師は參るべかずとの御いましめもあらんや。昔は內裏なんどへも出家の形にて參ることはなかりき。佛法流布の世になりて、國王御歸依の御ために有智高德の僧を召し入れらるそれよりして、法師の出入をゆるされけり。此社壇は昔の風儀をあらためず、又內清淨を人にしめさんために、法樂をもうけ給はしと御託宣ありし故に、有無に法師は出入せぬよしになれり。
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夢中問答集・『夢中問答集』癡福は三生の怨み問あまりに善根に心をかたぶけたる故に、政道の害になりて、世もおさまりやらぬよしを申す人あり。其の謂れありや。 答聖敎の中に癡福は三生の怨みと申す事あり。其の故は愚癡にして有漏の善をのみ作つて一生をすごす程に、心地を明むる事あたはず。是れ一生の怨みなり。此の有漏の善によりて次の生に欲界の人天に生れて、富貴の果報を得る故に世間の愛着もいよ〱深く、罪業の熏力も亦重し、たとひ罪業をばさしもつくらぬ人なし共。政務に心を亂り、嬉戯にひまのなき故に、正法を行ずることはなし、是二生の怨みなり。前世の有漏の善根は今生に受盡しぬ、曠劫の無明の熏力はいよ〱かさなれる故に、又次の生には惡趣に墮す。この故に、癡福は三生の怨みと申すなり。しかれ共、提謂經等の中に五戒十善等の有曠の善根を修すべきことを說き給へり。これを人天敎となづく。宿習のつたなき故に正法を行せよと如來すゝめ給ふともかなふまじき人をば、先づ彼れがねがふ所の人天の果報を得せしめて漸く引導して、正法に入しめんために、しばらく有漏の善根を修すべきことを敎へ給へり。しかれば末代のありさま今生の祈り來世の福のためとて善を修し給ふもありがたきことなれば、あながちに制し申すべきにはあらねども、同くは三生の怨みとなさぬやうに勤行せられば、卽ち是れ如來の本意なり。いまだ心地をさとらざる人は、たとひ種々の善をなせども、皆有漏の善となるなり。敎禪の宗師同じく、先づ心地をあきらめて後に諸善をば修せよとすゝめ給へるは此の意なり。天台大師六卽の位を立て修證の階を判し給へる中に、妙解開けて後、觀行卽の初品の位に到るまでも他人のために法門をとき、自行のために經呪を讀誦するをも道の障りとてこれを制す。第二品の位に到つて始めて讀經誦呪をゆるし、第三品に到つて、すこしき說法利生の分をゆるせり。第四品に到つて始めて六度を兼行し、第五品に到つて正しく六度を行して衆生を利益すべしと見へたり。圓悟禪師の心要に悟性勸善の文として載せられたるも、先づ心性を悟て、然して後に善根をば修せよとの由しなり心地を悟らざる人は、所作の善根たゞ有爲の果報の因なるが故に、出離の要道とはならず。たま〱法を說き人を度すれども、愛見の大悲に墮するが故に、眞實の化導にはあらず、是を以て有漏の善根をば制して、正法を行ずることをすゝむるなり。