夢中問答集 / 『夢中問答集』癡福は三生の怨み
問あまりに善根に心をかたぶけたる故に、政道の害になりて、世もおさまりやらぬよしを申す人あり。其の謂れありや。 答聖敎の中に癡福は三生の怨みと申す事あり。其の故は愚癡にして有漏の善をのみ作つて一生をすごす程に、心地を明むる事あたはず。是れ一生の怨みなり。此の有漏の善によりて次の生に欲界の人天に生れて、富貴の果報を得る故に世間の愛着もいよ〱深く、罪業の熏力も亦重し、たとひ罪業をばさしもつくらぬ人なし共。政務に心を亂り、嬉戯にひまのなき故に、正法を行ずることはなし、是二生の怨みなり。前世の有漏の善根は今生に受盡しぬ、曠劫の無明の熏力はいよ〱かさなれる故に、又次の生には惡趣に墮す。この故に、癡福は三生の怨みと申すなり。しかれ共、提謂經等の中に五戒十善等の有曠の善根を修すべきことを說き給へり。これを人天敎となづく。宿習のつたなき故に正法を行せよと如來すゝめ給ふともかなふまじき人をば、先づ彼れがねがふ所の人天の果報を得せしめて漸く引導して、正法に入しめんために、しばらく有漏の善根を修すべきことを敎へ給へり。しかれば末代のありさま今生の祈り來世の福のためとて善を修し給ふもありがたきことなれば、あながちに制し申すべきにはあらねども、同くは三生の怨みとなさぬやうに勤行せられば、卽ち是れ如來の本意なり。いまだ心地をさとらざる人は、たとひ種々の善をなせども、皆有漏の善となるなり。敎禪の宗師同じく、先づ心地をあきらめて後に諸善をば修せよとすゝめ給へるは此の意なり。天台大師六卽の位を立て修證の階を判し給へる中に、妙解開けて後、觀行卽の初品の位に到るまでも他人のために法門をとき、自行のために經呪を讀誦するをも道の障りとてこれを制す。第二品の位に到つて始めて讀經誦呪をゆるし、第三品に到つて、すこしき說法利生の分をゆるせり。第四品に到つて始めて六度を兼行し、第五品に到つて正しく六度を行して衆生を利益すべしと見へたり。圓悟禪師の心要に悟性勸善の文として載せられたるも、先づ心性を悟て、然して後に善根をば修せよとの由しなり心地を悟らざる人は、所作の善根たゞ有爲の果報の因なるが故に、出離の要道とはならず。たま〱法を說き人を度すれども、愛見の大悲に墮するが故に、眞實の化導にはあらず、是を以て有漏の善根をば制して、正法を行ずることをすゝむるなり。
新字:問あまりに善根に心をかたぶけたる故に、政道の害になりて、世もおさまりやらぬよしを申す人あり。其の謂れありや。 答聖教の中に痴福は三生の怨みと申す事あり。其の故は愚痴にして有漏の善をのみ作つて一生をすごす程に、心地を明むる事あたはず。是れ一生の怨みなり。此の有漏の善によりて次の生に欲界の人天に生れて、富貴の果報を得る故に世間の愛着もいよ〱深く、罪業の熏力も亦重し、たとひ罪業をばさしもつくらぬ人なし共。政務に心を乱り、嬉戯にひまのなき故に、正法を行ずることはなし、是二生の怨みなり。前世の有漏の善根は今生に受尽しぬ、曠劫の無明の熏力はいよ〱かさなれる故に、又次の生には悪趣に堕す。この故に、痴福は三生の怨みと申すなり。しかれ共、提謂経等の中に五戒十善等の有曠の善根を修すべきことを説き給へり。これを人天教となづく。宿習のつたなき故に正法を行せよと如来すゝめ給ふともかなふまじき人をば、先づ彼れがねがふ所の人天の果報を得せしめて漸く引導して、正法に入しめんために、しばらく有漏の善根を修すべきことを教へ給へり。しかれば末代のありさま今生の祈り来世の福のためとて善を修し給ふもありがたきことなれば、あながちに制し申すべきにはあらねども、同くは三生の怨みとなさぬやうに勤行せられば、即ち是れ如来の本意なり。いまだ心地をさとらざる人は、たとひ種々の善をなせども、皆有漏の善となるなり。教禅の宗師同じく、先づ心地をあきらめて後に諸善をば修せよとすゝめ給へるは此の意なり。天台大師六即の位を立て修証の階を判し給へる中に、妙解開けて後、観行即の初品の位に到るまでも他人のために法門をとき、自行のために経呪を読誦するをも道の障りとてこれを制す。第二品の位に到つて始めて読経誦呪をゆるし、第三品に到つて、すこしき説法利生の分をゆるせり。第四品に到つて始めて六度を兼行し、第五品に到つて正しく六度を行して衆生を利益すべしと見へたり。円悟禅師の心要に悟性勧善の文として載せられたるも、先づ心性を悟て、然して後に善根をば修せよとの由しなり心地を悟らざる人は、所作の善根たゞ有為の果報の因なるが故に、出離の要道とはならず。たま〱法を説き人を度すれども、愛見の大悲に堕するが故に、真実の化導にはあらず、是を以て有漏の善根をば制して、正法を行ずることをすゝむるなり。
