夢中問答集 / 『夢中問答集』有漏の善と無漏の善
問福業に有漏無漏の差別ありと申す。其の義如何。 答業とは因の義也、しかれば業といへる事は善惡に通ず。善根を修するは福報を得べき業因なり。漏は煩惱なり。人天の福報を求めて善を修するは、貪欲の心を起せるが故に、これを有漏の善根と名づけたり。一善を修しても、世福をばのぞまず、偏に無上道のために廻向するをば無漏の善根といへり。善根に有漏無漏の差別あるにはあらず。若し善を修する人の心有漏なれば、其修するところの善根皆な有漏の福業となるなり。有漏心無漏心といへる事も重々の品あり、敎中に四句を以てこれを判せり。一つには唯有漏心謂ゆる凡夫外道の心なり。二つには唯無漏心謂ゆる二乘心なり。三つには亦有漏、又無漏心謂ゆる菩薩心なり。四つには非有漏非無漏心謂ゆる佛心なり。是は凡夫小乘等の心品の差別をしらしめんために、かりに四句の釋をのべたり。若し、惣じて有漏無漏の二つを分別する時は、凡夫外道のみに非ず。二乘菩薩までも、又是れ有漏心なり。二乘は世間の果報を求める心なき故に無漏なりといへども、生死をいとひ、涅槃をもとむる心あるが故に、眞實の無漏心にあらず。たとひ十地等覺の位にのぼれる菩薩も無明いまだ斷じつくさぬ故に、眞の無漏心にあらず、しかれども世間の福報をも求めず。小乘の涅槃をも求めず、たゞ無上菩提のために修するをば、無漏の福業と名づけたり。悲華經に云く、過去久遠劫に轉輪聖王あり、無諍念となづく。七寳滿足し千子圍遶せり。其の時の攝錄の臣をば寳海梵士と號す。其の子出家行道して正覺を成し給へり。寳藏如來と號す。無諍王此の如來を歸敬し奉りて、園林の中二黃金を布いて其上に七寳の樓を立て種々の莊嚴をつくし、種々の供具をそなふ。其の夜佛及び大衆の前に、百千の燈を設く、聖王の頂き及び左右の手、左右の膝の上に各一燈を置いて、よもすがら如來を供養し奉る、かやうに供養をのぶる事三箇月、王子及び八萬四千の諸の小王等又聖王のごとく供養する事三箇月、寳海梵志夢の中に見給はく此の無諍王及び諸の王子等、或は猪面、或は象面、或は獅子狐狼獮猴等の面にて、其の身皆な血にけがれたり。其の中に人の形にして小弊車にのれる者少々あり。梵志夢さめて、佛所に詣で此よしを語申さる。佛の言く、聖王及び王子等我れを供養する者の一人も大乘を求める志なし。皆唯梵王帝釋魔王輪王大富長者を願ふ者のみなり。其の中にたま〱人天の果報を求めず。出離をねがふ者あれ共、大乘をば求めず。たゞ聲聞乘をねがふ志なり。夢中に見る所の人形猪面乃至獮猴面等は、卽ち是王及び諸の王子等の或は、人中或は餓鬼畜生の中にして、久しく生死を受くべき相なり。やぶれ車にのれる者は、小乘を求める相なり。梵志これを聞て、卽ち聖王の所に參りて申さく、大王先に佛を供養し給へることは來世の福因なり。禁戒を持し給ふことは來世人天の因なり。法門を聽聞し給ふ事は、來世の智慧の因なり。何ぞ無上菩提心を發し給はざるや。聖王答て言く、無上菩提は甚深にして得ることかたし。この故に先づ有爲の果報を求めるなり。梵志の言く、是の道は鮮白なり。煩惱を離れたるが故に、是の道は廣大也障礙なきが故に、是の道かくの如し。よく安樂の處に到るべし。爾時聖王王宮にかへりて、閑靜の處において一心に思惟して、菩提心を發得せり。梵志また諸王子の所に至りて、勸める事聖王のごとし、一々に皆菩提心を發せり。其の後王及び諸の王子同じく佛所に詣で、佛に白て言く、我れ先づ三月の中において、佛及び衆僧を供養し奉る。善根今皆無上菩提に廻向す。寳藏如來讃て言く、善哉大王當來阿僧祇劫をすぎて、安樂世界において正覺を成して、阿彌陀如來と號すべし。王子も皆授記を得給へり其の第一は觀音、第二は勢至なりと云々。かの無諍王及び諸の王子廣大の善根を修せらると雖ども、或は人天鬼畜の報因となり。或は聲聞小乘の證果を得べかりしを、寳海梵志の勸めによりて、一念ひるがへせば、やがて菩提心を發得して、皆成佛の記を得給ひき。たとひ末世なりとも、無諍王のごとく有漏心をひるがへして、思惟觀察せば何ぞ菩提心を發得する事なからんや。せめてそれまではなく共、聖敎量にまかせて一善根を修しても無上菩提に廻向せば必ず、廣大の功德を成すべし。かやうの人をば三寳護念し諸天保持し給ふ。故にいまだ菩提を成せざる時も、或は淨土に生じ・或は人天に居して災難をはらふ。心を生せね共、災難のおのづから除り、福分をねがふ志はなけれども、福分とぼしからず。
