夢中問答集 / 『夢中問答集』仏力で定業は変わるか
問佛力法力たやすく定業を轉ずることあたはずば、何をか佛法の利益と申すべきや。 答業に種々のしなあり、現生にやがてむくふをば順現業となづく。次の生にむくふをば順生業といふ。順生の後にむくふは順後業なり、若この三種よりも輕き業なるはいつにても便宜の時むくふべし。かやうなるをば不定業と名づけたり。輕重によりて遲速ありといへ共、つくりおける業のむくはずして、たゞやむ事はあるべからず。佛力法力にあらずば、いかでかこれを消滅せんや佛力法力ありといへども、衆生若求哀懺愧の心なれば、消滅する事あたはずたとへば耆婆扁鵲は名醫なれども、人の病をおさへてなをすことあたはず、病者もし其敎へに隨ふて療治すれば病者の苦忽にやむがごとし。佛も亦かくのごとし。衆生の業報をおさへて轉ずることあたはず、三世了達の智慧を以て衆生の種々業報の因緣を知見して、貧苦は慳貪の業因によれり、短命は殺生の業報なり、形容の醜陋なるは忍辱ならざる故なり。種姓の下賤なるは、他人を輕劣したりしむくひなりと說き給へり。若人此敎へに隨ふて前非を悔てながくかやうの業因をやめなば、何ぞ定業とて轉せざる事あらんや。今時の人をみれば朝夕內には惡念をたくはへ、外には惡行をのみなしてさすがに福分もねがはしく壽命もながらへたきまゝに、佛にいのり、神にまうづるばかりなり。若かやうならば、いかでかしるしもあるべきや、伊勢太神宮には幣帛をさゝぐることをも制し給ふ。經呪を讀誦するをもゆるされず。予先年勢州に下りて外宮の邊に一宿したることありき。其時、一人の禰宜といふ人に其謂れをたづねしかば、此社に詣づる時、內外の清淨あり、外の清淨とは精進潔齋して、身を穢惡にふれざるなり、內の清淨とは胸中に名利の望みをおかざるなり、よのつね幣帛をさゝげ法樂をなすことは、皆な是名利の望みを祈り奉らんためなれば內清淨にあらず、この故にこれを制し給へり。たとへば政道をたすくる官人の訴人のわいろをとらざるがごとし。貧窮下賤にして、名利共にかけたることは偏に是れ前世に名利のために惡業をつくりし故なり。しかればたゞ名利を求めることをやめて、內心清淨ならば、名位福祿をのづから滿足すべし。若し、しからずば、日々夜々に參詣して、幣帛神馬の賄賂をさゝげ、經呪法樂の追從をはげます共、其所望をかなふる事あるべからず、神慮かくのごとし。此の事は御託宣の記に見へたりと云々。此の物語の次でに御殿ちかく法師の入らぬ事は如何なる故やらんとたづね申ししかば、彼禰宜答て云、世間にはさま〱に此謂れを申す人もあり、皆是推義なり、日本に佛法のわたれることは第三十帝廣庭の天皇の御時なり。神明の此地に跡をたれさせ給ひし時は、佛法いまだ流布せず、出家の人もあるべからず。然らば卽ち法師は參るべかずとの御いましめもあらんや。昔は內裏なんどへも出家の形にて參ることはなかりき。佛法流布の世になりて、國王御歸依の御ために有智高德の僧を召し入れらるそれよりして、法師の出入をゆるされけり。此社壇は昔の風儀をあらためず、又內清淨を人にしめさんために、法樂をもうけ給はしと御託宣ありし故に、有無に法師は出入せぬよしになれり。
