名将言行録 / 『名将言行録』眞田幸村 犬伏の兄弟の別れ
安房守昌幸の二子、源五郎と稱す。後左衞門佐と改む。慶長五年高野九度山に蟄居し、好白と號す。元和元年五月七日戰死、年四十九。 ○天正十三年、德川の兵上田城を攻む。幸村時宜を察し、林間より出て横擊す。鳥井元忠等狼狽して走る、幸村追擊し、圖を計り追擊を制し、徐々として兵を返す、時に幸村戲れに小鼓を擊ち、高砂の謠曲を謠て城中に入る、衆皆其豪氣に感ぜり。時に年十九。 ○會津の役、幸村、父昌幸、兄信幸と與に兵を率ゐて下野犬伏まで至る、時に石田三成、兵を大阪に起し、書を昌幸に贈り、上方に與せんことを勸む。昌幸二子を招き、之を告ぐ、信幸は東師に與せんと言て、議論合せず、信幸然らば大人と幸村とは西師に與せらるべし、某は東師に與せん、萬一西師利あらずんば、黨與の人々必ず戮を受ん、其時に至りなば、某死力を出し、父と弟との危難に逼らんを助て、家の亡びざる様にせんと言ふ。幸村曰く、若し利あらずんば父と共に同じく戰場の土とならんに、何にとして助けさせ給ふべき、家康先年兵を出し上田を攻し時、景勝加勢あり、其頃秀吉公和平を取行ひ給ひ、武名を世に揚げしは豊臣家の恩淺しと言ふべからず、唯疾く上方に御同心ありて然るべし、凡そ家の亡ぶべき時、人の死すべき時至らば潔く身を失ひてこそ勇士の本意なるべけれ、何條墨く命生て家の亡びざる様にせんと言ふことや候と、爭ければ、信幸怒て、汝が詞不禮なりとて、既に切て捨べく見えしかば、幸村否々只今爰にて首を刎られんことは許されよ、幸村は豊臣家の爲めに身を失ひ申さん志なりと言へば、昌幸聞て、兄弟の爭、各々其理あり、太閤薨後此事の起れるは必ず秀頼公の爲めにする忠にあらずと、信幸は思へるならん、幸村が言ふ所我と同じければ、我と共に引返すべし、信幸は是より心任にせよとて別れにけり。
新字:安房守昌幸の二子、源五郎と称す。後左衛門佐と改む。慶長五年高野九度山に蟄居し、好白と号す。元和元年五月七日戦死、年四十九。 ○天正十三年、徳川の兵上田城を攻む。幸村時宜を察し、林間より出て横撃す。鳥井元忠等狼狽して走る、幸村追撃し、図を計り追撃を制し、徐々として兵を返す、時に幸村戯れに小鼓を撃ち、高砂の謡曲を謡て城中に入る、衆皆其豪気に感ぜり。時に年十九。 ○会津の役、幸村、父昌幸、兄信幸と与に兵を率ゐて下野犬伏まで至る、時に石田三成、兵を大阪に起し、書を昌幸に贈り、上方に与せんことを勧む。昌幸二子を招き、之を告ぐ、信幸は東師に与せんと言て、議論合せず、信幸然らば大人と幸村とは西師に与せらるべし、某は東師に与せん、万一西師利あらずんば、党与の人々必ず戮を受ん、其時に至りなば、某死力を出し、父と弟との危難に逼らんを助て、家の亡びざる様にせんと言ふ。幸村曰く、若し利あらずんば父と共に同じく戦場の土とならんに、何にとして助けさせ給ふべき、家康先年兵を出し上田を攻し時、景勝加勢あり、其頃秀吉公和平を取行ひ給ひ、武名を世に揚げしは豊臣家の恩浅しと言ふべからず、唯疾く上方に御同心ありて然るべし、凡そ家の亡ぶべき時、人の死すべき時至らば潔く身を失ひてこそ勇士の本意なるべけれ、何条墨く命生て家の亡びざる様にせんと言ふことや候と、争ければ、信幸怒て、汝が詞不礼なりとて、既に切て捨べく見えしかば、幸村否々只今爰にて首を刎られんことは許されよ、幸村は豊臣家の為めに身を失ひ申さん志なりと言へば、昌幸聞て、兄弟の争、各々其理あり、太閤薨後此事の起れるは必ず秀頼公の為めにする忠にあらずと、信幸は思へるならん、幸村が言ふ所我と同じければ、我と共に引返すべし、信幸は是より心任にせよとて別れにけり。
書き下し
