夢中問答集 / 『夢中問答集』福を求める欲を捨てよ
問衆生の苦をぬきて樂をあたふる事は、佛の大慈大悲なり、しかるを佛敎の中に人の福を求るを制する事は何故ぞや。 答世間に福をもとむる人、或は商賣農作の業をいとなみ、或は利錢賣買の計りごとをめぐらし、或は工巧伎藝の能をほどこし、或は奉公給仕の功をいたす其のしわざは各ことなれども、其の志は皆同じ其のありさまを見るに、生涯たゞ身心を苦勞するばかりにて、其の志のごとくに求め得たる福もなし其の中にたま〱求め得て一旦の樂みありといへども、或は火にやかれ水にながされ、或は賊人にとられ、官人にうばゝる、たとひ一期の間かゝる難にあはざる者も、報命つくる時、其の福身に隨ふ事なし、福多ければ罪も亦多きが故に來生に必ず惡道に入る小利大損なる事、何事か是にしかんや。今生に貧人となれる事は前世の慳貪の業のむくひなり、かやうの理をばしらすして、或は世をわたる計のつたなき故にまづしき人ありと思へり、若前世の福因なくばたとひ世をわたるやうをさま〱に習ふて其ごとくにふるまふとも、福分のまさる事あるべからず、まさにしるべし世をわたる計のつたなき故に、まづしきにはあらず、たゞ是福分のあるまじき故に世をわたる計のつたなきなり、或は我が身のまづしき事は給はるべき御恩を給はらざる故也とて、主人をうらむる人あり、或は我がしるべき所領を他人にうばひとられたる故にこそ、まづしけれとて腹をたつる人あり、是も又御恩をかうふらす所領をうばゝれたる故にまづしきにはあらず、まづしかるべき業報にて給はるべき御恩をも給はらずしるべき所領をもしりえざるなり。然らば卽ち福をもとむる欲心をだに捨つれば福分は自然に滿足すべし、是の故に佛敎に人の福を求むる事を制するなり。福をもとめずしてまづしかれとにはあらず。昔天竺の須達長者老後に福報おとろへて世をわたる計略もつきはてゝ、年來の眷屬一人もなし、たゞ夫妻二人のみに成にけり。財寶はなけれ共、さすがに空倉はあまたありけり。若やとて倉の内をさがす程に旃檀にてさしたる斗を一つ求め得たり。これを米四升にかへてこれにて二三日の命をばつぎ、なんとうれしく思へり。須達は別事によりて他行しぬ。其あとに舍利弗須達か家に到りて乞食し玉ふ。須達が妻四升の米を、一升分けて供養し奉る。其の後目蓮迦葉來りて乞ひ給ふ。又二升奉りぬ。其の殘り一升になりぬ。是れだにあらば、今日ばかりの命をば續なんと思ふほどに、又如來到り給へり。惜み申べきやうもなし、やがて供養し奉る。さても須達が外へいでつるが、つかれにのぞみて歸り來らん時、いかゞはせんと思ふもかなしく、又佛僧を供養し奉ることも時にこそよれ、我が命だにも續がたきおりふしに四升ながら皆奉ることしかるべからずと、須達にしかられんこともあさましく覺て泣臥したり。さる程に須達外より歸りて、其の妻の泣臥したるをあやしみて、其の故を問けるに、其の妻ありのまゝに答ふ。須達これをきゝて申すやう、三寳の御ためには、身命をも惜み奉ることあるべからず。只今やがて餓死に及ぶとも、いかで我身のためとて、物を惜み奉ることあらんや。ありがたく思ひよれりと感歎す。其の後、若し又さきの斗ふぜいの物もあるやとて、空倉に入て求めんとすれば、倉ごとにその戶つまりてあかず。あやしみて戶を打破りて見ければ、米錢絹布金銀等種々の財寶本の如く、面々の倉にみちみてり。其の時眷屬も又集りてもとの長者に成にけり。かゝる福分の再び來れる事は、四升の米のかはりに佛のあたへ給へるにはあらず。たゞ是須達夫妻ともに、無欲清淨なる心中より來れり。末代なりとも若人かやうに無欲ならば、無限の福德やがて滿足すべし。たとひ生れつきにかやうの心なくとも小利を求める心をひるがへして、須達夫妻が心をまなべば、何ぞかやうの大利を得ざらんや。須達か心をばまなばずして、たゞかれがごとく樂みを得んと思て、欲情のまゝに福を求めば、今生に求め得たる大利のなきのみにあちず。來生はかならず餓鬼道に入るべし。