新字:問福業に有漏無漏の差別ありと申す。其の義如何。 答業とは因の義也、しかれば業といへる事は善悪に通ず。善根を修するは福報を得べき業因なり。漏は煩悩なり。人天の福報を求めて善を修するは、貪欲の心を起せるが故に、これを有漏の善根と名づけたり。一善を修しても、世福をばのぞまず、偏に無上道のために廻向するをば無漏の善根といへり。善根に有漏無漏の差別あるにはあらず。若し善を修する人の心有漏なれば、其修するところの善根皆な有漏の福業となるなり。有漏心無漏心といへる事も重々の品あり、教中に四句を以てこれを判せり。一つには唯有漏心謂ゆる凡夫外道の心なり。二つには唯無漏心謂ゆる二乗心なり。三つには亦有漏、又無漏心謂ゆる菩薩心なり。四つには非有漏非無漏心謂ゆる仏心なり。是は凡夫小乗等の心品の差別をしらしめんために、かりに四句の釈をのべたり。若し、惣じて有漏無漏の二つを分別する時は、凡夫外道のみに非ず。二乗菩薩までも、又是れ有漏心なり。二乗は世間の果報を求める心なき故に無漏なりといへども、生死をいとひ、涅槃をもとむる心あるが故に、真実の無漏心にあらず。たとひ十地等覚の位にのぼれる菩薩も無明いまだ断じつくさぬ故に、真の無漏心にあらず、しかれども世間の福報をも求めず。小乗の涅槃をも求めず、たゞ無上菩提のために修するをば、無漏の福業と名づけたり。悲華経に云く、過去久遠劫に転輪聖王あり、無諍念となづく。七宝満足し千子囲遶せり。其の時の摂録の臣をば宝海梵士と号す。其の子出家行道して正覚を成し給へり。宝蔵如来と号す。無諍王此の如来を帰敬し奉りて、園林の中二黄金を布いて其上に七宝の楼を立て種々の荘厳をつくし、種々の供具をそなふ。其の夜仏及び大衆の前に、百千の灯を設く、聖王の頂き及び左右の手、左右の膝の上に各一灯を置いて、よもすがら如来を供養し奉る、かやうに供養をのぶる事三箇月、王子及び八万四千の諸の小王等又聖王のごとく供養する事三箇月、宝海梵志夢の中に見給はく此の無諍王及び諸の王子等、或は猪面、或は象面、或は獅子狐狼獮猴等の面にて、其の身皆な血にけがれたり。其の中に人の形にして小弊車にのれる者少々あり。梵志夢さめて、仏所に詣で此よしを語申さる。仏の言く、聖王及び王子等我れを供養する者の一人も大乗を求める志なし。皆唯梵王帝釈魔王輪王大富長者を願ふ者のみなり。其の中にたま〱人天の果報を求めず。出離をねがふ者あれ共、大乗をば求めず。たゞ声聞乗をねがふ志なり。夢中に見る所の人形猪面乃至獮猴面等は、即ち是王及び諸の王子等の或は、人中或は餓鬼畜生の中にして、久しく生死を受くべき相なり。やぶれ車にのれる者は、小乗を求める相なり。梵志これを聞て、即ち聖王の所に参りて申さく、大王先に仏を供養し給へることは来世の福因なり。禁戒を持し給ふことは来世人天の因なり。法門を聴聞し給ふ事は、来世の智慧の因なり。何ぞ無上菩提心を発し給はざるや。聖王答て言く、無上菩提は甚深にして得ることかたし。この故に先づ有為の果報を求めるなり。梵志の言く、是の道は鮮白なり。煩悩を離れたるが故に、是の道は広大也障礙なきが故に、是の道かくの如し。よく安楽の処に到るべし。爾時聖王王宮にかへりて、閑静の処において一心に思惟して、菩提心を発得せり。梵志また諸王子の所に至りて、勧める事聖王のごとし、一々に皆菩提心を発せり。其の後王及び諸の王子同じく仏所に詣で、仏に白て言く、我れ先づ三月の中において、仏及び衆僧を供養し奉る。善根今皆無上菩提に廻向す。宝蔵如来讃て言く、善哉大王当来阿僧祇劫をすぎて、安楽世界において正覚を成して、阿弥陀如来と号すべし。