新字:問仏力法力たやすく定業を転ずることあたはずば、何をか仏法の利益と申すべきや。 答業に種々のしなあり、現生にやがてむくふをば順現業となづく。次の生にむくふをば順生業といふ。順生の後にむくふは順後業なり、若この三種よりも軽き業なるはいつにても便宜の時むくふべし。かやうなるをば不定業と名づけたり。軽重によりて遅速ありといへ共、つくりおける業のむくはずして、たゞやむ事はあるべからず。仏力法力にあらずば、いかでかこれを消滅せんや仏力法力ありといへども、衆生若求哀懺愧の心なれば、消滅する事あたはずたとへば耆婆扁鵲は名医なれども、人の病をおさへてなをすことあたはず、病者もし其教へに随ふて療治すれば病者の苦忽にやむがごとし。仏も亦かくのごとし。衆生の業報をおさへて転ずることあたはず、三世了達の智慧を以て衆生の種々業報の因縁を知見して、貧苦は慳貪の業因によれり、短命は殺生の業報なり、形容の醜陋なるは忍辱ならざる故なり。種姓の下賤なるは、他人を軽劣したりしむくひなりと説き給へり。若人此教へに随ふて前非を悔てながくかやうの業因をやめなば、何ぞ定業とて転せざる事あらんや。今時の人をみれば朝夕内には悪念をたくはへ、外には悪行をのみなしてさすがに福分もねがはしく寿命もながらへたきまゝに、仏にいのり、神にまうづるばかりなり。若かやうならば、いかでかしるしもあるべきや、伊勢太神宮には幣帛をさゝぐることをも制し給ふ。経呪を読誦するをもゆるされず。予先年勢州に下りて外宮の辺に一宿したることありき。其時、一人の祢宜といふ人に其謂れをたづねしかば、此社に詣づる時、内外の清浄あり、外の清浄とは精進潔斎して、身を穢悪にふれざるなり、内の清浄とは胸中に名利の望みをおかざるなり、よのつね幣帛をさゝげ法楽をなすことは、皆な是名利の望みを祈り奉らんためなれば内清浄にあらず、この故にこれを制し給へり。たとへば政道をたすくる官人の訴人のわいろをとらざるがごとし。貧窮下賤にして、名利共にかけたることは偏に是れ前世に名利のために悪業をつくりし故なり。しかればたゞ名利を求めることをやめて、内心清浄ならば、名位福禄をのづから満足すべし。若し、しからずば、日々夜々に参詣して、幣帛神馬の賄賂をさゝげ、経呪法楽の追従をはげます共、其所望をかなふる事あるべからず、神慮かくのごとし。此の事は御託宣の記に見へたりと云々。此の物語の次でに御殿ちかく法師の入らぬ事は如何なる故やらんとたづね申ししかば、彼祢宜答て云、世間にはさま〱に此謂れを申す人もあり、皆是推義なり、日本に仏法のわたれることは第三十帝広庭の天皇の御時なり。神明の此地に跡をたれさせ給ひし時は、仏法いまだ流布せず、出家の人もあるべからず。然らば即ち法師は参るべかずとの御いましめもあらんや。昔は内裏なんどへも出家の形にて参ることはなかりき。仏法流布の世になりて、国王御帰依の御ために有智高徳の僧を召し入れらるそれよりして、法師の出入をゆるされけり。此社壇は昔の風儀をあらためず、又内清浄を人にしめさんために、法楽をもうけ給はしと御託宣ありし故に、有無に法師は出入せぬよしになれり。
書き下し
問佛力法力たやすく定業を轉ずることあたはずば、何をか佛法の利益と申すべきや。 答業に種々のしなあり、現生にやがてむくふをば順現業となづく。次の生にむくふをば順生業といふ。順生の後にむくふは順後業なり、若この三種よりも輕き業なるはいつにても便宜の時むくふべし。かやうなるをば不定業と名づけたり。輕重によりて遲速ありといへ共、つくりおける業のむくはずして、たゞやむ事はあるべからず。佛力法力にあらずば、いかでかこれを消滅せんや佛力法力ありといへども、衆生若求哀懺愧の心なれば、消滅する事あたはずたとへば耆婆扁鵲は名醫なれども、人の病をおさへてなをすことあたはず、病者もし其敎へに隨ふて療治すれば病者の苦忽にやむがごとし。佛も亦かくのごとし。衆生の業報をおさへて轉ずることあたはず、三世了達の智慧を以て衆生の種々業報の因緣を知見して、貧苦は慳貪の業因によれり、短命は殺生の業報なり、形容の醜陋なるは忍辱ならざる故なり。種姓の下賤なるは、他人を輕劣したりしむくひなりと說き給へり。