新字:問衆生の苦をぬきて楽をあたふる事は、仏の大慈大悲なり、しかるを仏教の中に人の福を求るを制する事は何故ぞや。 答世間に福をもとむる人、或は商売農作の業をいとなみ、或は利銭売買の計りごとをめぐらし、或は工巧伎芸の能をほどこし、或は奉公給仕の功をいたす其のしわざは各ことなれども、其の志は皆同じ其のありさまを見るに、生涯たゞ身心を苦労するばかりにて、其の志のごとくに求め得たる福もなし其の中にたま〱求め得て一旦の楽みありといへども、或は火にやかれ水にながされ、或は賊人にとられ、官人にうばゝる、たとひ一期の間かゝる難にあはざる者も、報命つくる時、其の福身に随ふ事なし、福多ければ罪も亦多きが故に来生に必ず悪道に入る小利大損なる事、何事か是にしかんや。今生に貧人となれる事は前世の慳貪の業のむくひなり、かやうの理をばしらすして、或は世をわたる計のつたなき故にまづしき人ありと思へり、若前世の福因なくばたとひ世をわたるやうをさま〱に習ふて其ごとくにふるまふとも、福分のまさる事あるべからず、まさにしるべし世をわたる計のつたなき故に、まづしきにはあらず、たゞ是福分のあるまじき故に世をわたる計のつたなきなり、或は我が身のまづしき事は給はるべき御恩を給はらざる故也とて、主人をうらむる人あり、或は我がしるべき所領を他人にうばひとられたる故にこそ、まづしけれとて腹をたつる人あり、是も又御恩をかうふらす所領をうばゝれたる故にまづしきにはあらず、まづしかるべき業報にて給はるべき御恩をも給はらずしるべき所領をもしりえざるなり。然らば即ち福をもとむる欲心をだに捨つれば福分は自然に満足すべし、是の故に仏教に人の福を求むる事を制するなり。福をもとめずしてまづしかれとにはあらず。昔天竺の須達長者老後に福報おとろへて世をわたる計略もつきはてゝ、年来の眷属一人もなし、たゞ夫妻二人のみに成にけり。財宝はなけれ共、さすがに空倉はあまたありけり。若やとて倉の内をさがす程に旃檀にてさしたる斗を一つ求め得たり。これを米四升にかへてこれにて二三日の命をばつぎ、なんとうれしく思へり。須達は別事によりて他行しぬ。其あとに舎利弗須達か家に到りて乞食し玉ふ。須達が妻四升の米を、一升分けて供養し奉る。其の後目蓮迦葉来りて乞ひ給ふ。又二升奉りぬ。其の残り一升になりぬ。是れだにあらば、今日ばかりの命をば続なんと思ふほどに、又如来到り給へり。惜み申べきやうもなし、やがて供養し奉る。さても須達が外へいでつるが、つかれにのぞみて帰り来らん時、いかゞはせんと思ふもかなしく、又仏僧を供養し奉ることも時にこそよれ、我が命だにも続がたきおりふしに四升ながら皆奉ることしかるべからずと、須達にしかられんこともあさましく覚て泣臥したり。さる程に須達外より帰りて、其の妻の泣臥したるをあやしみて、其の故を問けるに、其の妻ありのまゝに答ふ。須達これをきゝて申すやう、三宝の御ためには、身命をも惜み奉ることあるべからず。只今やがて餓死に及ぶとも、いかで我身のためとて、物を惜み奉ることあらんや。ありがたく思ひよれりと感嘆す。其の後、若し又さきの斗ふぜいの物もあるやとて、空倉に入て求めんとすれば、倉ごとにその戸つまりてあかず。あやしみて戸を打破りて見ければ、米銭絹布金銀等種々の財宝本の如く、面々の倉にみちみてり。其の時眷属も又集りてもとの長者に成にけり。