王子も皆授記を得給へり其の第一は観音、第二は勢至なりと云々。かの無諍王及び諸の王子広大の善根を修せらると雖ども、或は人天鬼畜の報因となり。或は声聞小乗の証果を得べかりしを、宝海梵志の勧めによりて、一念ひるがへせば、やがて菩提心を発得して、皆成仏の記を得給ひき。たとひ末世なりとも、無諍王のごとく有漏心をひるがへして、思惟観察せば何ぞ菩提心を発得する事なからんや。せめてそれまではなく共、聖教量にまかせて一善根を修しても無上菩提に廻向せば必ず、広大の功徳を成すべし。かやうの人をば三宝護念し諸天保持し給ふ。故にいまだ菩提を成せざる時も、或は浄土に生じ・或は人天に居して災難をはらふ。心を生せね共、災難のおのづから除り、福分をねがふ志はなけれども、福分とぼしからず。
書き下し
問福業に有漏無漏の差別ありと申す。其の義如何。 答業とは因の義也、しかれば業といへる事は善惡に通ず。善根を修するは福報を得べき業因なり。漏は煩惱なり。人天の福報を求めて善を修するは、貪欲の心を起せるが故に、これを有漏の善根と名づけたり。一善を修しても、世福をばのぞまず、偏に無上道のために廻向するをば無漏の善根といへり。善根に有漏無漏の差別あるにはあらず。若し善を修する人の心有漏なれば、其修するところの善根皆な有漏の福業となるなり。有漏心無漏心といへる事も重々の品あり、敎中に四句を以てこれを判せり。一つには唯有漏心謂ゆる凡夫外道の心なり。二つには唯無漏心謂ゆる二乘心なり。三つには亦有漏、又無漏心謂ゆる菩薩心なり。四つには非有漏非無漏心謂ゆる佛心なり。是は凡夫小乘等の心品の差別をしらしめんために、かりに四句の釋をのべたり。若し、惣じて有漏無漏の二つを分別する時は、凡夫外道のみに非ず。二乘菩薩までも、又是れ有漏心なり。二乘は世間の果報を求める心なき故に無漏なりといへども、生死をいとひ、涅槃をもとむる心あるが故に、眞實の無漏心にあらず。たとひ十地等覺の位にのぼれる菩薩も無明いまだ斷じつくさぬ故に、眞の無漏心にあらず、しかれども世間の福報をも求めず。小乘の涅槃をも求めず、たゞ無上菩提のために修するをば、無漏の福業と名づけたり。悲華經に云く、過去久遠劫に轉輪聖王あり、無諍念となづく。七寳滿足し千子圍遶せり。其の時の攝錄の臣をば寳海梵士と號す。其の子出家行道して正覺を成し給へり。寳藏如來と號す。無諍王此の如來を歸敬し奉りて、園林の中二黃金を布いて其上に七寳の樓を立て種々の莊嚴をつくし、種々の供具をそなふ。其の夜佛及び大衆の前に、百千の燈を設く、聖王の頂き及び左右の手、左右の膝の上に各一燈を置いて、よもすがら如來を供養し奉る、かやうに供養をのぶる事三箇月、王子及び八萬四千の諸の小王等又聖王のごとく供養する事三箇月、寳海梵志夢の中に見給はく此の無諍王及び諸の王子等、或は猪面、或は象面、或は獅子狐狼獮猴等の面にて、其の身皆な血にけがれたり。其の中に人の形にして小弊車にのれる者少々あり。梵志夢さめて、佛所に詣で此よしを語申さる。佛の言く、聖王及び王子等我れを供養する者の一人も大乘を求める志なし。皆唯梵王帝釋魔王輪王大富長者を願ふ者のみなり。其の中にたま〱人天の果報を求めず。出離をねがふ者あれ共、大乘をば求めず。たゞ聲聞乘をねがふ志なり。夢中に見る所の人形猪面乃至獮猴面等は、卽ち是王及び諸の王子等の或は、人中或は餓鬼畜生の中にして、久しく生死を受くべき相なり。やぶれ車にのれる者は、小乘を求める相なり。梵志これを聞て、卽ち聖王の所に參りて申さく、大王先に佛を供養し給へることは來世の福因なり。禁戒を持し給ふことは來世人天の因なり。法門を聽聞し給ふ事は、來世の智慧の因なり。何ぞ無上菩提心を發し給はざるや。聖王答て言く、無上菩提は甚深にして得ることかたし。この故に先づ有爲の果報を求めるなり。梵志の言く、是の道は鮮白なり。煩惱を離れたるが故に、是の道は廣大也障礙なきが故に、是の道かくの如し。よく安樂の處に到るべし。爾時聖王王宮にかへりて、閑靜の處において一心に思惟して、菩提心を發得せり。