名将言行録 / 『名将言行録』眞田幸村 引き際と家康の弱音
未の刻まで幸村合戰を持ち居たりしが、夫より繰引に引取りたり、其體肅然として追討んとせば、却て爲めに挫かるべき勢なり、東師の見る者感歎せざるはなかりけり。 ○七日、秀賴出馬せんとて、太閤遺物の旗、馬印を陳列し、櫻門まで出で先手の注進を待たれしが、大野治長は、茶磨山に至り、幸村に逢うて軍略を乞ふ。幸村是上は、秀賴公に早々御出馬を勸めらるべし、御出馬あらば、惣軍の勇氣も百倍すべし、又明石全登を間道より密に寄手の後へ廻はし、家康の本陣を不意に襲はしめば勝利疑ひなしと言ふ。治長此謀を善とし、明石が方へ其旨申送り、明石が寄手の後陣に近づく頃を待て、天王寺口にも戰を合はすべくと、示し合はせ、治長は其計略を秀賴へ告げんが爲めに城に歸れり。此時秀賴の馬印、金の瓢簞出るとて、東軍には夫れこそ秀賴出馬、眞田幸村先手にて切掛ると風聞する程こそあれ、關東の大軍何の分ちもなく崩れ立ち、諸手悉く逃出し、誰追ふともなく總崩となりにける。此時兩將軍の旗本、大崩にて家康も屢々腹を切られんとありたるを、近臣大久保彦左衞門忠敎抔留め申しけり。後々まで家康武邊物語のある時は、忠敎此大崩の時、旣に御腹召されんとあるを、屢々御諫め申して御腹召させず、終に天下の御主と成し奉りしと申しゝとぞ。又或夜話の時、何れも奇妙の御軍慮故早速御利運に成り候と申せば、家康曰く、眞田が嚴しく突掛り候故、旗、馬印を絞り置かせ候へ共、旗本を能く知りて屢々付回はしたり、七日の四つ時分には負けたりと、弱音を出たし候へば、傳長老合戰御勝なり、破軍の巡り能くなりしと言ひ、長老一人いきりたりと言はれしとぞ。
新字:未の刻まで幸村合戦を持ち居たりしが、夫より繰引に引取りたり、其体粛然として追討んとせば、却て為めに挫かるべき勢なり、東師の見る者感嘆せざるはなかりけり。 ○七日、秀頼出馬せんとて、太閤遺物の旗、馬印を陳列し、桜門まで出で先手の注進を待たれしが、大野治長は、茶磨山に至り、幸村に逢うて軍略を乞ふ。幸村是上は、秀頼公に早々御出馬を勧めらるべし、御出馬あらば、惣軍の勇気も百倍すべし、又明石全登を間道より密に寄手の後へ廻はし、家康の本陣を不意に襲はしめば勝利疑ひなしと言ふ。治長此謀を善とし、明石が方へ其旨申送り、明石が寄手の後陣に近づく頃を待て、天王寺口にも戦を合はすべくと、示し合はせ、治長は其計略を秀頼へ告げんが為めに城に帰れり。此時秀頼の馬印、金の瓢箪出るとて、東軍には夫れこそ秀頼出馬、真田幸村先手にて切掛ると風聞する程こそあれ、関東の大軍何の分ちもなく崩れ立ち、諸手悉く逃出し、誰追ふともなく総崩となりにける。此時両将軍の旗本、大崩にて家康も屡々腹を切られんとありたるを、近臣大久保彦左衛門忠教抔留め申しけり。後々まで家康武辺物語のある時は、忠教此大崩の時、既に御腹召されんとあるを、屡々御諫め申して御腹召させず、終に天下の御主と成し奉りしと申しゝとぞ。又或夜話の時、何れも奇妙の御軍慮故早速御利運に成り候と申せば、家康曰く、真田が厳しく突掛り候故、旗、馬印を絞り置かせ候へ共、旗本を能く知りて屡々付回はしたり、七日の四つ時分には負けたりと、弱音を出たし候へば、伝長老合戦御勝なり、破軍の巡り能くなりしと言ひ、長老一人いきりたりと言はれしとぞ。
書き下し
