名将言行録 / 『名将言行録』眞田幸村 一国の誘いを断る
然しながら、一旦の約の重きことを存じて較ふれば、信濃一國は申すに及ばず、日本國を半分賜はるとも翻し難し、殊更此軍勝利を得べきにあらず、幸村は初めより討死とこそ覺悟仕たれ、哀れ御和睦にもなれかし、左候はゞ某は叔父上の御扶持を蒙らん、只何つまでも軍のあらんずらん内は、心底を翻さず、秀頼公の御味方仕るなり、最早重ねては、對面仕るまじ、必ず御入來御無用と言ければ、信尹も、此上は力なし、是今上の暇乞なりと言て、落淚して立歸り、此旨を復命しければ、家康偖も〳〵不便の心根ぞや、日本一の勇士なり、父安房守には劣る間敷との稱美ありしとぞ。 これが武道の精華
新字:然しながら、一旦の約の重きことを存じて較ふれば、信濃一国は申すに及ばず、日本国を半分賜はるとも翻し難し、殊更此軍勝利を得べきにあらず、幸村は初めより討死とこそ覚悟仕たれ、哀れ御和睦にもなれかし、左候はゞ某は叔父上の御扶持を蒙らん、只何つまでも軍のあらんずらん内は、心底を翻さず、秀頼公の御味方仕るなり、最早重ねては、対面仕るまじ、必ず御入来御無用と言ければ、信尹も、此上は力なし、是今上の暇乞なりと言て、落涙して立帰り、此旨を復命しければ、家康偖も〳〵不便の心根ぞや、日本一の勇士なり、父安房守には劣る間敷との称美ありしとぞ。 これが武道の精華
書き下し
然しながら、一旦の約の重きことを存じて較ふれば、信濃一國は申すに及ばず、日本國を半分賜はるとも翻し難し、殊更此軍勝利を得べきにあらず、幸村は初めより討死とこそ覺悟仕たれ、哀れ御和睦にもなれかし、左候はゞ某は叔父上の御扶持を蒙らん、只何つまでも軍のあらんずらん内は、心底を翻さず、秀頼公の御味方仕るなり、最早重ねては、對面仕るまじ、必ず御入來御無用と言ければ、信尹も、此上は力なし、是今上の暇乞なりと言て、落淚して立歸り、此旨を復命しければ、家康偖も〳〵不便の心根ぞや、日本一の勇士なり、父安房守には劣る間敷との稱美ありしとぞ。 これが武道の精華
現代語訳
しかしながら、いったん約束した重みを考え比べれば、信濃一国はもちろん、日本国を半分賜るとしても翻すことはできません。ましてこの戦に勝利を得るはずはなく、幸村は初めから討ち死にと覚悟しております。どうか和睦になってほしいものです。そうなれば私は叔父上のご扶持を受けましょう。ただいつまでも、戦のある間は心底を翻さず、秀頼公の御味方をいたします。もはや重ねてお目にかかることもいたしません。必ず今後のお越しは無用です、と言いました。信尹も、この上は仕方がない、これが今生のお別れだ、と言い、涙を流して帰り、この旨を復命したところ、家康は、それにしても不憫な心根よ、日本一の勇士である、父の安房守には劣るまい、と称賛されたということです。 これが武道の精華
解説

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名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 出丸を守り抜く○此役、幸村天王寺口の出丸を守る。前田利常の軍之を攻ること甚だ急なり。士卒勇みて突出んと請へども、幸村制して許さず、門を閉ぢ柱に倚て默然として睡るが如くして居たりしが、前田勢既に乘入らんとするに及びて、幸村大に呼びて、士卒を勵し、敵を鏖にして、武夫の名を爲すば、此の一擧にあるぞとて、弓銃齊しく放て鎗刀共に撃しむ。前田勢死傷千餘に及べり、幸村僅の出丸に在りて、敵を四方に受けながら恐るゝ色なし、是より敵漫に攻めざりしとぞ。