梵志また諸王子の所に至りて、勸める事聖王のごとし、一々に皆菩提心を發せり。其の後王及び諸の王子同じく佛所に詣で、佛に白て言く、我れ先づ三月の中において、佛及び衆僧を供養し奉る。善根今皆無上菩提に廻向す。寳藏如來讃て言く、善哉大王當來阿僧祇劫をすぎて、安樂世界において正覺を成して、阿彌陀如來と號すべし。王子も皆授記を得給へり其の第一は觀音、第二は勢至なりと云々。かの無諍王及び諸の王子廣大の善根を修せらると雖ども、或は人天鬼畜の報因となり。或は聲聞小乘の證果を得べかりしを、寳海梵志の勸めによりて、一念ひるがへせば、やがて菩提心を發得して、皆成佛の記を得給ひき。たとひ末世なりとも、無諍王のごとく有漏心をひるがへして、思惟觀察せば何ぞ菩提心を發得する事なからんや。せめてそれまではなく共、聖敎量にまかせて一善根を修しても無上菩提に廻向せば必ず、廣大の功德を成すべし。かやうの人をば三寳護念し諸天保持し給ふ。故にいまだ菩提を成せざる時も、或は淨土に生じ・或は人天に居して災難をはらふ。心を生せね共、災難のおのづから除り、福分をねがふ志はなけれども、福分とぼしからず。
現代語訳
問:福を生む行いには有漏と無漏の区別があると言う。その意味はどういうことか。 答:業とは因という意味で、したがって業は善にも悪にも通じる。善根を修めるのは福の報いを得る業因である。漏とは煩悩のことである。人間界や天上界の福の報いを求めて善を修めるのは、貪欲の心を起こしているので、これを有漏の善根と名づける。一つの善を修めても、世の福は望まず、ひたすら無上の悟りのために振り向けるのを、無漏の善根と言う。善根そのものに有漏と無漏の区別があるのではない。善を修める人の心が有漏であれば、その修める善根はすべて有漏の福業となるのである。 有漏心・無漏心にも幾重もの段階があり、教えの中では四つの句に分けて判じている。第一は、ただ有漏の心で、凡夫と外道の心である。第二は、ただ無漏の心で、声聞・縁覚の二乗の心である。第三は、有漏でもあり無漏でもある心で、菩薩の心である。第四は、有漏でも無漏でもない心で、仏の心である。これは凡夫や小乗などの心の段階の違いを知らせるために、仮に四句の説明を述べたものである。 もし有漏と無漏の二つを全体として分けるなら、凡夫や外道だけではない。二乗や菩薩までも、やはり有漏心である。二乗は世間の果報を求める心がないので無漏だと言うが、生死を厭い涅槃を求める心があるので、真実の無漏心ではない。十地や等覚の位に登った菩薩でさえ、無明をまだ断ち尽くしていないので、真の無漏心ではない。それでも、世間の福の報いも求めず、小乗の涅槃も求めず、ただ無上の悟りのために修めるものを、無漏の福業と名づけたのである。 悲華経にこうある。過去の遠い昔に転輪聖王がいて、無諍念といった。七宝が満ち足り、千人の子に囲まれていた。そのときの側近の臣を宝海梵士といった。その子は出家して修行し、正覚を成就なさった。宝蔵如来という。無諍王はこの如来に帰依し、園林に黄金を敷いてその上に七宝の楼を立て、さまざまな荘厳を尽くし、さまざまな供え物を備えた。その夜、仏と大衆の前に百千の灯を設け、聖王は頭と左右の手、左右の膝の上にそれぞれ一灯を置いて、夜通し如来を供養した。こうして供養を三か月続け、王子と八万四千の小王たちも聖王と同じく三か月供養した。 宝海梵志が夢に見たことには、この無諍王と諸王子たちは、あるいは猪の顔、象の顔、獅子・狐・狼・猿などの顔で、身は皆血にまみれていた。その中に、人の姿で粗末な車に乗っている者が少しだけいた。梵志は夢から覚め、仏のもとに参ってこのことを語った。仏は言われた。聖王と王子たちは私を供養したが、一人として大乗を求める志がない。皆ただ梵天王・帝釈・魔王・転輪王・大富長者を願う者ばかりである。その中にたまたま人間界・天上界の果報を求めず、迷いからの解脱を願う者がいても、大乗は求めず、声聞乗を願う志にとどまる。