若人此敎へに隨ふて前非を悔てながくかやうの業因をやめなば、何ぞ定業とて轉せざる事あらんや。今時の人をみれば朝夕內には惡念をたくはへ、外には惡行をのみなしてさすがに福分もねがはしく壽命もながらへたきまゝに、佛にいのり、神にまうづるばかりなり。若かやうならば、いかでかしるしもあるべきや、伊勢太神宮には幣帛をさゝぐることをも制し給ふ。經呪を讀誦するをもゆるされず。予先年勢州に下りて外宮の邊に一宿したることありき。其時、一人の禰宜といふ人に其謂れをたづねしかば、此社に詣づる時、內外の清淨あり、外の清淨とは精進潔齋して、身を穢惡にふれざるなり、內の清淨とは胸中に名利の望みをおかざるなり、よのつね幣帛をさゝげ法樂をなすことは、皆な是名利の望みを祈り奉らんためなれば內清淨にあらず、この故にこれを制し給へり。たとへば政道をたすくる官人の訴人のわいろをとらざるがごとし。貧窮下賤にして、名利共にかけたることは偏に是れ前世に名利のために惡業をつくりし故なり。しかればたゞ名利を求めることをやめて、內心清淨ならば、名位福祿をのづから滿足すべし。若し、しからずば、日々夜々に參詣して、幣帛神馬の賄賂をさゝげ、經呪法樂の追從をはげます共、其所望をかなふる事あるべからず、神慮かくのごとし。此の事は御託宣の記に見へたりと云々。此の物語の次でに御殿ちかく法師の入らぬ事は如何なる故やらんとたづね申ししかば、彼禰宜答て云、世間にはさま〱に此謂れを申す人もあり、皆是推義なり、日本に佛法のわたれることは第三十帝廣庭の天皇の御時なり。神明の此地に跡をたれさせ給ひし時は、佛法いまだ流布せず、出家の人もあるべからず。然らば卽ち法師は參るべかずとの御いましめもあらんや。昔は內裏なんどへも出家の形にて參ることはなかりき。佛法流布の世になりて、國王御歸依の御ために有智高德の僧を召し入れらるそれよりして、法師の出入をゆるされけり。此社壇は昔の風儀をあらためず、又內清淨を人にしめさんために、法樂をもうけ給はしと御託宣ありし故に、有無に法師は出入せぬよしになれり。
現代語訳
問:仏力や法力でも定業をたやすく転ずることができないなら、何を仏法の利益と言うべきか。 答:業にはさまざまな種類がある。現生のうちにすぐ報いるものを順現業と名づける。次の生に報いるものを順生業と言う。順生の後に報いるものを順後業と言う。もしこの三種よりも軽い業は、いつでも都合のよいときに報いる。これを不定業と名づける。軽重によって遅速はあるけれども、作った業が報いずに、そのままやむことはない。仏力や法力でなければ、どうしてこれを消し去ることができようか。仏力や法力があっても、衆生に哀れみを求め恥じ悔いる心がなければ、消滅させることはできない。 たとえば、耆婆や扁鵲は名医であるが、人の病を押さえつけて治すことはできない。病人がその教えに従って治療すれば、病人の苦しみはたちまちやむ。仏もまたそうである。衆生の業報を押さえて転ずることはできず、過去・現在・未来を見通す智慧で、衆生のさまざまな業報の因縁を見知って、貧苦はけちで貪る業因によるもの、短命は殺生の業報、容貌の醜いのは耐え忍ぶことをしなかったから、家柄の賤しいのは他人を軽んじ劣るとしたことの報いだ、と説かれた。もし人がこの教えに従って過去の過ちを悔い、こうした業因を永く止めれば、どうして定業だからといって転ぜられないことがあろうか。 今の人を見ると、朝夕、内には悪念を蓄え、外には悪行ばかりを行いながら、やはり福分を願い、寿命を長らえたいと思って、仏に祈り神に参るだけである。もしそうであれば、どうして験があろうか。伊勢の大神宮では、幣帛を捧げることも制しておられる。経や呪を読誦することも許されない。