名将言行録 / 『名将言行録』眞田幸村 別れを告げる最後の酒宴
○東西和平成りし時、幸村德川忠直の使番原隼人佐貞胤と舊友なれば、貞胤を招請し、種々饗應なり、數獻の後、幸村小皷取出し、亂舞あり、子息大助に曲舞二三番舞させて、其後茶を點じ懇意を盡くして、又書院へ出て、幸村申は、今度討死すべき身なりしが、不慮の御和睦にて、今日までの命を生存らへ二度見參致すこと喜び入たり、幸村身不肖なれども、一方の大將を承はりぬこと、今生の面目死後の思出と存ずるなり、御和睦も一旦のこと、終には又御弓箭に罷成るべくと存ずれば、幸村父子は一兩年の内には討死とこそ思ひ定めたれ、最後の晴、あれ御覽候へ、床に飾り置たる鹿の抱角打たる胄は眞田家に傳へたる物とて、父安房守譲り與へて候へば、是を着て討死仕らん、若し此胄首御覽に於ては、幸村首と思召、一遍の御回向に預ろべく候、君の爲め、義の爲め、討死致すは武士の習なれども、悴大助が是ぞと思ふことに逢はず、一生浪人にて年十五六になるや、均く戰場の苔に埋もれんこと不便に候とて、涙にくれければ、貞胤も涙を流し、哀れ武士程墓なきものは候はず、戰場に赴く身は、誰か前後を定めんや、必ず冥途にて參會仕らんと語りける。其後白河毛なる馬の太く逞しきに、六文錢を、金にて摺りたる白鞍置て引出し、幸村ゆらりと打乘り、五六度乘て靜に乘治めながら、若し重ねて合戰あらば城を破却せられぬれば平場の合戰なるべし、天王寺表へ乘出し、東方の大軍に厮合はせ、此馬の息の續かん程は、戰つて討死せんと存入候へば、一入祕藏に候とて、馬より下りて、又酒宴になる、是は今生の暇乞たるべしとて、又盃を差し、數盃の興を催して、夜中に及び立分れけり。果して翌年彼冑を被り、彼馬に乘て討死しけり。
新字:○東西和平成りし時、幸村徳川忠直の使番原隼人佐貞胤と旧友なれば、貞胤を招請し、種々饗応なり、数献の後、幸村小鼓取出し、乱舞あり、子息大助に曲舞二三番舞させて、其後茶を点じ懇意を尽くして、又書院へ出て、幸村申は、今度討死すべき身なりしが、不慮の御和睦にて、今日までの命を生存らへ二度見参致すこと喜び入たり、幸村身不肖なれども、一方の大将を承はりぬこと、今生の面目死後の思出と存ずるなり、御和睦も一旦のこと、終には又御弓箭に罷成るべくと存ずれば、幸村父子は一両年の内には討死とこそ思ひ定めたれ、最後の晴、あれ御覧候へ、床に飾り置たる鹿の抱角打たる胄は真田家に伝へたる物とて、父安房守譲り与へて候へば、是を着て討死仕らん、若し此胄首御覧に於ては、幸村首と思召、一遍の御回向に預ろべく候、君の為め、義の為め、討死致すは武士の習なれども、悴大助が是ぞと思ふことに逢はず、一生浪人にて年十五六になるや、均く戦場の苔に埋もれんこと不便に候とて、涙にくれければ、貞胤も涙を流し、哀れ武士程墓なきものは候はず、戦場に赴く身は、誰か前後を定めんや、必ず冥途にて参会仕らんと語りける。其後白河毛なる馬の太く逞しきに、六文銭を、金にて摺りたる白鞍置て引出し、幸村ゆらりと打乗り、五六度乗て静に乗治めながら、若し重ねて合戦あらば城を破却せられぬれば平場の合戦なるべし、天王寺表へ乗出し、東方の大軍に厮合はせ、此馬の息の続かん程は、戦つて討死せんと存入候へば、一入秘蔵に候とて、馬より下りて、又酒宴になる、是は今生の暇乞たるべしとて、又盃を差し、数盃の興を催して、夜中に及び立分れけり。果して翌年彼冑を被り、彼馬に乗て討死しけり。
書き下し