眞田隱岐守信尹は、幸村が叔父なり、家康の内意を以て、幸村が方に來り申様は、其方こと軍慮他に越ゆ、其聞え天下に憚りなし、何卒秀頼公を迯り謀り申されなば、信濃國にて三萬石申下して得さすべし、此旨如何にとなりければ、幸村先以て一族の好め忝く存ずるなり、然れども、某事去る慶長五年に御敵と相成り、其後落魄して高野山に登り、一僕の情に依て露命を繋ぎ罷在候、然るを秀頼公より召出され領知とては賜はらざれども、過分の人を預り、持口を請取り、大將の號を許さるゝこと、知行よりも有り難し、然らば、約を變じ御味方にはえこそ參られじと申ければ、信尹、兎角武士は議を以て立てり、約を變ずるは人倫にあらず、然れども、我も斯ることを申て、其方を御方に入るゝは、又我忠なりと言て立歸り、其旨を申ければ、家康去りとては惜しき士、何卒命を助け度く思ふ上の了簡なり、重ねて參り、信濃一國を宛行はん間、味方に參る間敷や尋ね參れとの命を蒙り、信尹再び幸村に對面し、右の通を述べければ、幸村之を承はり、偖々有り難き仰せ哉、我等如き不肖の士に一國を賜はらんとや、生前の面目言語に絶したり。
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『武備和訓』・卷一・義士の志は金石よりも堅い一忠孝の武士に、仁義の勇なきはすくなく、血氣之人にはかならず忠孝の道うすき事あり、柴田勝家の忠臣、免受莊助、中國尼子の忠臣、山中鹿之介、各〻絕世の義士なり、此兩人の輩は、皆陪臣にて官祿ともに賤しけれども、其節操を以、武人大に貴しとせり、又平相國淸盛の如き、其威武といひ榮名といひ、天下に雙ぶ人なかりしかど、彼を以て貴しとはせずして、却て、劇賊のごとくに惡めり、誠に爰を以ておもふべし、其道ある人と、道なき人との境を、一武士の志を以て金石に比るものはつたなし、それ金石は鎚にて碎くべし、義士の志は天下を以も碎くべからず、眞田左衞門尉幸村、秀賴にたのまれ城中にあり、大神君其叔父眞田隱岐守を以召すに、信濃國四十萬石を賜ふべしと也、幸村曰、祿重きにより約束を變ぜば、勇士にあらずとて、竟に不來、是其四十萬石よりも義は重さが故也、されば幸村の心底、忠孝に徹當して不遷、義は天下にも換じとのこゝろ、言中にふくめり、何ぞそれ四十萬石のみにあらんや、(忠孝に徹當するとは今城中に在事、其父安房守昌幸の志を繼ばなり、)
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名将言行録・『名将言行録』眞田幸昌 命を二つ持つ願い幸村も心強くは申けれども、今は落涙に及びつゝ、美じくも言ける、嬉しさよ、去ながら父と一所に討死すること忠義の道に叶はず、長く命を全くするにあらず、今日何卒命を生存らへて、明日にても秀頼公の御自害の砌は潔く腹搔切て、父に追付て再會を期すべし、今日の御和睦御相談の事、其實否知れ難し、去らば其成行を見定めんとて、左衛門程の者が出陣の馬を無下に城へは返されじ、又軍を猶豫し、敵をあしらふ様に見えなば、一鹽味方の士卒區々に成りて、降人に出ん者多かるべし、去るに依て、我は是より引返すこと成り難し、哀れ、世に言ふ人の命二つ持たばやと願ひしは今の我身なり、我こそ命二つ持て、一つは今日討死して武名を揚げ今一つは城内へ返して、今明日の體を見届くること、幸ひ人に勝れたりと、喜ば敷思ふなり、汝が命呉々汝が命にあらず、父が命なれば、父が心に任すべし、早々罷歸りて、秀頼公の先途を見届け奉るべしと、詞を盡して教訓ありければ、稍々に幸昌聞入れて、然らば御暇申て城内に罷歸り申べし、彌々今日御討死と思召定められしやと、又父が顏を守り、見て涙に沈みしを、幸村詞を荒らげ、親子の名殘何つまで惜みたればとて、盡ることのあるべきや、左衞門が子の大助、父と引分れて城中に歸り、秀頼公の御生害の際まで付從たると言ふこと、後代までの譽、餘人の及ぶべきにあらず、早々罷立よとありければ、幸昌、成程仰にてこそ候へ、父上の御命を預りし此身世に大切に候へば、寄手の近付ぬ内に、御暇申さんと、心強く思切て、父が前をば立出、馬に乘るべき體に見えけるが、猶も父が方を見遣りて、彳み居たりしを、幸村近習の者を以て、急ぎ罷越すべきとの催促に付、馬に乘出せしが、幾度ともなく、馬上より父が方を見返り、夫より阪を乘下し、城中へ歸りたり、幸村は幸昌を見送り、落る涙を押へ、昨日槻田にて痛手負しが弱る體の見えざれば、よも最後に人に笑はれじ心安しと言けるとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 籤で決める評定○幸村の首實檢に出し時、家康、左衞門にあやかり候へと言はれて、其頭髮を拔て取らしめしとぞ。