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夢中問答集 / 『夢中問答集』有漏の善と無漏の善

問福業に有漏無漏の差別ありと申す。其の義如何。 答業とは因の義也、しかれば業といへる事は善惡に通ず。善根を修するは福報を得べき業因なり。漏は煩惱なり。人天の福報を求めて善を修するは、貪欲の心を起せるが故に、これを有漏の善根と名づけたり。一善を修しても、世福をばのぞまず、偏に無上道のために廻向するをば無漏の善根といへり。善根に有漏無漏の差別あるにはあらず。若し善を修する人の心有漏なれば、其修するところの善根皆な有漏の福業となるなり。有漏心無漏心といへる事も重々の品あり、敎中に四句を以てこれを判せり。一つには唯有漏心謂ゆる凡夫外道の心なり。二つには唯無漏心謂ゆる二乘心なり。三つには亦有漏、又無漏心謂ゆる菩薩心なり。四つには非有漏非無漏心謂ゆる佛心なり。是は凡夫小乘等の心品の差別をしらしめんために、かりに四句の釋をのべたり。若し、惣じて有漏無漏の二つを分別する時は、凡夫外道のみに非ず。二乘菩薩までも、又是れ有漏心なり。二乘は世間の果報を求める心なき故に無漏なりといへども、生死をいとひ、涅槃をもとむる心あるが故に、眞實の無漏心にあらず。たとひ十地等覺の位にのぼれる菩薩も無明いまだ斷じつくさぬ故に、眞の無漏心にあらず、しかれども世間の福報をも求めず。小乘の涅槃をも求めず、たゞ無上菩提のために修するをば、無漏の福業と名づけたり。悲華經に云く、過去久遠劫に轉輪聖王あり、無諍念となづく。七寳滿足し千子圍遶せり。其の時の攝錄の臣をば寳海梵士と號す。其の子出家行道して正覺を成し給へり。寳藏如來と號す。無諍王此の如來を歸敬し奉りて、園林の中二黃金を布いて其上に七寳の樓を立て種々の莊嚴をつくし、種々の供具をそなふ。其の夜佛及び大衆の前に、百千の燈を設く、聖王の頂き及び左右の手、左右の膝の上に各一燈を置いて、よもすがら如來を供養し奉る、かやうに供養をのぶる事三箇月、王子及び八萬四千の諸の小王等又聖王のごとく供養する事三箇月、寳海梵志夢の中に見給はく此の無諍王及び諸の王子等、或は猪面、或は象面、或は獅子狐狼獮猴等の面にて、其の身皆な血にけがれたり。其の中に人の形にして小弊車にのれる者少々あり。梵志夢さめて、佛所に詣で此よしを語申さる。佛の言く、聖王及び王子等我れを供養する者の一人も大乘を求める志なし。皆唯梵王帝釋魔王輪王大富長者を願ふ者のみなり。其の中にたま〱人天の果報を求めず。出離をねがふ者あれ共、大乘をば求めず。たゞ聲聞乘をねがふ志なり。夢中に見る所の人形猪面乃至獮猴面等は、卽ち是王及び諸の王子等の或は、人中或は餓鬼畜生の中にして、久しく生死を受くべき相なり。やぶれ車にのれる者は、小乘を求める相なり。梵志これを聞て、卽ち聖王の所に參りて申さく、大王先に佛を供養し給へることは來世の福因なり。禁戒を持し給ふことは來世人天の因なり。法門を聽聞し給ふ事は、來世の智慧の因なり。何ぞ無上菩提心を發し給はざるや。聖王答て言く、無上菩提は甚深にして得ることかたし。この故に先づ有爲の果報を求めるなり。梵志の言く、是の道は鮮白なり。煩惱を離れたるが故に、是の道は廣大也障礙なきが故に、是の道かくの如し。よく安樂の處に到るべし。爾時聖王王宮にかへりて、閑靜の處において一心に思惟して、菩提心を發得せり。梵志また諸王子の所に至りて、勸める事聖王のごとし、一々に皆菩提心を發せり。其の後王及び諸の王子同じく佛所に詣で、佛に白て言く、我れ先づ三月の中において、佛及び衆僧を供養し奉る。善根今皆無上菩提に廻向す。寳藏如來讃て言く、善哉大王當來阿僧祇劫をすぎて、安樂世界において正覺を成して、阿彌陀如來と號すべし。王子も皆授記を得給へり其の第一は觀音、第二は勢至なりと云々。かの無諍王及び諸の王子廣大の善根を修せらると雖ども、或は人天鬼畜の報因となり。或は聲聞小乘の證果を得べかりしを、寳海梵志の勸めによりて、一念ひるがへせば、やがて菩提心を發得して、皆成佛の記を得給ひき。たとひ末世なりとも、無諍王のごとく有漏心をひるがへして、思惟觀察せば何ぞ菩提心を發得する事なからんや。せめてそれまではなく共、聖敎量にまかせて一善根を修しても無上菩提に廻向せば必ず、廣大の功德を成すべし。かやうの人をば三寳護念し諸天保持し給ふ。故にいまだ菩提を成せざる時も、或は淨土に生じ・或は人天に居して災難をはらふ。心を生せね共、災難のおのづから除り、福分をねがふ志はなけれども、福分とぼしからず。

