名将言行録 / 『名将言行録』眞田幸村 籤で決める評定
○幸村の首實檢に出し時、家康、左衞門にあやかり候へと言はれて、其頭髮を拔て取らしめしとぞ。幸村戰死せしかども、家臣に一人の降參せし者なし、日頃士を養ふの善ければなりと、人皆感歎せざるはなかりけり。 ○幸村嘗て曰く、我家にて軍評定の時、若し兩議ありて、何れへか定めんと決し難き時は、一座の諸士に向ひ、此儀は大切の事なれば、惣大將に伺ひ奉らんと、右の二議を書付け密に室に入り、一德齋の像に香華燈を備へ、彼書を捧げ、其身謹みて禮拜し、儲圖を以て、其圖次第に兩議の中を極むるなり、是にては我も疑ひなく、又兩議言出す人も大將の依怙ならぬと知り、諸卒は當家祖神の敎なりと勇むこと限りなし、然れども何事も鬮次第と言ふにはあらず、兼ねて詮議に時を盡し、猶運を鬼神に伺ふ所なり、總て我を用ひず物に寄りて行ふ時は、假令其事に越度ありても其人に預らざるの德あり、時代と人の替はりあれども、良將の心は、其趣一なることを信ずべし、當時祿と名を求る俗儒の知る所にあらずと。
新字:○幸村の首実検に出し時、家康、左衛門にあやかり候へと言はれて、其頭髪を抜て取らしめしとぞ。幸村戦死せしかども、家臣に一人の降参せし者なし、日頃士を養ふの善ければなりと、人皆感嘆せざるはなかりけり。 ○幸村嘗て曰く、我家にて軍評定の時、若し両議ありて、何れへか定めんと決し難き時は、一座の諸士に向ひ、此儀は大切の事なれば、惣大将に伺ひ奉らんと、右の二議を書付け密に室に入り、一徳斎の像に香華灯を備へ、彼書を捧げ、其身謹みて礼拝し、儲図を以て、其図次第に両議の中を極むるなり、是にては我も疑ひなく、又両議言出す人も大将の依怙ならぬと知り、諸卒は当家祖神の教なりと勇むこと限りなし、然れども何事も鬮次第と言ふにはあらず、兼ねて詮議に時を尽し、猶運を鬼神に伺ふ所なり、総て我を用ひず物に寄りて行ふ時は、仮令其事に越度ありても其人に預らざるの徳あり、時代と人の替はりあれども、良将の心は、其趣一なることを信ずべし、当時禄と名を求る俗儒の知る所にあらずと。
書き下し
○幸村の首實檢に出し時、家康、左衞門にあやかり候へと言はれて、其頭髮を拔て取らしめしとぞ。幸村戰死せしかども、家臣に一人の降參せし者なし、日頃士を養ふの善ければなりと、人皆感歎せざるはなかりけり。 ○幸村嘗て曰く、我家にて軍評定の時、若し兩議ありて、何れへか定めんと決し難き時は、一座の諸士に向ひ、此儀は大切の事なれば、惣大將に伺ひ奉らんと、右の二議を書付け密に室に入り、一德齋の像に香華燈を備へ、彼書を捧げ、其身謹みて禮拜し、儲圖を以て、其圖次第に兩議の中を極むるなり、是にては我も疑ひなく、又兩議言出す人も大將の依怙ならぬと知り、諸卒は當家祖神の敎なりと勇むこと限りなし、然れども何事も鬮次第と言ふにはあらず、兼ねて詮議に時を盡し、猶運を鬼神に伺ふ所なり、總て我を用ひず物に寄りて行ふ時は、假令其事に越度ありても其人に預らざるの德あり、時代と人の替はりあれども、良將の心は、其趣一なることを信ずべし、當時祿と名を求る俗儒の知る所にあらずと。
現代語訳
幸村の首実検に出された時、家康は、左衛門佐にあやかりたいと言われて、その頭髪を抜き取らせたということです。幸村は戦死しましたが、家臣に一人も降参した者はいませんでした。日頃から士を養うことが善かったためだと、人々は皆感嘆しました。 ○幸村はかつて言いました。我が家で軍の評定の折、もし二つの意見があり、どちらに定めるか決めがたいときは、一座の諸士に向かい、この件は大切なことだから、総大将にお伺いしよう、と言い、その二つの案を書きつけ、密かに室に入り、一徳斎(幸隆)の像に香華と灯明を備え、その書を捧げ、わが身は慎んで礼拝し、籤を使って、その籤の次第で二つの案の中を決めるのだ。こうすれば私も迷いがなく、また二つの案を出した人も、大将の贔屓ではないと分かり、諸卒は、当家の祖神の教えだと勇み立つこと限りがない。しかし何事も籤次第ということではない。かねて議論に時を尽くし、なお運を鬼神に伺うところである。すべて、自分を用いず物に任せて行うときは、たとえその事に失敗があっても、その人に責任が帰さない徳がある。時代と人は替わっても、良将の心は、その趣が一つであると信じるべきである。今の禄と名を求める俗儒の知るところではない、と。
解説

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