幸村戰死せしかども、家臣に一人の降參せし者なし、日頃士を養ふの善ければなりと、人皆感歎せざるはなかりけり。 ○幸村嘗て曰く、我家にて軍評定の時、若し兩議ありて、何れへか定めんと決し難き時は、一座の諸士に向ひ、此儀は大切の事なれば、惣大將に伺ひ奉らんと、右の二議を書付け密に室に入り、一德齋の像に香華燈を備へ、彼書を捧げ、其身謹みて禮拜し、儲圖を以て、其圖次第に兩議の中を極むるなり、是にては我も疑ひなく、又兩議言出す人も大將の依怙ならぬと知り、諸卒は當家祖神の敎なりと勇むこと限りなし、然れども何事も鬮次第と言ふにはあらず、兼ねて詮議に時を盡し、猶運を鬼神に伺ふ所なり、總て我を用ひず物に寄りて行ふ時は、假令其事に越度ありても其人に預らざるの德あり、時代と人の替はりあれども、良將の心は、其趣一なることを信ずべし、當時祿と名を求る俗儒の知る所にあらずと。
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名将言行録・『名将言行録』眞田昌幸 降参勧告への答え○關ケ原の役、德川秀忠木曾より上る時、昌幸方へ使を以て、禍を招かるゝにてこそあれ、降參せられよと申越す。昌幸答に、秀賴公の爲に城を守り候。攻られなば一矢仕らんと言ふ。又使にて石田、小西等、己が權威を恣にせんが爲に斯る企に及べり、豐臣家の恩を蒙りし人々皆反きたるを以て知るべし、猶降參なくば信幸に腹切らせ、其後城を攻破るべしと申越す。昌幸太閤恩深き人の背き候は、是人々心の同じからざる故なり。既に子にて候信幸、父と相違ひたるにて知召さるべし。信幸に腹切らせられんとや。親の子を愛するは誰も同事に候へども、信幸、父と共に城に在らば同枕に討死すべし。信幸を助くべきにあらずと答へしかば、去らば攻よとて陣を寄せられけり。
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名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 別れを告げる最後の酒宴○東西和平成りし時、幸村德川忠直の使番原隼人佐貞胤と舊友なれば、貞胤を招請し、種々饗應なり、數獻の後、幸村小皷取出し、亂舞あり、子息大助に曲舞二三番舞させて、其後茶を點じ懇意を盡くして、又書院へ出て、幸村申は、今度討死すべき身なりしが、不慮の御和睦にて、今日までの命を生存らへ二度見參致すこと喜び入たり、幸村身不肖なれども、一方の大將を承はりぬこと、今生の面目死後の思出と存ずるなり、御和睦も一旦のこと、終には又御弓箭に罷成るべくと存ずれば、幸村父子は一兩年の内には討死とこそ思ひ定めたれ、最後の晴、あれ御覽候へ、床に飾り置たる鹿の抱角打たる胄は眞田家に傳へたる物とて、父安房守譲り與へて候へば、是を着て討死仕らん、若し此胄首御覽に於ては、幸村首と思召、一遍の御回向に預ろべく候、君の爲め、義の爲め、討死致すは武士の習なれども、悴大助が是ぞと思ふことに逢はず、一生浪人にて年十五六になるや、均く戰場の苔に埋もれんこと不便に候とて、涙にくれければ、貞胤も涙を流し、哀れ武士程墓なきものは候はず、戰場に赴く身は、誰か前後を定めんや、必ず冥途にて參會仕らんと語りける。其後白河毛なる馬の太く逞しきに、六文錢を、金にて摺りたる白鞍置て引出し、幸村ゆらりと打乘り、五六度乘て靜に乘治めながら、若し重ねて合戰あらば城を破却せられぬれば平場の合戰なるべし、天王寺表へ乘出し、東方の大軍に厮合はせ、此馬の息の續かん程は、戰つて討死せんと存入候へば、一入祕藏に候とて、馬より下りて、又酒宴になる、是は今生の暇乞たるべしとて、又盃を差し、數盃の興を催して、夜中に及び立分れけり。果して翌年彼冑を被り、彼馬に乘て討死しけり。