新字:問福業に有漏無漏の差別ありと申す。其の義如何。 答業とは因の義也、しかれば業といへる事は善悪に通ず。善根を修するは福報を得べき業因なり。漏は煩悩なり。人天の福報を求めて善を修するは、貪欲の心を起せるが故に、これを有漏の善根と名づけたり。一善を修しても、世福をばのぞまず、偏に無上道のために廻向するをば無漏の善根といへり。善根に有漏無漏の差別あるにはあらず。若し善を修する人の心有漏なれば、其修するところの善根皆な有漏の福業となるなり。有漏心無漏心といへる事も重々の品あり、教中に四句を以てこれを判せり。一つには唯有漏心謂ゆる凡夫外道の心なり。二つには唯無漏心謂ゆる二乗心なり。三つには亦有漏、又無漏心謂ゆる菩薩心なり。四つには非有漏非無漏心謂ゆる仏心なり。是は凡夫小乗等の心品の差別をしらしめんために、かりに四句の釈をのべたり。若し、惣じて有漏無漏の二つを分別する時は、凡夫外道のみに非ず。二乗菩薩までも、又是れ有漏心なり。二乗は世間の果報を求める心なき故に無漏なりといへども、生死をいとひ、涅槃をもとむる心あるが故に、真実の無漏心にあらず。たとひ十地等覚の位にのぼれる菩薩も無明いまだ断じつくさぬ故に、真の無漏心にあらず、しかれども世間の福報をも求めず。小乗の涅槃をも求めず、たゞ無上菩提のために修するをば、無漏の福業と名づけたり。悲華経に云く、過去久遠劫に転輪聖王あり、無諍念となづく。七宝満足し千子囲遶せり。其の時の摂録の臣をば宝海梵士と号す。其の子出家行道して正覚を成し給へり。宝蔵如来と号す。無諍王此の如来を帰敬し奉りて、園林の中二黄金を布いて其上に七宝の楼を立て種々の荘厳をつくし、種々の供具をそなふ。其の夜仏及び大衆の前に、百千の灯を設く、聖王の頂き及び左右の手、左右の膝の上に各一灯を置いて、よもすがら如来を供養し奉る、かやうに供養をのぶる事三箇月、王子及び八万四千の諸の小王等又聖王のごとく供養する事三箇月、宝海梵志夢の中に見給はく此の無諍王及び諸の王子等、或は猪面、或は象面、或は獅子狐狼獮猴等の面にて、其の身皆な血にけがれたり。其の中に人の形にして小弊車にのれる者少々あり。梵志夢さめて、仏所に詣で此よしを語申さる。仏の言く、聖王及び王子等我れを供養する者の一人も大乗を求める志なし。皆唯梵王帝釈魔王輪王大富長者を願ふ者のみなり。其の中にたま〱人天の果報を求めず。出離をねがふ者あれ共、大乗をば求めず。たゞ声聞乗をねがふ志なり。夢中に見る所の人形猪面乃至獮猴面等は、即ち是王及び諸の王子等の或は、人中或は餓鬼畜生の中にして、久しく生死を受くべき相なり。やぶれ車にのれる者は、小乗を求める相なり。梵志これを聞て、即ち聖王の所に参りて申さく、大王先に仏を供養し給へることは来世の福因なり。禁戒を持し給ふことは来世人天の因なり。法門を聴聞し給ふ事は、来世の智慧の因なり。何ぞ無上菩提心を発し給はざるや。聖王答て言く、無上菩提は甚深にして得ることかたし。この故に先づ有為の果報を求めるなり。梵志の言く、是の道は鮮白なり。煩悩を離れたるが故に、是の道は広大也障礙なきが故に、是の道かくの如し。よく安楽の処に到るべし。爾時聖王王宮にかへりて、閑静の処において一心に思惟して、菩提心を発得せり。梵志また諸王子の所に至りて、勧める事聖王のごとし、一々に皆菩提心を発せり。其の後王及び諸の王子同じく仏所に詣で、仏に白て言く、我れ先づ三月の中において、仏及び衆僧を供養し奉る。善根今皆無上菩提に廻向す。宝蔵如来讃て言く、善哉大王当来阿僧祇劫をすぎて、安楽世界において正覚を成して、阿弥陀如来と号すべし。王子も皆授記を得給へり其の第一は観音、第二は勢至なりと云々。かの無諍王及び諸の王子広大の善根を修せらると雖ども、或は人天鬼畜の報因となり。或は声聞小乗の証果を得べかりしを、宝海梵志の勧めによりて、一念ひるがへせば、やがて菩提心を発得して、皆成仏の記を得給ひき。たとひ末世なりとも、無諍王のごとく有漏心をひるがへして、思惟観察せば何ぞ菩提心を発得する事なからんや。せめてそれまではなく共、聖教量にまかせて一善根を修しても無上菩提に廻向せば必ず、広大の功徳を成すべし。かやうの人をば三宝護念し諸天保持し給ふ。故にいまだ菩提を成せざる時も、或は浄土に生じ・或は人天に居して災難をはらふ。心を生せね共、災難のおのづから除り、福分をねがふ志はなけれども、福分とぼしからず。