未の刻まで幸村合戰を持ち居たりしが、夫より繰引に引取りたり、其體肅然として追討んとせば、却て爲めに挫かるべき勢なり、東師の見る者感歎せざるはなかりけり。 ○七日、秀賴出馬せんとて、太閤遺物の旗、馬印を陳列し、櫻門まで出で先手の注進を待たれしが、大野治長は、茶磨山に至り、幸村に逢うて軍略を乞ふ。幸村是上は、秀賴公に早々御出馬を勸めらるべし、御出馬あらば、惣軍の勇氣も百倍すべし、又明石全登を間道より密に寄手の後へ廻はし、家康の本陣を不意に襲はしめば勝利疑ひなしと言ふ。治長此謀を善とし、明石が方へ其旨申送り、明石が寄手の後陣に近づく頃を待て、天王寺口にも戰を合はすべくと、示し合はせ、治長は其計略を秀賴へ告げんが爲めに城に歸れり。此時秀賴の馬印、金の瓢簞出るとて、東軍には夫れこそ秀賴出馬、眞田幸村先手にて切掛ると風聞する程こそあれ、關東の大軍何の分ちもなく崩れ立ち、諸手悉く逃出し、誰追ふともなく總崩となりにける。此時兩將軍の旗本、大崩にて家康も屢々腹を切られんとありたるを、近臣大久保彦左衞門忠敎抔留め申しけり。後々まで家康武邊物語のある時は、忠敎此大崩の時、旣に御腹召されんとあるを、屢々御諫め申して御腹召させず、終に天下の御主と成し奉りしと申しゝとぞ。又或夜話の時、何れも奇妙の御軍慮故早速御利運に成り候と申せば、家康曰く、眞田が嚴しく突掛り候故、旗、馬印を絞り置かせ候へ共、旗本を能く知りて屢々付回はしたり、七日の四つ時分には負けたりと、弱音を出たし候へば、傳長老合戰御勝なり、破軍の巡り能くなりしと言ひ、長老一人いきりたりと言はれしとぞ。
現代語訳
未の刻まで幸村は合戦を持ちこたえていましたが、そこから繰り引きに引き取りました。その様子は粛然としており、追い討とうとすれば、かえってそのために挫かれる勢いでした。東軍の見る者は感嘆しない者はありませんでした。 ○七日、秀頼は出馬しようとして、太閤の遺物の旗と馬印を陳列し、桜門まで出て先手の注進を待たれました。大野治長は茶臼山に至り、幸村に会って軍略を乞いました。幸村は、こうなっては、秀頼公に早々にご出馬をお勧めなさい、ご出馬があれば、総軍の勇気も百倍になるでしょう、また明石全登を間道から密かに寄せ手の後ろに回し、家康の本陣を不意に襲わせれば、勝利は疑いありません、と言いました。治長はこの謀を良いとし、明石の方へその旨を申し送り、明石が寄せ手の後陣に近づく頃を待って、天王寺口でも戦いを合わせるようにと示し合わせ、治長はその計略を秀頼に告げるために城に帰りました。この時、秀頼の馬印、金の瓢箪が出ると言って、東軍には、それこそ秀頼が出馬した、真田幸村が先手で切り掛かると風聞が立つや否や、関東の大軍は何の分かちもなく崩れ立ち、諸手がことごとく逃げ出し、誰が追うともなく総崩れとなりました。この時、両将軍の旗本は大崩れとなり、家康も何度も腹を切ろうとされましたのを、近臣の大久保彦左衛門忠教などが留め申しました。後々まで、家康の武辺物語の折には、忠教が、この大崩れの時、すでにお腹を召されようとなさったのを、たびたびお諫め申してお腹を召させず、ついに天下の御主になされたと申したということです。またある夜話の折、皆が、奇妙な御軍慮ゆえ、早速御運が開けました、と申すと、家康は、真田が厳しく突き掛かったので、旗と馬印を絞っておかせたけれども、旗本をよく知って、たびたび付け回ってきた、七日の四つ時分には負けたと弱音を出した、と言われ、傳長老が、合戦はお勝ちです、破軍の巡り合わせが良くなったのです、と言い、長老が一人で意気込んだと言われたということです。
解説

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