かゝる福分の再び来れる事は、四升の米のかはりに仏のあたへ給へるにはあらず。たゞ是須達夫妻ともに、無欲清浄なる心中より来れり。末代なりとも若人かやうに無欲ならば、無限の福徳やがて満足すべし。たとひ生れつきにかやうの心なくとも小利を求める心をひるがへして、須達夫妻が心をまなべば、何ぞかやうの大利を得ざらんや。須達か心をばまなばずして、たゞかれがごとく楽みを得んと思て、欲情のまゝに福を求めば、今生に求め得たる大利のなきのみにあちず。来生はかならず餓鬼道に入るべし。
書き下し
問衆生の苦をぬきて樂をあたふる事は、佛の大慈大悲なり、しかるを佛敎の中に人の福を求るを制する事は何故ぞや。 答世間に福をもとむる人、或は商賣農作の業をいとなみ、或は利錢賣買の計りごとをめぐらし、或は工巧伎藝の能をほどこし、或は奉公給仕の功をいたす其のしわざは各ことなれども、其の志は皆同じ其のありさまを見るに、生涯たゞ身心を苦勞するばかりにて、其の志のごとくに求め得たる福もなし其の中にたま〱求め得て一旦の樂みありといへども、或は火にやかれ水にながされ、或は賊人にとられ、官人にうばゝる、たとひ一期の間かゝる難にあはざる者も、報命つくる時、其の福身に隨ふ事なし、福多ければ罪も亦多きが故に來生に必ず惡道に入る小利大損なる事、何事か是にしかんや。今生に貧人となれる事は前世の慳貪の業のむくひなり、かやうの理をばしらすして、或は世をわたる計のつたなき故にまづしき人ありと思へり、若前世の福因なくばたとひ世をわたるやうをさま〱に習ふて其ごとくにふるまふとも、福分のまさる事あるべからず、まさにしるべし世をわたる計のつたなき故に、まづしきにはあらず、たゞ是福分のあるまじき故に世をわたる計のつたなきなり、或は我が身のまづしき事は給はるべき御恩を給はらざる故也とて、主人をうらむる人あり、或は我がしるべき所領を他人にうばひとられたる故にこそ、まづしけれとて腹をたつる人あり、是も又御恩をかうふらす所領をうばゝれたる故にまづしきにはあらず、まづしかるべき業報にて給はるべき御恩をも給はらずしるべき所領をもしりえざるなり。然らば卽ち福をもとむる欲心をだに捨つれば福分は自然に滿足すべし、是の故に佛敎に人の福を求むる事を制するなり。福をもとめずしてまづしかれとにはあらず。昔天竺の須達長者老後に福報おとろへて世をわたる計略もつきはてゝ、年來の眷屬一人もなし、たゞ夫妻二人のみに成にけり。財寶はなけれ共、さすがに空倉はあまたありけり。若やとて倉の内をさがす程に旃檀にてさしたる斗を一つ求め得たり。これを米四升にかへてこれにて二三日の命をばつぎ、なんとうれしく思へり。須達は別事によりて他行しぬ。其あとに舍利弗須達か家に到りて乞食し玉ふ。須達が妻四升の米を、一升分けて供養し奉る。其の後目蓮迦葉來りて乞ひ給ふ。又二升奉りぬ。其の殘り一升になりぬ。是れだにあらば、今日ばかりの命をば續なんと思ふほどに、又如來到り給へり。惜み申べきやうもなし、やがて供養し奉る。さても須達が外へいでつるが、つかれにのぞみて歸り來らん時、いかゞはせんと思ふもかなしく、又佛僧を供養し奉ることも時にこそよれ、我が命だにも續がたきおりふしに四升ながら皆奉ることしかるべからずと、須達にしかられんこともあさましく覺て泣臥したり。さる程に須達外より歸りて、其の妻の泣臥したるをあやしみて、其の故を問けるに、其の妻ありのまゝに答ふ。須達これをきゝて申すやう、三寳の御ためには、身命をも惜み奉ることあるべからず。只今やがて餓死に及ぶとも、いかで我身のためとて、物を惜み奉ることあらんや。ありがたく思ひよれりと感歎す。