書き下し

問福業に有漏無漏の差別ありと申す。其の義如何。 答業とは因の義也、しかれば業といへる事は善惡に通ず。善根を修するは福報を得べき業因なり。漏は煩惱なり。人天の福報を求めて善を修するは、貪欲の心を起せるが故に、これを有漏の善根と名づけたり。一善を修しても、世福をばのぞまず、偏に無上道のために廻向するをば無漏の善根といへり。善根に有漏無漏の差別あるにはあらず。若し善を修する人の心有漏なれば、其修するところの善根皆な有漏の福業となるなり。有漏心無漏心といへる事も重々の品あり、敎中に四句を以てこれを判せり。一つには唯有漏心謂ゆる凡夫外道の心なり。二つには唯無漏心謂ゆる二乘心なり。三つには亦有漏、又無漏心謂ゆる菩薩心なり。四つには非有漏非無漏心謂ゆる佛心なり。是は凡夫小乘等の心品の差別をしらしめんために、かりに四句の釋をのべたり。若し、惣じて有漏無漏の二つを分別する時は、凡夫外道のみに非ず。二乘菩薩までも、又是れ有漏心なり。二乘は世間の果報を求める心なき故に無漏なりといへども、生死をいとひ、涅槃をもとむる心あるが故に、眞實の無漏心にあらず。たとひ十地等覺の位にのぼれる菩薩も無明いまだ斷じつくさぬ故に、眞の無漏心にあらず、しかれども世間の福報をも求めず。小乘の涅槃をも求めず、たゞ無上菩提のために修するをば、無漏の福業と名づけたり。悲華經に云く、過去久遠劫に轉輪聖王あり、無諍念となづく。七寳滿足し千子圍遶せり。其の時の攝錄の臣をば寳海梵士と號す。其の子出家行道して正覺を成し給へり。寳藏如來と號す。無諍王此の如來を歸敬し奉りて、園林の中二黃金を布いて其上に七寳の樓を立て種々の莊嚴をつくし、種々の供具をそなふ。其の夜佛及び大衆の前に、百千の燈を設く、聖王の頂き及び左右の手、左右の膝の上に各一燈を置いて、よもすがら如來を供養し奉る、かやうに供養をのぶる事三箇月、王子及び八萬四千の諸の小王等又聖王のごとく供養する事三箇月、寳海梵志夢の中に見給はく此の無諍王及び諸の王子等、或は猪面、或は象面、或は獅子狐狼獮猴等の面にて、其の身皆な血にけがれたり。其の中に人の形にして小弊車にのれる者少々あり。梵志夢さめて、佛所に詣で此よしを語申さる。佛の言く、聖王及び王子等我れを供養する者の一人も大乘を求める志なし。皆唯梵王帝釋魔王輪王大富長者を願ふ者のみなり。其の中にたま〱人天の果報を求めず。出離をねがふ者あれ共、大乘をば求めず。たゞ聲聞乘をねがふ志なり。夢中に見る所の人形猪面乃至獮猴面等は、卽ち是王及び諸の王子等の或は、人中或は餓鬼畜生の中にして、久しく生死を受くべき相なり。やぶれ車にのれる者は、小乘を求める相なり。梵志これを聞て、卽ち聖王の所に參りて申さく、大王先に佛を供養し給へることは來世の福因なり。禁戒を持し給ふことは來世人天の因なり。法門を聽聞し給ふ事は、來世の智慧の因なり。何ぞ無上菩提心を發し給はざるや。聖王答て言く、無上菩提は甚深にして得ることかたし。この故に先づ有爲の果報を求めるなり。梵志の言く、是の道は鮮白なり。煩惱を離れたるが故に、是の道は廣大也障礙なきが故に、是の道かくの如し。よく安樂の處に到るべし。爾時聖王王宮にかへりて、閑靜の處において一心に思惟して、菩提心を發得せり。梵志また諸王子の所に至りて、勸める事聖王のごとし、一々に皆菩提心を發せり。其の後王及び諸の王子同じく佛所に詣で、佛に白て言く、我れ先づ三月の中において、佛及び衆僧を供養し奉る。善根今皆無上菩提に廻向す。寳藏如來讃て言く、善哉大王當來阿僧祇劫をすぎて、安樂世界において正覺を成して、阿彌陀如來と號すべし。王子も皆授記を得給へり其の第一は觀音、第二は勢至なりと云々。かの無諍王及び諸の王子廣大の善根を修せらると雖ども、或は人天鬼畜の報因となり。或は聲聞小乘の證果を得べかりしを、寳海梵志の勸めによりて、一念ひるがへせば、やがて菩提心を發得して、皆成佛の記を得給ひき。たとひ末世なりとも、無諍王のごとく有漏心をひるがへして、思惟觀察せば何ぞ菩提心を發得する事なからんや。せめてそれまではなく共、聖敎量にまかせて一善根を修しても無上菩提に廻向せば必ず、廣大の功德を成すべし。かやうの人をば三寳護念し諸天保持し給ふ。故にいまだ菩提を成せざる時も、或は淨土に生じ・或は人天に居して災難をはらふ。心を生せね共、災難のおのづから除り、福分をねがふ志はなけれども、福分とぼしからず。