私は先年、伊勢に下って外宮のあたりに一泊したことがあった。そのとき、一人の禰宜という人にそのいわれを尋ねたところ、こう答えた。この社に参るときには内外の清浄がある。外の清浄とは、精進潔斎して身を穢れたものに触れさせないことである。内の清浄とは、胸中に名利の望みを抱かないことである。通常、幣帛を捧げ、法楽をするのは、皆、名利の望みを祈り申し上げるためなので内の清浄ではない。だからこれを制しておられる。たとえば、政道を助ける官人が、訴人の賄賂を受け取らないようなものである。貧しく賤しく、名も利も欠けているのは、ひとえに前世で名利のために悪業を作ったからである。それゆえ、ただ名利を求めることをやめて内心が清浄であれば、名位や福禄はおのずと満ち足りるだろう。そうでなければ、日々夜々に参詣して、幣帛や神馬の賄賂を捧げ、経や呪、法楽の追従に励んでも、その所望を叶えることはない。神の思し召しはこのとおりである。このことは御託宣の記に見える、と。 この話のついでに、御殿の近くに法師が入らないのはどういう理由かと尋ねたところ、その禰宜は答えた。世間にはさまざまにそのいわれを言う人もあるが、みな推測である。日本に仏法が渡ったのは、第三十代の広庭天皇(欽明天皇)の御代である。神明がこの地に跡を垂れられたときは、仏法はまだ広まっておらず、出家の人もいるはずがない。そうであれば、法師は参ってはならぬという戒めがあるはずもない。昔は内裏などへも出家の姿で参ることはなかった。仏法が広まる世になって、国王が帰依なさるために、智慧と高い徳のある僧を召し入れられた。それから法師の出入りが許された。この社壇は昔の風儀を改めず、また内の清浄を人に示すために法楽をお設けになったと御託宣があったので、法師は有無を言わさず出入りしないことになった。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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本の中身を見るこの章句が説くこと
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夢中問答集・『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(一)問佛菩薩は皆一切衆生の願を滿給はんといふ誓あり。たとひ衆生の方より祈求めずとも、苦みある者をばこれをぬきて樂をあたへ給ふべし。しかるに末代のやうをみれば。心をつくして祈れ共かなふ事のまれなることは何ぞや。 答予三十年の前きに此の疑の起る事ありき、常州臼庭といふ所に獨住せし時、五月の始め庵外に遊行す、其の頃ひさしく雨ふらす、田畠みな枯野のごとし、これを見てあはれむ心ふかく起れり。心中に思ふやうなどか龍王にこれをあはれむ心のなかるらん。其時、又うちかへして思ふやう。龍王は雨をふらす能はあれども、人をあはれむ心なし。我れには人をあはれむ心はあれ共、雨をふらす德なし。佛菩薩は雨をふらす德も、龍王にすぐれ人をあはれむ心も我よりふかゝるべし。しかれ共かやうの厄難をたすけ給はぬことは、何ぞや若し衆生の業報つたなき故に佛の利益もかなはぬと、いはゞ凡夫の苦にあふことは皆業報の故なり。若し業報をばたすくべからざることならば、佛菩薩の凡夫の願ひを滿ち給ふといふこと虛言なるべし。若し又聖敎にあかすこと何ぞ虛言ならんやといはゞ古はしらず、今をみるに貴賤上下誰れこそ所願滿足せりとみゆる人もなし。藥師如來は衆生の病を除滅せんと誓ひ給へども、世間をみるに病者ならぬ人はすくなし。