其の後、若し又さきの斗ふぜいの物もあるやとて、空倉に入て求めんとすれば、倉ごとにその戶つまりてあかず。あやしみて戶を打破りて見ければ、米錢絹布金銀等種々の財寶本の如く、面々の倉にみちみてり。其の時眷屬も又集りてもとの長者に成にけり。かゝる福分の再び來れる事は、四升の米のかはりに佛のあたへ給へるにはあらず。たゞ是須達夫妻ともに、無欲清淨なる心中より來れり。末代なりとも若人かやうに無欲ならば、無限の福德やがて滿足すべし。たとひ生れつきにかやうの心なくとも小利を求める心をひるがへして、須達夫妻が心をまなべば、何ぞかやうの大利を得ざらんや。須達か心をばまなばずして、たゞかれがごとく樂みを得んと思て、欲情のまゝに福を求めば、今生に求め得たる大利のなきのみにあちず。來生はかならず餓鬼道に入るべし。
現代語訳
問:衆生の苦をぬぐい楽を与えるのは仏の大慈大悲であるはずなのに、仏教では人が福を求めることを戒めるのはなぜか。 答:世間で福を求める人は、商いや農作に励み、あるいは金貸しや売買の算段をめぐらし、あるいは工芸や技芸の腕を振るい、あるいは奉公や給仕の働きに尽くす。やり方はそれぞれ違うが、志は皆同じである。その有様を見ると、一生ただ心身を苦労させるばかりで、志のとおりに福を得た者はいない。たまたま得て一時の楽しみがあっても、火に焼かれ、水に流され、盗賊に取られ、役人に奪われる。たとえ一生のあいだそうした難に遭わない者でも、寿命が尽きるときにはその福を身につけて持っていくことはできない。福が多ければ罪も多いので、来世にはきっと悪道に落ちる。小さな利益で大損をすることで、これに勝るものはない。 今生で貧しい身になっているのは、前世のけちで貪欲な行いの報いである。この道理を知らず、世渡りの手際が悪いから貧しいのだと思っている人がいる。しかし前世に福の因がなければ、世渡りの方法をさまざまに習ってそのとおりにふるまっても、福分が増すことはない。世渡りが下手だから貧しいのではなく、もともと福分がないから世渡りが下手なのだと知るべきである。また、自分が貧しいのは頂くはずの御恩を頂けないからだと主人を恨む人がいる。自分が領有するはずの所領を他人に奪われたから貧しいのだと腹を立てる人もいる。これも御恩を受けられず所領を奪われたから貧しいのではない。貧しくなる業報によって、頂くはずの御恩も頂けず、領有するはずの所領も得られなかったのである。 そうであれば、福を求める欲心さえ捨てれば、福分は自然に満ち足りるだろう。こういうわけで仏教は人が福を求めることを戒めるのである。福を求めずに貧しくあれ、という意味ではない。 昔、インドの須達長者は、老いて福の報いが衰え、世渡りの手立ても尽き果て、長年の家来も一人もいなくなり、夫婦二人だけになった。財宝はないが、空になった蔵はたくさんあった。もしやと思って蔵の中を探すと、栴檀で作った升を一つ見つけた。これを米四升に換えて二、三日の命をつなごうと、嬉しく思った。須達は別の用事で出かけた。その留守に舎利弗が須達の家に来て托鉢された。須達の妻は四升の米から一升を分けて供養した。その後、目連と迦葉が来て乞われたので、また二升を差し上げた。残りは一升になった。これだけあれば今日一日の命はつなげると思っているところへ、さらに釈迦如来がお越しになった。惜しむわけにもいかず、すぐに供養した。外出した須達が疲れて帰ってきたらどうしようと思うと悲しく、また仏や僧を供養するのも時と場合による、自分の命さえつなぎがたいときに四升すべてを差し上げるのは適切ではなく、須達に叱られるだろうとあさましく思って、泣き伏していた。 