現代語訳

問:福を生む行いには有漏と無漏の区別があると言う。その意味はどういうことか。 答:業とは因という意味で、したがって業は善にも悪にも通じる。善根を修めるのは福の報いを得る業因である。漏とは煩悩のことである。人間界や天上界の福の報いを求めて善を修めるのは、貪欲の心を起こしているので、これを有漏の善根と名づける。一つの善を修めても、世の福は望まず、ひたすら無上の悟りのために振り向けるのを、無漏の善根と言う。善根そのものに有漏と無漏の区別があるのではない。善を修める人の心が有漏であれば、その修める善根はすべて有漏の福業となるのである。 有漏心・無漏心にも幾重もの段階があり、教えの中では四つの句に分けて判じている。第一は、ただ有漏の心で、凡夫と外道の心である。第二は、ただ無漏の心で、声聞・縁覚の二乗の心である。第三は、有漏でもあり無漏でもある心で、菩薩の心である。第四は、有漏でも無漏でもない心で、仏の心である。これは凡夫や小乗などの心の段階の違いを知らせるために、仮に四句の説明を述べたものである。 もし有漏と無漏の二つを全体として分けるなら、凡夫や外道だけではない。二乗や菩薩までも、やはり有漏心である。二乗は世間の果報を求める心がないので無漏だと言うが、生死を厭い涅槃を求める心があるので、真実の無漏心ではない。十地や等覚の位に登った菩薩でさえ、無明をまだ断ち尽くしていないので、真の無漏心ではない。それでも、世間の福の報いも求めず、小乗の涅槃も求めず、ただ無上の悟りのために修めるものを、無漏の福業と名づけたのである。 悲華経にこうある。過去の遠い昔に転輪聖王がいて、無諍念といった。七宝が満ち足り、千人の子に囲まれていた。そのときの側近の臣を宝海梵士といった。その子は出家して修行し、正覚を成就なさった。宝蔵如来という。無諍王はこの如来に帰依し、園林に黄金を敷いてその上に七宝の楼を立て、さまざまな荘厳を尽くし、さまざまな供え物を備えた。その夜、仏と大衆の前に百千の灯を設け、聖王は頭と左右の手、左右の膝の上にそれぞれ一灯を置いて、夜通し如来を供養した。こうして供養を三か月続け、王子と八万四千の小王たちも聖王と同じく三か月供養した。 宝海梵志が夢に見たことには、この無諍王と諸王子たちは、あるいは猪の顔、象の顔、獅子・狐・狼・猿などの顔で、身は皆血にまみれていた。その中に、人の姿で粗末な車に乗っている者が少しだけいた。梵志は夢から覚め、仏のもとに参ってこのことを語った。仏は言われた。聖王と王子たちは私を供養したが、一人として大乗を求める志がない。皆ただ梵天王・帝釈・魔王・転輪王・大富長者を願う者ばかりである。その中にたまたま人間界・天上界の果報を求めず、迷いからの解脱を願う者がいても、大乗は求めず、声聞乗を願う志にとどまる。夢の中に見た人の姿や猪の顔から猿の顔までは、王と王子たちが、あるいは人間界、あるいは餓鬼・畜生の世界で、長く生死を受けるべき相である。