夢の中に見た人の姿や猪の顔から猿の顔までは、王と王子たちが、あるいは人間界、あるいは餓鬼・畜生の世界で、長く生死を受けるべき相である。破れ車に乗る者は、小乗を求める相である。 梵志はこれを聞いてすぐ聖王のもとに参って申し上げた。大王が先に仏を供養なさったのは来世の福の因です。禁戒を保たれるのは来世に人間・天上に生まれる因です。法門を聴聞なさるのは来世の智慧の因です。どうして無上の菩提心を発されないのですか。聖王は答えた。無上の菩提は深遠で得がたい。だからまず有為の果報を求めるのだ。梵志は言った。この道は清らかで白く、煩悩を離れているからです。この道は広大で、妨げがないからです。この道はこのようなもので、必ず安楽の処に至れます。そのとき聖王は王宮に帰り、閑静な所で一心に思いめぐらして、菩提心を発し得た。梵志はまた諸王子のもとに行き、聖王と同じように勧め、一人一人みな菩提心を発した。 その後、王と諸王子は共に仏のもとに参り、仏に申し上げた。私は先に三か月、仏と僧衆を供養しました。その善根を今すべて無上の菩提に振り向けます。宝蔵如来はほめて言われた。よいことだ、大王。未来の阿僧祇劫を過ぎて、安楽世界で正覚を成し、阿弥陀如来と名のるであろう。王子たちもみな授記を得た。その第一は観音、第二は勢至である、と。 かの無諍王と諸王子は、広大な善根を修めたといっても、人間・天上・鬼・畜生の報いの因となり、あるいは声聞・小乗の悟りを得るはずのところを、宝海梵志の勧めによって、一念ひるがえしたところ、たちまち菩提心を発し得て、皆成仏の約束を得られた。たとえ末世であっても、無諍王のように有漏の心をひるがえして思いめぐらし見つめれば、どうして菩提心を発し得ないことがあろうか。せめてそこまでいかなくとも、聖教の教えにしたがって一つの善根を修め、無上の菩提に振り向けるなら、必ず広大な功徳を成すであろう。このような人を三宝が見守り、諸天が支えてくださる。だからまだ悟りを成しえないうちも、あるいは浄土に生まれ、あるいは人間・天上にいて災難を払う。心を起こさなくても災難はおのずと除かれ、福分を願う志がなくても福分は乏しくならない。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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本の中身を見るこの章句が説くこと
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、善根に有漏無漏有る事を知るべし、我を忘れて作すを無漏善と云ひ、我為めを思ひ当来に代りを得んと思つて作すを有漏善と云ふ也。喩へば非人に物を施すに我後世の為めと思ふて施すは、有漏に酬ふ。亦只彼を憐み我を忘れて施すは無漏善也。然るに彼有漏善は後には大に怨と成る也。我を思つて作す善には咎有る事眼前の道理有り、譬へば人に念比をする者、皆我為めにする故に、其者後背く事有れば、我はよくせしに却りて背く抔と云ふて嗔り腹立つ也。然れは前の善心は消えて、後の嗔り地獄の業と成る也。亦我を忘れて人を念比する者は、其者後背く事有れとも、本より我為めにせぬによつて弥憐みてどこ迄も善也。是を以て知べき也。
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夢中問答集・『夢中問答集』癡福は三生の怨み問あまりに善根に心をかたぶけたる故に、政道の害になりて、世もおさまりやらぬよしを申す人あり。其の謂れありや。 答聖敎の中に癡福は三生の怨みと申す事あり。其の故は愚癡にして有漏の善をのみ作つて一生をすごす程に、心地を明むる事あたはず。是れ一生の怨みなり。此の有漏の善によりて次の生に欲界の人天に生れて、富貴の果報を得る故に世間の愛着もいよ〱深く、罪業の熏力も亦重し、たとひ罪業をばさしもつくらぬ人なし共。政務に心を亂り、嬉戯にひまのなき故に、正法を行ずることはなし、是二生の怨みなり。