書き下し
問あまりに善根に心をかたぶけたる故に、政道の害になりて、世もおさまりやらぬよしを申す人あり。其の謂れありや。 答聖敎の中に癡福は三生の怨みと申す事あり。其の故は愚癡にして有漏の善をのみ作つて一生をすごす程に、心地を明むる事あたはず。是れ一生の怨みなり。此の有漏の善によりて次の生に欲界の人天に生れて、富貴の果報を得る故に世間の愛着もいよ〱深く、罪業の熏力も亦重し、たとひ罪業をばさしもつくらぬ人なし共。政務に心を亂り、嬉戯にひまのなき故に、正法を行ずることはなし、是二生の怨みなり。前世の有漏の善根は今生に受盡しぬ、曠劫の無明の熏力はいよ〱かさなれる故に、又次の生には惡趣に墮す。この故に、癡福は三生の怨みと申すなり。しかれ共、提謂經等の中に五戒十善等の有曠の善根を修すべきことを說き給へり。これを人天敎となづく。宿習のつたなき故に正法を行せよと如來すゝめ給ふともかなふまじき人をば、先づ彼れがねがふ所の人天の果報を得せしめて漸く引導して、正法に入しめんために、しばらく有漏の善根を修すべきことを敎へ給へり。しかれば末代のありさま今生の祈り來世の福のためとて善を修し給ふもありがたきことなれば、あながちに制し申すべきにはあらねども、同くは三生の怨みとなさぬやうに勤行せられば、卽ち是れ如來の本意なり。いまだ心地をさとらざる人は、たとひ種々の善をなせども、皆有漏の善となるなり。敎禪の宗師同じく、先づ心地をあきらめて後に諸善をば修せよとすゝめ給へるは此の意なり。天台大師六卽の位を立て修證の階を判し給へる中に、妙解開けて後、觀行卽の初品の位に到るまでも他人のために法門をとき、自行のために經呪を讀誦するをも道の障りとてこれを制す。第二品の位に到つて始めて讀經誦呪をゆるし、第三品に到つて、すこしき說法利生の分をゆるせり。第四品に到つて始めて六度を兼行し、第五品に到つて正しく六度を行して衆生を利益すべしと見へたり。圓悟禪師の心要に悟性勸善の文として載せられたるも、先づ心性を悟て、然して後に善根をば修せよとの由しなり心地を悟らざる人は、所作の善根たゞ有爲の果報の因なるが故に、出離の要道とはならず。たま〱法を說き人を度すれども、愛見の大悲に墮するが故に、眞實の化導にはあらず、是を以て有漏の善根をば制して、正法を行ずることをすゝむるなり。
現代語訳
問:あまりに善根(善い行い)に心を傾けるために、政治の害になって、世も治まらないと言う人がいる。その言い分に理由はあるか。 答:聖教の中に「癡福は三生の怨み」ということがある。そのわけは、愚かで有漏の善ばかり作って一生を過ごすうちに、心の本源を明らかにすることができない。これが一生の怨みである。この有漏の善によって次の生に欲界の人や天に生まれ、富貴の果報を得るので、世間への愛着はいよいよ深く、罪業の熏習の力も重くなる。たとえ罪業はさほど作らない人であっても、政務に心を乱し、遊びに暇がないために正法を行うことはない。これが二生の怨みである。前世の有漏の善根は今生で受け尽くし、遠い昔からの無明の熏習の力はますます重なるので、また次の生には悪趣に堕ちる。そのため「癡福は三生の怨み」と言うのである。しかしながら、提謂経などの中には五戒十善などの有漏の善根を修めるべきことを説いておられる。これを人天教という。前世からの習いが拙くて、正法を行えと如来が勧められても叶わない人を、まずその人が願う人・天の果報を得させ、しだいに導いて正法に入らせるため、しばらく有漏の善根を修めるべきことを教えられたのである。そうであれば、末世のありさまとして、今生の祈りや来世の福のために善を修められるのも得がたいことなので、むやみに制するべきではないが、同じことなら三生の怨みとならないよう勤行されるなら、それこそ如来の本意である。まだ心の本源を悟っていない人は、たとえ種々の善をなしても、みな有漏の善となる。教宗・禅宗の師が同じく、まず心地を明らかにしてのち諸善を修めよと勧められたのは、この意である。天台大師が六即の位を立てて修行と悟りの階梯を判じられた中で、妙解が開けてのち、観行即の初品の位に至るまでも、他人のために法門を説き、自分の修行のために経や呪を読誦することも道の妨げとして制している。第二品の位に至ってはじめて読経誦呪を許し、第三品に至って少しばかり説法して衆生を利することを許す。第四品に至ってはじめて六度を兼ねて行い、第五品に至って正しく六度を行って衆生を利益する、と見える。圓悟禅師の心要に「悟性勧善」の文として載せられているのも、まず心性を悟ってのち善根を修めよという趣旨である。