普賢菩薩は一切衆生に隨順して給使せんと誓給へども、世間をみれば從ふ者一人もなくしていやしき人も多し。たま〱眷屬はあまたあれども、誰こそ普賢かとおほしくて主人の心にかなへる人もなし。上代は大師高僧出世して靈驗をほどこし、衆生の厄難をすくひ給ひき。古は世も上代にて人の果報もいみじかりしかば、たとひ大師高僧の靈驗をほどこし給はずともありぬべし。今は世もいよ〱濁惡になりぬ人も亦、薄福なりかやうの時こそ、ことさらに靈驗まします大師高僧も大切なるに、或は入滅、或は入定とて出現し給はぬことは何ぞや。かやうの疑さま〱に起れり。しかれどもさせる一大事の因緣ならねば打捨て心にかけず。其の後一兩月をへていさゝか思出づる事あり。昔西行江口といふ宿にてやどをかりけるに、あるじの君ゆるさず。西行一首の謌をすさめり。世の中をいとふまでこそかたからぬかりのやどりをおしむ君かな。家主これを聞て、世をいとふ人としきけばかりのやどに心とむなと思ふばかりぞと詠じけり。つねさまになさけといへる事は皆妄執をとゞむる因緣なり。されば人のなさけもなく、世の意にかなはぬ事は出離生死のたすけとなるべし。昔洛陽に外典の才學拔群なる人ありき、其の子の小童を膝もとにをきて文をならはしむ。我が身の出仕する時は此の小童の一身坐するやうなる構をして、繩にて梁につりあげて文をあづけてよましめけり。其繼母なりける人、此の小童をあはれみて、父の他行しけるあとには、いだきおろして暫時あり、はじめて父の歸り來るべき時節には本のごとく坐せしむ。彼小童の心に父のいましめはうらめしく、繼母のなさけのうれしき事限りなし。成長の後、日來の稽古によりて、つゐに家業を續で辨官にめしつかはる。
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夢中問答集・『夢中問答集』調伏と祈祷の心得皆打したがへて正法を行ずる僧をたすけたりき。其の心ひとへに正法を流通せんがためなりし故に、少罪をも得ざりきと云々。我朝の聖德太子の守屋の大臣を打給ひしも此の謂れなり。若し正法流布の御志はなくしてたゞ御敵を祈り殺して我が御身は世にさかへ給はんためならば、此の順現業によりて世をたもち給ふ事もひさしかるべからず、當來はまた惡報を受給ふべし。涅槃經に云く、怨みを以て怨みをむくふは油を以て火をけすがごとしと云々。佛菩薩は一切衆生をあはれみ給ふこと一子のごとし。諸神も皆佛菩薩の化身にて垂迹門に出でさせ給ふなれば、其のあはれみもいかでか親疎偏頗ましまさんや。しかるを御祈りを申さるゝ僧家も、若し正法紹隆のためにはあらずして、偏に我が身のために彼の御敵はほろびて此の御方はさかえ給へと佛神に祈り給はゞ、佛神此の人にかたらはれてさらば汝が所望に隨つて彼をばほろぼし、此をばたすけんと思ひ給はんや。佛法を信ずる人は天上の果報を得て世に災もなく、命に中天もなければとて貴しとせず、其の故はなまじひにながらへはてた小果報にばかされて佛法を行せず、つひには惡趣におつればなり。いはんや下界のありさまたとひ三皇五帝の代なりとも、佛法流布の時ならねば佛法者のねがふべき事にあらず。亂世なり共、若し佛法だに世に住せばなげくべきにあらず。しかれば禪敎律かはりたりといふとも、佛弟子となれる人は同じく天下太平佛法紹隆と祈り給ふべし。若し、爾らば天下に誰にても佛法を興行しますべき宿習も威勢もそなはり給ふ人、此の祈をば受けとり給ふべし。或人の云く、弓箭刀杖等にては人を殺すこそ罪業なれ、祕法呪力にて祈り殺すは功德となるべしと云云。これ大なる邪義なり。たとひ弓箭刀杖にて殺すとも、釋迦如來の因位の時、正法流布のために惡僧をほろぼし、聖德太子の守屋をうたせ給ひし御意のごとくならばまことに功德となるべし。たとひ大法祕法を行はるとも、其の意樂若し世俗の名利の爲ならば皆罪業をまねくべし。梵網經に殺生を制するとて乃至呪殺と說けるは此の義なり。或は云く、彼の敵は早く死して成佛せよと調伏する故に罪業とはならず云云。まことに此の調伏によりて次生にやがて成佛すべきならばげにも殊勝の事なり。若し、しからばにくき敵を祈り殺して成佛せしめんよりは、先づ我がいとほしき人を祈り殺し奉りて、佛に早くなしたてまつらばやと、よにもどかしくこそ覺ゆれ。