前世の有漏の善根は今生に受盡しぬ、曠劫の無明の熏力はいよ〱かさなれる故に、又次の生には惡趣に墮す。この故に、癡福は三生の怨みと申すなり。しかれ共、提謂經等の中に五戒十善等の有曠の善根を修すべきことを說き給へり。これを人天敎となづく。宿習のつたなき故に正法を行せよと如來すゝめ給ふともかなふまじき人をば、先づ彼れがねがふ所の人天の果報を得せしめて漸く引導して、正法に入しめんために、しばらく有漏の善根を修すべきことを敎へ給へり。しかれば末代のありさま今生の祈り來世の福のためとて善を修し給ふもありがたきことなれば、あながちに制し申すべきにはあらねども、同くは三生の怨みとなさぬやうに勤行せられば、卽ち是れ如來の本意なり。いまだ心地をさとらざる人は、たとひ種々の善をなせども、皆有漏の善となるなり。敎禪の宗師同じく、先づ心地をあきらめて後に諸善をば修せよとすゝめ給へるは此の意なり。天台大師六卽の位を立て修證の階を判し給へる中に、妙解開けて後、觀行卽の初品の位に到るまでも他人のために法門をとき、自行のために經呪を讀誦するをも道の障りとてこれを制す。第二品の位に到つて始めて讀經誦呪をゆるし、第三品に到つて、すこしき說法利生の分をゆるせり。第四品に到つて始めて六度を兼行し、第五品に到つて正しく六度を行して衆生を利益すべしと見へたり。圓悟禪師の心要に悟性勸善の文として載せられたるも、先づ心性を悟て、然して後に善根をば修せよとの由しなり心地を悟らざる人は、所作の善根たゞ有爲の果報の因なるが故に、出離の要道とはならず。たま〱法を說き人を度すれども、愛見の大悲に墮するが故に、眞實の化導にはあらず、是を以て有漏の善根をば制して、正法を行ずることをすゝむるなり。
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万民徳用・商人日用・答後半譬へは天をさして射る矢の、弓勢つきて地に落るがごとしといへり。然れは有漏の善根楽むべきにあらず。又無漏善といふは、是れ菩提の因縁也。夫れ菩提心といふは、諸行無常。是生滅法の理を観察して、三界無安。猶如火宅の文に眼を着けて、有為の境界に心を住めす、涅槃の妙楽を願ふを、無漏善といふなり。然れは売買の作業、則ち無漏善となすべき願力を以て、幻化の理を守て信心をはげまし、此の身を世界に抛て、一筋に国土のため万民のためとおもひ入て、自国の物を他国に移し、他国の物を我国に持来て、遠国遠里に入渡し、諸人の心に叶ふへしと誓願をなして、国々をめぐる事は、業障を尽すべき修行なりと心を着けて、山々を越えて身心を責め、大河小河を渡て心を清め、漫々たる海上に船をうかぶる時は、此の身をすてゝ、念仏し、一生は唯浮世の旅なる事を観じて、一切執着を捨て、欲をはなれ商せんには、諸天是れを守護し、神明利生を施して、得利もすぐれ、福徳充満の人となり、大福長者をいやしみて、終に勇猛堅固の大信心発つて、行住坐臥則ち禅定と成りて、自然に菩提心成熟して、涅槃の妙楽すなはち無碍大自在の人となりて、乾坤に独歩すへし。尽末来際の悦、何事か之に如かん哉。堅固に用ねよ用ねよ。願以此功徳。普及於一切。我等与衆生。皆共成仏道。
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夢中問答集・『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(三)佛菩薩は世間の長者にはかはりて、慈悲廣大にまします故に、世間有爲の壽福を祈ることをばきらふて、無上道をねがふ事をすゝめ給へり。しかるを佛神に參りてたゞ世事をのみ祈る人は長者の家にゆきて、わづかなる輕物をこふ人よりも猶愚なりと申しぬべし。北州に生れたる人は田畠を耕作せざれども、自然の粳米ありて食にともしきことなし、綾錦を紡織せざれども、殊勝の衣服身をかざり、命の長きこと千年其の內には中天なし。人王の中に金銀銅鐵の四種の輪王あり。