そのうち須達が外から帰り、妻が泣き伏しているのを不審に思って理由を尋ねると、妻はありのままに答えた。須達はこれを聞いて、三宝のためには身命さえ惜しんではならない、今すぐ餓死することになろうと、どうして我が身のためと言って物を惜しむことがあろうか、よくぞ思いついてくれた、と感嘆した。その後、もしまださっきの升ほどの物でもあるかと思って空の蔵に入って探そうとすると、どの蔵も戸が詰まって開かない。不審に思って戸を打ち破って見ると、米、銭、絹布、金銀など種々の財宝が元のとおり、どの蔵にも満ちていた。そのとき家来も再び集まり、元の長者に戻った。 このように福分が再び来たのは、四升の米の代わりに仏が与えてくださったのではない。ただ須達夫妻の無欲で清らかな心中から来たものである。末世であっても、人がこのように無欲であれば、限りない福徳がたちまち満ちるだろう。たとえ生まれつきこうした心がなくとも、小さな利益を求める心をひるがえし、須達夫妻の心を学べば、どうしてこのような大利を得られないことがあろうか。須達の心を学ばず、ただ彼のように楽を得たいと思って、欲情のままに福を求めれば、今生に大利が得られないだけでなく、来世は必ず餓鬼道に落ちるだろう。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(四)かやうの決定の業報をば佛菩薩のちからも轉ずることかなはず。形容の妍醜福德の大小壽命の長短種姓の貴賤これらはみな前世の業因にこたへたる定業なり、莊子等は前世の業因によれる事をしらざるが故に、貧富貴賤はみなこれ自然なりと思へり、佛敎にはしからず、前世の惡因によりて惡果を得たる人この理をしりて、今生に惡業をつくらずば當來必ず善果を得べし、轉じがたき現報をとかくもちあつかふ程に當來の善因をも修せず、これは愚人にあらずや。たとへば農夫の田をつくるがごとし。春の時耕すこともねんごろならず。草をも入ず水をもかけず、種をまき苗をうふることも疎略なりし故に、秋になりてみればかたのごとく稻には似たれども、藁をとるほどの得利もありがたし。いはんや米を收むることあらんや。此の時、農人これを歎きて始めて水をかけ、草を入どもかなふべからず。しかるをもしや〱と秋の稻をもちあつかふ事は愚痴なりたゞ此の西收の時、得利のなきことは偏に東作の時、疎略なりしとがなりとして、明年の耕作をよくいとなまば、必ず此の秋のやうなる損亡はあるべからず、經の中に佛力法力をあかす時、定業も亦よく轉ずといへる文あり、又佛力も業力にはかたずともいへり、若し人日來の凡情をひるがへして、正念に住して、或は道行を成せんため、或は他人を利益せんために現報を祈りかへんと思ふて佛力法力によりて、至誠心にて修せば、定業なりとも必ず轉ずべし。故に定業も亦能く轉ずともいへり。若人凡情の執着によりて、命をのべたく福をたもちたき故に祈るならば、かやうの欲心は佛心と冥合せざる故に、感應あるべからず、この故に佛力も業力にかたずといへり。諸佛は大悲を體とす故に、一切衆生をあはれむこと一子のごとしと說き給へり。佛力若したやすく業力をさへぎることあらば、惡道におつる者はあるべからず、濁世に生れて諸の苦みを受る人もなかるべし。佛在世の時、瑠璃太子釋氏とあだをむすびし因緣によりて、王位につきて後、釋氏をほろぼす事九千九百九十萬人、目連尊者佛に申ていはく、衆生の苦をば親疎をえらばず救ひ給ふこそ佛の大悲なれば餘人なりともかやうの難にあふをばたすけ給ふべし。しかるに今ほろぶる人は皆佛の御一族なり、しかるをたすけ給はざることは何ぞや。