安房守昌幸の二子、源五郎と稱す。後左衞門佐と改む。慶長五年高野九度山に蟄居し、好白と號す。元和元年五月七日戰死、年四十九。 ○天正十三年、德川の兵上田城を攻む。幸村時宜を察し、林間より出て横擊す。鳥井元忠等狼狽して走る、幸村追擊し、圖を計り追擊を制し、徐々として兵を返す、時に幸村戲れに小鼓を擊ち、高砂の謠曲を謠て城中に入る、衆皆其豪氣に感ぜり。時に年十九。 ○會津の役、幸村、父昌幸、兄信幸と與に兵を率ゐて下野犬伏まで至る、時に石田三成、兵を大阪に起し、書を昌幸に贈り、上方に與せんことを勸む。昌幸二子を招き、之を告ぐ、信幸は東師に與せんと言て、議論合せず、信幸然らば大人と幸村とは西師に與せらるべし、某は東師に與せん、萬一西師利あらずんば、黨與の人々必ず戮を受ん、其時に至りなば、某死力を出し、父と弟との危難に逼らんを助て、家の亡びざる様にせんと言ふ。幸村曰く、若し利あらずんば父と共に同じく戰場の土とならんに、何にとして助けさせ給ふべき、家康先年兵を出し上田を攻し時、景勝加勢あり、其頃秀吉公和平を取行ひ給ひ、武名を世に揚げしは豊臣家の恩淺しと言ふべからず、唯疾く上方に御同心ありて然るべし、凡そ家の亡ぶべき時、人の死すべき時至らば潔く身を失ひてこそ勇士の本意なるべけれ、何條墨く命生て家の亡びざる様にせんと言ふことや候と、爭ければ、信幸怒て、汝が詞不禮なりとて、既に切て捨べく見えしかば、幸村否々只今爰にて首を刎られんことは許されよ、幸村は豊臣家の爲めに身を失ひ申さん志なりと言へば、昌幸聞て、兄弟の爭、各々其理あり、太閤薨後此事の起れるは必ず秀頼公の爲めにする忠にあらずと、信幸は思へるならん、幸村が言ふ所我と同じければ、我と共に引返すべし、信幸は是より心任にせよとて別れにけり。
現代語訳
安房守昌幸の二男で、源五郎と称しました。のちに左衛門佐と改めました。慶長五年(1600)に高野山の九度山に蟄居し、好白と号しました。元和元年(1615)五月七日に戦死、年四十九でした。 天正十三年、徳川の兵が上田城を攻めました。幸村は時機を見て、林の間から出て横から撃ちました。鳥居元忠らはうろたえて逃げ、幸村は追撃しましたが、頃合いを計って追撃をやめ、ゆっくりと兵を返しました。そのとき幸村は戯れに小鼓を打ち、高砂の謡曲を謡いながら城中に入ったので、皆はその豪気に感心しました。このとき十九歳でした。 会津の役で、幸村は父の昌幸、兄の信幸とともに兵を率いて下野の犬伏まで来ました。そのとき石田三成が大坂で兵を起こし、昌幸に書を贈って、上方に味方することを勧めました。昌幸は二人の子を招き、これを告げました。信幸は東軍に味方すると言い、議論が合いませんでした。信幸は、それならば父上と幸村は西軍にお味方なさい、私は東軍に味方します、万一西軍が利を得なければ、仲間の人々は必ず殺されるでしょう、その時になったなら、私は死力を尽くし、父と弟の危難に迫るのを助けて、家が滅びないようにしましょう、と言いました。幸村は、もし利を得なければ、父と共に戦場の土となるのに、どうして助けてもらえましょう、家康が先年兵を出して上田を攻めた時、景勝が加勢してくださり、そのころ秀吉公が和平を取り計らい、武名を世に揚げたのは、豊臣家の恩が浅いと言うべきではありません、ただ早く上方にご同心なさるのがよろしいでしょう、およそ家が滅びる時、人が死ぬ時が来たら、潔く身を失ってこそ勇士の本意です、どうして厚かましく命を長らえて家が滅びないようにするということがありましょうか、と争ったので、信幸は怒り、お前の言葉は無礼だ、とすでに斬って捨てようとする様子でした。幸村は、いやいや今ここで首を刎ねられることはお許しください、幸村は豊臣家のために身を失う志です、と言うと、昌幸が聞いて、兄弟の争いは、それぞれに理がある、太閤が亡くなってこの事が起こったのは、必ず秀頼公のためにする忠ではないと、信幸は思っているのだろう、幸村の言うところは私と同じなので、私と共に引き返すがよい、信幸はこれから心のままにせよと言って、別れました。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 出丸を守り抜く○此役、幸村天王寺口の出丸を守る。前田利常の軍之を攻ること甚だ急なり。