破れ車に乗る者は、小乗を求める相である。 梵志はこれを聞いてすぐ聖王のもとに参って申し上げた。大王が先に仏を供養なさったのは来世の福の因です。禁戒を保たれるのは来世に人間・天上に生まれる因です。法門を聴聞なさるのは来世の智慧の因です。どうして無上の菩提心を発されないのですか。聖王は答えた。無上の菩提は深遠で得がたい。だからまず有為の果報を求めるのだ。梵志は言った。この道は清らかで白く、煩悩を離れているからです。この道は広大で、妨げがないからです。この道はこのようなもので、必ず安楽の処に至れます。そのとき聖王は王宮に帰り、閑静な所で一心に思いめぐらして、菩提心を発し得た。梵志はまた諸王子のもとに行き、聖王と同じように勧め、一人一人みな菩提心を発した。 その後、王と諸王子は共に仏のもとに参り、仏に申し上げた。私は先に三か月、仏と僧衆を供養しました。その善根を今すべて無上の菩提に振り向けます。宝蔵如来はほめて言われた。よいことだ、大王。未来の阿僧祇劫を過ぎて、安楽世界で正覚を成し、阿弥陀如来と名のるであろう。王子たちもみな授記を得た。その第一は観音、第二は勢至である、と。 かの無諍王と諸王子は、広大な善根を修めたといっても、人間・天上・鬼・畜生の報いの因となり、あるいは声聞・小乗の悟りを得るはずのところを、宝海梵志の勧めによって、一念ひるがえしたところ、たちまち菩提心を発し得て、皆成仏の約束を得られた。たとえ末世であっても、無諍王のように有漏の心をひるがえして思いめぐらし見つめれば、どうして菩提心を発し得ないことがあろうか。せめてそこまでいかなくとも、聖教の教えにしたがって一つの善根を修め、無上の菩提に振り向けるなら、必ず広大な功徳を成すであろう。このような人を三宝が見守り、諸天が支えてくださる。だからまだ悟りを成しえないうちも、あるいは浄土に生まれ、あるいは人間・天上にいて災難を払う。心を起こさなくても災難はおのずと除かれ、福分を願う志がなくても福分は乏しくならない。

解説

同じ善でも、福を求める貪りの心で修めれば有漏、ただ悟りのために振り向ければ無漏と、夢窓疎石は善行の中身を心で分けます。悲華経の無諍王は、大きな供養を尽くしながら福と小乗の悟りに目を向けており、宝海梵志の一言で志を大乗へ転じました。善い行いをしているのに、その動機が見返りにあれば器が小さくなる、という指摘です。現代の仕事に置けば、社会貢献や人材育成も、評価や利得のためだけなら意味が狭まる、という問いとして読めます。
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人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

有漏無漏善根廻向菩提心無諍王

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