心地を悟らない人は、行う善根がただ有為の果報の因となるだけなので、迷いを出る要の道とはならない。たまたま法を説き人を救っても、愛見の大悲に堕ちるので、真実の教化ではない。このため有漏の善根を制して、正法を行うことを勧めるのである。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』順境も逆境も輪廻のもと(三)若し又福分ありて官位もすゝみ、財寶もゆたかに名譽も人にすぐれ、藝能も世にこえたる事ありとも、皆な是れ前世に修せる有漏の善根にこたへたる果報威勢なり。久しくたもつべきことにあらずと思てこれにほこり、これに著する心のなきを隨緣行となづけたり。此の二行の理はさせる甚深の法門にはあらざれ共、敎外の宗旨を信ずる人の中にも、宿熏うすき人は逆順の緣にあふ時、心を亂りて佛法をわする。さすがに佛法をばかた心にはかけたるよしなれ共、逆順の緣は相續してひまもなき故に、工夫純熟の分なし。此の二行の理は、たとひ無智の人なりとも心得ぬべし。先づかやうの理をしりて逆順の緣に對する時、心を亂ることなくば、自然に工夫も純一なるべし。是の故に大師先づ此の二行を立給へり。莊子等が苦樂逆順に心を動ぜざるを無爲の道にかなへりと思へるには同じからず。然らば卽ち中古の宗師達の中にも亦、かやうの理をしめし給へる人あり。近來天目の廣慧禪師中峯和尙の垂誡の中に、多くは是れ世情のひがめる事をいましめ給へるも此の意なり。しかるをなまじいに小智ある人、これを見てかやうの道理は外典小乘等の法門なり。祖門の宗旨にあらずとそしれり。祖師門下の宗師は敎門のごとく、淺深の法門を立分て機に隨つて、これを說くにはあらず。有る時は世間の道理を說き、有る時は出世の法門を談ず。すべて定まれる途轍なし。皆な是れ人のために粘をとき、縛をさくる手段なり。古人の云く、會すれば卽ち途中受用會せざれば卽ち世諦流布なりと云云。たとひ向上の玄旨をしめすとも學者、若し會せずば卽ち世俗の道理となるべし。若し人世間の道理を說くを聞て日來の粘縛を解脫して、直に本分に契當することあらば此の世俗の道理、卽ち是甚深の法門なり。若し人順逆の緣にあふて心をみだる分はなくとも、そのまゝにて本分をあきらむる事なくば、只是北州天上の果報を得る人となるべし。羅漢果を證したる人は貪瞋癡を永く斷じて三界を出離したれ共、いまだ大乘の正理にはかなはず。故に圓覺經に云く、念を動ずるも迷ひなり。念をやむるも又迷ひなりと云云。しかれ共若し先づ淺近の道理をしりて世情をやはらげて佛法を修行せんをばきらふべからず。たとひ世情もやはらぎて、純一に佛法を行ずとも若し又、悟入を求め、成佛を求め、神通を求め、辨說を求むる心あらば、本分にかなふことあるべからず。是を以て達磨大師第三に無所求行を立られたり。金剛經に云く、法尙を捨つべし。何に況んや、非法をやとは此の意なり。さればとて禪宗の學者所求なきを究竟とするにあらず。所求なれば左右に原に逢ふて諸緣境界も我れをなやまさず、天魔外道も便を得ず。此に到りて寤寐憶忘の隔てなし。見聞覺知も別の事にあらず。故に第四に稱法行を立られたり。たとひかやうなりとも猶ほ、是れ功勳邊の事なり。大休大歇の處とは思ふべからず。
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夢中問答集・『夢中問答集』先に衆生を益する理由問自身もし出離せずは他人を度する事もあるべからず。しかるを自身をばさしをきて、先衆生のために善根を修すること其の理なきにあらずや。 答衆生の生死にしづめる事は、我が身を執著して此の身のために名利を求めて、種々の罪業をつくる故なり。しかればたゞ我が身をばわすれて衆生を益する心をおこせば、大悲內ちに熏して佛心と冥合する故に、自身のためとて善根を修せざれ共、無邊の善根おのづから圓備し、自身のために佛道を求めざれども、佛道すみやかに成就す。自身のためばかりに出離をもとむる人は、小乘心なるが故に、たとひ無量の善根を修すれ共、自身の成佛なをかなはず。况んや他人を度する事あらんや。菩薩心を發する人に智增悲增の差別あり。先一切衆生を度しつくして、後ちに佛道を成せんと誓ふは、是れ悲增の菩薩なり。我が身先づ佛道を成して後ちに衆生を度せんとするは、是れ智增なり。智增の人は二乘心に似たりといへども、一切衆生を度せんために、先づ自身の成佛をもとむる故に菩薩心を成就す。智增悲增ことなりといへども、衆生濟度の心はかはる事なし。この故に一善を修し、一行をなしても皆これを一切衆生に廻向する事は同かるべし。