其の中に金輪聖王は人間第一の果報を得て、四天下を統領し、七寳を受用す。其の壽命或は無量歲或は八萬歲なり。欲界の中に六天あり初めをば四王天となづく。毘沙門等の四天王の住所なり。福のともしきことあるべからず其の壽命は世間の五十年を一日一夜として五百歲なり、其の次には忉利天となづく。須彌山の頂きにあり、帝釋は其天王なり。毘沙門等の四天王日月星宿も皆帝釋の眷屬なり、其の果報いやしといはんや。其の壽は人間の百年を一日一夜として一千歲なり。其の上の四天次第に果報も勝れし壽命も各一倍長し第六の他化自在天の壽命は、人間の一千六百年を一日一夜として、一萬六千歲なり、これらは天人と申せどせ、猶も欲界の內に生れたるが故に、壽福つくる時、必ず五衰の悲み生ず。此の上へに色界無色界あり、これを三界となづく。色界の內に四禪あり、此の界の天人皆色相ならびなく、身光ことに明かなり。其の初禪には梵王居して、三界一統の王なりと許し給へり。壽の長きこと一劫半、第四禪には壞劫の時の三災もいたらず。其の中廣果天命の長き事五百劫無色界の內に四處あり。此の天に生ずる者は色身なきが故に、衣食財寳等すべて入る事なし。其の壽は初の天は二萬劫乃至第四の悲想天は八萬劫なり。かやうの果報めでたしといへ共、皆な是れ有爲の善因にこたへ、有漏の禪定によりて得たるが故に、福壽ともに限りありて、つゐには惡趣に輪廻す。故に法華經に云く、三界は安き事なし、なをし火宅のごとしと云々。然らば卽ち智者はかやうの果報をばねかはず五濁惡世に生れたる人、果報いみじと見ゆるも、北州の人にだも及ばず、いはんや諸天をや壽命長しといふ人も、百歲なるはありがたし。たとひ百歲になるとも、忉利天の一日一夜にあたれり、まして悲想の八萬劫にたくらべは片時にもあたるべからず。これほどあさましき果報を佛神に祈り奉る事、枇杷のさねを祈りける尼公と何の差別があらんや。たゞ無上道を祈り求めば、やがて正覺を成ずるまでこそなく共、其の自善根の力により佛神の加彼力によりて災難もをのづから除かり、壽福もつゝがなきほどの得利はたゞ今生のみにあらず、生々世々までもあるべきに、たとひ祈り得てしるしありとも、幾程もなき果報を祈るとて、一期をばいたづらにくらして、當來は惡趣に入ん事あさましき事にあらずや。佛は一切の事にみな自在を得給へりといへども、其の中に三不能といへることあり。一には無緣の衆生を度することあたはず、二つには衆生界をつくすことあたはず、三には定業を轉ずる事あたはず、定業とは前世の善惡の業因によりて、感得したる善惡の業報なり。
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夢中問答集・『夢中問答集』福を求める欲を捨てよ問衆生の苦をぬきて樂をあたふる事は、佛の大慈大悲なり、しかるを佛敎の中に人の福を求るを制する事は何故ぞや。 答世間に福をもとむる人、或は商賣農作の業をいとなみ、或は利錢賣買の計りごとをめぐらし、或は工巧伎藝の能をほどこし、或は奉公給仕の功をいたす其のしわざは各ことなれども、其の志は皆同じ其のありさまを見るに、生涯たゞ身心を苦勞するばかりにて、其の志のごとくに求め得たる福もなし其の中にたま〱求め得て一旦の樂みありといへども、或は火にやかれ水にながされ、或は賊人にとられ、官人にうばゝる、たとひ一期の間かゝる難にあはざる者も、報命つくる時、其の福身に隨ふ事なし、福多ければ罪も亦多きが故に來生に必ず惡道に入る小利大損なる事、何事か是にしかんや。今生に貧人となれる事は前世の慳貪の業のむくひなり、かやうの理をばしらすして、或は世をわたる計のつたなき故にまづしき人ありと思へり、若前世の福因なくばたとひ世をわたるやうをさま〱に習ふて其ごとくにふるまふとも、福分のまさる事あるべからず、まさにしるべし世をわたる計のつたなき故に、まづしきにはあらず、たゞ是福分のあるまじき故に世をわたる計のつたなきなり、或は我が身のまづしき事は給はるべき御恩を給はらざる故也とて、主人をうらむる人あり、或は我がしるべき所領を他人にうばひとられたる故にこそ、まづしけれとて腹をたつる人あり、是も又御恩をかうふらす所領をうばゝれたる故にまづしきにはあらず、まづしかるべき業報にて給はるべき御恩をも給はらずしるべき所領をもしりえざるなり。