○東西和平成りし時、幸村德川忠直の使番原隼人佐貞胤と舊友なれば、貞胤を招請し、種々饗應なり、數獻の後、幸村小皷取出し、亂舞あり、子息大助に曲舞二三番舞させて、其後茶を點じ懇意を盡くして、又書院へ出て、幸村申は、今度討死すべき身なりしが、不慮の御和睦にて、今日までの命を生存らへ二度見參致すこと喜び入たり、幸村身不肖なれども、一方の大將を承はりぬこと、今生の面目死後の思出と存ずるなり、御和睦も一旦のこと、終には又御弓箭に罷成るべくと存ずれば、幸村父子は一兩年の内には討死とこそ思ひ定めたれ、最後の晴、あれ御覽候へ、床に飾り置たる鹿の抱角打たる胄は眞田家に傳へたる物とて、父安房守譲り與へて候へば、是を着て討死仕らん、若し此胄首御覽に於ては、幸村首と思召、一遍の御回向に預ろべく候、君の爲め、義の爲め、討死致すは武士の習なれども、悴大助が是ぞと思ふことに逢はず、一生浪人にて年十五六になるや、均く戰場の苔に埋もれんこと不便に候とて、涙にくれければ、貞胤も涙を流し、哀れ武士程墓なきものは候はず、戰場に赴く身は、誰か前後を定めんや、必ず冥途にて參會仕らんと語りける。其後白河毛なる馬の太く逞しきに、六文錢を、金にて摺りたる白鞍置て引出し、幸村ゆらりと打乘り、五六度乘て靜に乘治めながら、若し重ねて合戰あらば城を破却せられぬれば平場の合戰なるべし、天王寺表へ乘出し、東方の大軍に厮合はせ、此馬の息の續かん程は、戰つて討死せんと存入候へば、一入祕藏に候とて、馬より下りて、又酒宴になる、是は今生の暇乞たるべしとて、又盃を差し、數盃の興を催して、夜中に及び立分れけり。果して翌年彼冑を被り、彼馬に乘て討死しけり。
現代語訳
東西の和平が成ったとき、幸村は徳川忠直の使番、原隼人佐貞胤と旧友でしたので、貞胤を招き、さまざまにもてなしました。数献の酒の後、幸村は小鼓を取り出し、乱舞をして、子の大助にも曲舞を二、三番舞わせ、その後で茶を点て、懇意を尽くし、また書院へ出て、幸村は言いました。今度は討ち死にするはずの身でしたが、思いがけぬ和睦で、今日まで命を長らえ、二度お目にかかれることを喜んでおります。幸村は不肖の身ですが、一方の大将をつとめたことは、今生の面目、死後の思い出と存じております。和睦もいっときのこと、終には再び戦になると存じますので、幸村父子は一、二年の内に討ち死にと思い定めております。最後の晴れ姿として、あれをご覧ください、床に飾ってある鹿の抱き角を打った兜は真田家に伝わるものとして、父の安房守が譲り与えたものですから、これを着けて討ち死にいたします。もしこの兜首をご覧になったら、幸村の首とお思いになり、一遍のご回向にあずかりたく存じます。君のため、義のために討ち死にするのは武士の習いですが、せがれの大助がこれぞと思うことに出会わず、一生浪人のまま十五、六歳になって、同じく戦場の苔に埋もれるのが不憫です、と涙にくれました。貞胤も涙を流し、ああ武士ほどはかないものはない、戦場に赴く身は、誰が前後を定められましょう、必ず冥途でお会いしましょう、と語りました。その後、白河毛の馬の太くたくましいのに、六文銭を金で摺った白鞍を置いて引き出し、幸村はゆらりと乗って、五、六度乗り回して静かに乗り治めながら、もし重ねて合戦があれば、城を取り壊された後は平場の合戦になるでしょう、天王寺表へ乗り出し、東方の大軍に馬を合わせ、この馬の息の続くかぎりは戦って討ち死にしようと存じますので、ひとしお秘蔵にしております、と言って、馬から下りて、また酒宴になりました。これは今生のお別れであろうと、また盃を差し、数盃の興を催して、夜中に及んで別れたということです。はたして翌年、その兜をかぶり、その馬に乗って討ち死にしました。
解説

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