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驢鞍橋 / 卷上

一日示して曰く、善根に有漏無漏有る事を知るべし、我を忘れて作すを無漏善と云ひ、我爲めを思ひ當來に代りを得んと思つて作すを有漏善と云ふ也。喩へば非人に物を施すに我後世の爲めと思ふて施すは、有漏に酬ふ。亦只彼を憐み我を忘れて施すは無漏善也。然るに彼有漏善は後には大に怨と成る也。我を思つて作す善には咎有る事眼前の道理有り、譬へば人に念比をする者、皆我爲めにする故に、其者後背く事有れば、我はよくせしに却りて背く抔と云ふて嗔り腹立つ也。然れは前の善心は消えて、後の嗔り地獄の業と成る也。亦我を忘れて人を念比する者は、其者後背く事有れとも、本より我爲めにせぬによつて彌憐みてどこ迄も善也。是を以て知べき也。

新字:一日示して曰く、善根に有漏無漏有る事を知るべし、我を忘れて作すを無漏善と云ひ、我為めを思ひ当来に代りを得んと思つて作すを有漏善と云ふ也。喩へば非人に物を施すに我後世の為めと思ふて施すは、有漏に酬ふ。亦只彼を憐み我を忘れて施すは無漏善也。然るに彼有漏善は後には大に怨と成る也。我を思つて作す善には咎有る事眼前の道理有り、譬へば人に念比をする者、皆我為めにする故に、其者後背く事有れば、我はよくせしに却りて背く抔と云ふて嗔り腹立つ也。然れは前の善心は消えて、後の嗔り地獄の業と成る也。亦我を忘れて人を念比する者は、其者後背く事有れとも、本より我為めにせぬによつて弥憐みてどこ迄も善也。是を以て知べき也。

書き下し

一日示して曰く、善根に有漏無漏有る事を知るべし、我を忘れて作すを無漏善と云ひ、我為めを思ひ当来に代りを得んと思つて作すを有漏善と云ふ也。喩へば非人に物を施すに我後世の為めと思ふて施すは、有漏に酬ふ。亦只彼を憐み我を忘れて施すは無漏善也。然るに彼有漏善は後には大に怨と成る也。我を思つて作す善には咎有る事眼前の道理有り、譬へば人に念比をする者、皆我為めにする故に、其者後背く事有れば、我はよくせしに却りて背く抔と云ふて嗔り腹立つ也。然れは前の善心は消えて、後の嗔り地獄の業と成る也。亦我を忘れて人を念比する者は、其者後背く事有れとも、本より我為めにせぬによつて弥憐みてどこ迄も善也。是を以て知べき也。

現代語訳

ある日示して言われた。善根には有漏と無漏があることを知りなさい。自分を忘れてするのを無漏善といい、自分のためを思い、将来その見返りを得ようと思ってするのを有漏善というのである。たとえば、乞食に物を施すのに、自分の後世のためと思って施すのは、有漏の報いである。また、ただ相手を憐れみ、自分を忘れて施すのは無漏善である。ところが、あの有漏善は、後には大きな怨となる。自分を思ってする善に咎があることは、目の前の道理がある。たとえば、人に親切をする者が、みな自分のためにするので、その者が後で背くことがあれば、自分はよくしてやったのに、かえって背いたなどと言って怒り腹を立てる。そうなれば、前の善心は消えて、後の怒りが地獄の業となる。また、自分を忘れて人に親切にする者は、その者が後で背くことがあっても、もとより自分のためにしたのではないので、いよいよ憐れんで、どこまでも善である。これで知るべきである。

解説

善い行いにも二種類ある、と正三は言う。自分を忘れてする善と、見返りを期待してする善である。後者は、相手が期待どおりに応えなければ、よくしてやったのにと怒りに変わり、せっかくの善が地獄の業になる。前者は、相手が背いてもなお憐れみ続けられる。部下や家族に尽くしたのに報われないと腹を立てるとき、その親切が見返りを求めたものだったのではないかと振り返らせる、非常に身近で鋭い条である。

この章句が説くこと

無漏善有漏善見返り親切怒り利他

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