然らば卽ち福をもとむる欲心をだに捨つれば福分は自然に滿足すべし、是の故に佛敎に人の福を求むる事を制するなり。福をもとめずしてまづしかれとにはあらず。昔天竺の須達長者老後に福報おとろへて世をわたる計略もつきはてゝ、年來の眷屬一人もなし、たゞ夫妻二人のみに成にけり。財寶はなけれ共、さすがに空倉はあまたありけり。若やとて倉の内をさがす程に旃檀にてさしたる斗を一つ求め得たり。これを米四升にかへてこれにて二三日の命をばつぎ、なんとうれしく思へり。須達は別事によりて他行しぬ。其あとに舍利弗須達か家に到りて乞食し玉ふ。須達が妻四升の米を、一升分けて供養し奉る。其の後目蓮迦葉來りて乞ひ給ふ。又二升奉りぬ。其の殘り一升になりぬ。是れだにあらば、今日ばかりの命をば續なんと思ふほどに、又如來到り給へり。惜み申べきやうもなし、やがて供養し奉る。さても須達が外へいでつるが、つかれにのぞみて歸り來らん時、いかゞはせんと思ふもかなしく、又佛僧を供養し奉ることも時にこそよれ、我が命だにも續がたきおりふしに四升ながら皆奉ることしかるべからずと、須達にしかられんこともあさましく覺て泣臥したり。さる程に須達外より歸りて、其の妻の泣臥したるをあやしみて、其の故を問けるに、其の妻ありのまゝに答ふ。須達これをきゝて申すやう、三寳の御ためには、身命をも惜み奉ることあるべからず。只今やがて餓死に及ぶとも、いかで我身のためとて、物を惜み奉ることあらんや。ありがたく思ひよれりと感歎す。其の後、若し又さきの斗ふぜいの物もあるやとて、空倉に入て求めんとすれば、倉ごとにその戶つまりてあかず。あやしみて戶を打破りて見ければ、米錢絹布金銀等種々の財寶本の如く、面々の倉にみちみてり。其の時眷屬も又集りてもとの長者に成にけり。かゝる福分の再び來れる事は、四升の米のかはりに佛のあたへ給へるにはあらず。たゞ是須達夫妻ともに、無欲清淨なる心中より來れり。末代なりとも若人かやうに無欲ならば、無限の福德やがて滿足すべし。たとひ生れつきにかやうの心なくとも小利を求める心をひるがへして、須達夫妻が心をまなべば、何ぞかやうの大利を得ざらんや。須達か心をばまなばずして、たゞかれがごとく樂みを得んと思て、欲情のまゝに福を求めば、今生に求め得たる大利のなきのみにあちず。來生はかならず餓鬼道に入るべし。
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夢中問答集・『夢中問答集』先に衆生を益する理由問自身もし出離せずは他人を度する事もあるべからず。しかるを自身をばさしをきて、先衆生のために善根を修すること其の理なきにあらずや。 答衆生の生死にしづめる事は、我が身を執著して此の身のために名利を求めて、種々の罪業をつくる故なり。しかればたゞ我が身をばわすれて衆生を益する心をおこせば、大悲內ちに熏して佛心と冥合する故に、自身のためとて善根を修せざれ共、無邊の善根おのづから圓備し、自身のために佛道を求めざれども、佛道すみやかに成就す。自身のためばかりに出離をもとむる人は、小乘心なるが故に、たとひ無量の善根を修すれ共、自身の成佛なをかなはず。况んや他人を度する事あらんや。菩薩心を發する人に智增悲增の差別あり。先一切衆生を度しつくして、後ちに佛道を成せんと誓ふは、是れ悲增の菩薩なり。我が身先づ佛道を成して後ちに衆生を度せんとするは、是れ智增なり。智增の人は二乘心に似たりといへども、一切衆生を度せんために、先づ自身の成佛をもとむる故に菩薩心を成就す。智增悲增ことなりといへども、衆生濟度の心はかはる事なし。この故に一善を修し、一行をなしても皆これを一切衆生に廻向する事は同かるべし。