佛の言、彼等がほろぶることは皆前世の業因のむくひなるが故に、たすくることあたはず、爾の時、目連まさしく金口の說を聞けども、猶疑心やまず、卽神通を以て殺しのこされたる者五百人を相具して、四王天の邊にゆきて鉢をひろくなして、五百人の上に覆てかくし給ひけり。かやうにしたらばさりとものかゝる事もありなんと思はれけり、佛に參りて此の由を申す。佛の言く、業力のいたる事は處をもえらばず、神通にもさえられず、汝かしこがほにしたれども、五百人皆鉢の中にて死にぬ。目連卽かのところへとひ行いて見られければ、佛の御言にたがはざりけり。經論の中にかやうの因緣一つにあらず。しるべし業力のたやすく轉ずべからざる事を。
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夢中問答集・『夢中問答集』順境も逆境も輪廻のもと(三)若し又福分ありて官位もすゝみ、財寶もゆたかに名譽も人にすぐれ、藝能も世にこえたる事ありとも、皆な是れ前世に修せる有漏の善根にこたへたる果報威勢なり。久しくたもつべきことにあらずと思てこれにほこり、これに著する心のなきを隨緣行となづけたり。此の二行の理はさせる甚深の法門にはあらざれ共、敎外の宗旨を信ずる人の中にも、宿熏うすき人は逆順の緣にあふ時、心を亂りて佛法をわする。さすがに佛法をばかた心にはかけたるよしなれ共、逆順の緣は相續してひまもなき故に、工夫純熟の分なし。此の二行の理は、たとひ無智の人なりとも心得ぬべし。先づかやうの理をしりて逆順の緣に對する時、心を亂ることなくば、自然に工夫も純一なるべし。是の故に大師先づ此の二行を立給へり。莊子等が苦樂逆順に心を動ぜざるを無爲の道にかなへりと思へるには同じからず。然らば卽ち中古の宗師達の中にも亦、かやうの理をしめし給へる人あり。近來天目の廣慧禪師中峯和尙の垂誡の中に、多くは是れ世情のひがめる事をいましめ給へるも此の意なり。しかるをなまじいに小智ある人、これを見てかやうの道理は外典小乘等の法門なり。祖門の宗旨にあらずとそしれり。祖師門下の宗師は敎門のごとく、淺深の法門を立分て機に隨つて、これを說くにはあらず。有る時は世間の道理を說き、有る時は出世の法門を談ず。すべて定まれる途轍なし。皆な是れ人のために粘をとき、縛をさくる手段なり。古人の云く、會すれば卽ち途中受用會せざれば卽ち世諦流布なりと云云。たとひ向上の玄旨をしめすとも學者、若し會せずば卽ち世俗の道理となるべし。若し人世間の道理を說くを聞て日來の粘縛を解脫して、直に本分に契當することあらば此の世俗の道理、卽ち是甚深の法門なり。若し人順逆の緣にあふて心をみだる分はなくとも、そのまゝにて本分をあきらむる事なくば、只是北州天上の果報を得る人となるべし。羅漢果を證したる人は貪瞋癡を永く斷じて三界を出離したれ共、いまだ大乘の正理にはかなはず。故に圓覺經に云く、念を動ずるも迷ひなり。念をやむるも又迷ひなりと云云。しかれ共若し先づ淺近の道理をしりて世情をやはらげて佛法を修行せんをばきらふべからず。たとひ世情もやはらぎて、純一に佛法を行ずとも若し又、悟入を求め、成佛を求め、神通を求め、辨說を求むる心あらば、本分にかなふことあるべからず。是を以て達磨大師第三に無所求行を立られたり。金剛經に云く、法尙を捨つべし。何に況んや、非法をやとは此の意なり。さればとて禪宗の學者所求なきを究竟とするにあらず。所求なれば左右に原に逢ふて諸緣境界も我れをなやまさず、天魔外道も便を得ず。此に到りて寤寐憶忘の隔てなし。見聞覺知も別の事にあらず。故に第四に稱法行を立られたり。たとひかやうなりとも猶ほ、是れ功勳邊の事なり。大休大歇の處とは思ふべからず。