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夢中問答集・『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(二)其の時、幼少の時の心にはひきかへてうらめしかりし父の誡めは恩となり。うれしかりし繼母の情は仇となれりと語りける事を傳へ聞しも、此の次でに思ひ出られて日來佛菩薩の利益をさかさまに心得て、末代には佛菩薩の利益なしと思ひける謬りをやめにき、佛菩薩の誓願さま〱也といへ共、其本意をたづぬればたゞ無始輪廻の迷衢を出て、本有清淨の覺岸に到らしめんためなり。しかるに凡夫のねがふ事は皆是輪廻の基なり。かやうの願ひをみつるを聖賢の慈悲といはんや。しかれども先づ衆生の性欲に隨つて、やうやく誘引せんためにかりに所願をかなふる事なり。若し人世間の所願の滿足せるにほこりて、いよ〱執着を生じて放逸無慙愧の心を起すべき者には、その所願をかなふることあるべからず。是れ卽ち聖賢の利益なり。されば末代の凡夫の祈ることのしるしなきこそしるしなりけれ。たとへば醫師の病者を療治する時、或はにがき藥をのましめ、或はあつき灸をやけといふ病者愚痴にして其意をしらず。我が療治を求めることは、身心の苦をやめんがためなり。しかるを今又療治によりていよ〱苦をそへたり。此醫師は慈悲なき人なりといはんがごとし、醫師の慈悲なきにはあらず、病者の心のひかめるなり。諸經の終りの流通分にいたりて、諸天善神願をおこしていはく、我れ等此の持經の人を守護して災難をのぞき、財寶をあたへ、病苦をすくふべしと云々。其の趣をみれば、佛法修行の人若し前世の業因によりて、諸の苦厄にあふて行道の障りとならば、我れ等其苦厄を除きて修行の人をして、退屈することなからしめんとなり。邪見放逸の人の佛法をば行せず。たゞ世間の名利をもとめ災難をいとふ者のために、此誓をおこし給へるにはあらず。つら〱これを思へば末代の人のいのることのしるしなきはことはりなり。中頃一人の老尼公ありき、清水に詣でねんごろに禮拜をいたして願はくは、大悲觀世音尼が心にいとはしき物を早く失ふてたひ候へとくりかへし申しけり。傍に聞く人これをあやしみて、何事を祈り申し給ふぞと問ければ、尼がわかゝりし時より枇杷をこのみ侍に、あまりにさねのおほきことのいたはしく覺ゆる程に、年ごとに五月の比はこれへ參りて此の枇杷のさねをうしなふてたひ候へと申せ共、いまだしるしもなしと答へけり。だれ〱も枇杷を食する時は、さねのうるさき事はあれ共、觀音に祈り申すまでの事にはあらずとて、おかしくはかなき事に語り傳へたり。世間をみれば佛神に參り經だらにを讀ぶて身を祈る人もよも、無上道のためにはあらじ。たゞ世間の福壽をたもち災厄をまぬがれんためにこそと覺たり。若し其の分ならば枇杷のさね祈りける尼公をはかなしと思はんや。たとへば人の長者の家に到りてわづかなる輕物を求むるがごとし、それほどの所望ならば長者ならぬ人にも乞ひぬべし。され共世間の長者は慳貪の心あるが故に、重寳なんどを求めんにはたやすくあたふべからざる故に、せめての所望に輕き物をこふ共いひぬべし。