士卒勇みて突出んと請へども、幸村制して許さず、門を閉ぢ柱に倚て默然として睡るが如くして居たりしが、前田勢既に乘入らんとするに及びて、幸村大に呼びて、士卒を勵し、敵を鏖にして、武夫の名を爲すば、此の一擧にあるぞとて、弓銃齊しく放て鎗刀共に撃しむ。前田勢死傷千餘に及べり、幸村僅の出丸に在りて、敵を四方に受けながら恐るゝ色なし、是より敵漫に攻めざりしとぞ。眞田隱岐守信尹は、幸村が叔父なり、家康の内意を以て、幸村が方に來り申様は、其方こと軍慮他に越ゆ、其聞え天下に憚りなし、何卒秀頼公を迯り謀り申されなば、信濃國にて三萬石申下して得さすべし、此旨如何にとなりければ、幸村先以て一族の好め忝く存ずるなり、然れども、某事去る慶長五年に御敵と相成り、其後落魄して高野山に登り、一僕の情に依て露命を繋ぎ罷在候、然るを秀頼公より召出され領知とては賜はらざれども、過分の人を預り、持口を請取り、大將の號を許さるゝこと、知行よりも有り難し、然らば、約を變じ御味方にはえこそ參られじと申ければ、信尹、兎角武士は議を以て立てり、約を變ずるは人倫にあらず、然れども、我も斯ることを申て、其方を御方に入るゝは、又我忠なりと言て立歸り、其旨を申ければ、家康去りとては惜しき士、何卒命を助け度く思ふ上の了簡なり、重ねて參り、信濃一國を宛行はん間、味方に參る間敷や尋ね參れとの命を蒙り、信尹再び幸村に對面し、右の通を述べければ、幸村之を承はり、偖々有り難き仰せ哉、我等如き不肖の士に一國を賜はらんとや、生前の面目言語に絶したり。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 評・三勇士の傑出大阪陣の三勇士は、その士節に於て、いづれも武士道の花だが、しかし將器に於ては、眞田幸村がやはり傑出してゐるし、聲望に於ても、一頭地を拔いてゐた。 祖父の幸隆、父の昌幸二人とも、名譽の武士であり、殊に父の昌幸は、天正十三年に德川勢を、居城上田に迎へて、一泡吹かせてゐるし、關ヶ原の役では秀忠軍を、上田で喰ひ止めて、關ヶ原の戰の間に合はせなかつた。西軍に屬した大名中では、武功第一と云つてもいゝ位だ。 兄の伊豆守信幸は、關ヶ原の時に父弟と別れて、德川方に屬してゐたが、戰敗れたとき、父弟の命乞ひをして、時の人達に義朝には異なる豆州かなと賞められた男である。 とにかく、德川勢と悠に對抗したと云ふ父の聲望をも、受け嗣いでゐるだけに、幸村が大阪へ入城したことは、家康にとつては、氣持のよいニュースではなかつたのである。 大阪陣に於ける眞田の奮戰は、目覺しかつた。冬の陣には、眞田丸を築いて、わづか三千の兵を率ゐて、數萬の寄手を四方に迎へて、ビクともしなかつた。夏の陣には、五月六日道明寺に於て、伊達政宗、松平忠輝の數萬の大軍を迎へ擊つて七八町も追ひ崩してゐる。翌六日は、天王寺表に於て、わづか二千の手兵で、越前少將忠直以下三萬五千の大軍と死戰をしてゐるのである。眞田の勇名が、後世まで傳はるのは、それだけの理由があるのである。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 別れを告げる最後の酒宴○東西和平成りし時、幸村德川忠直の使番原隼人佐貞胤と舊友なれば、貞胤を招請し、種々饗應なり、數獻の後、幸村小皷取出し、亂舞あり、子息大助に曲舞二三番舞させて、其後茶を點じ懇意を盡くして、又書院へ出て、幸村申は、今度討死すべき身なりしが、不慮の御和睦にて、今日までの命を生存らへ二度見參致すこと喜び入たり、幸村身不肖なれども、一方の大將を承はりぬこと、今生の面目死後の思出と存ずるなり、御和睦も一旦のこと、終には又御弓箭に罷成るべくと存ずれば、幸村父子は一兩年の内には討死とこそ思ひ定めたれ、最後の晴、あれ御覽候へ、床に飾り置たる鹿の抱角打たる胄は眞田家に傳へたる物とて、父安房守譲り與へて候へば、是を着て討死仕らん、若し此胄首御覽に於ては、幸村首と思召、一遍の御回向に預ろべく候、君の爲め、義の爲め、討死致すは武士の習なれども、悴大助が是ぞと思ふことに逢はず、一生浪人にて年十五六になるや、均く戰場の苔に埋もれんこと不便に候とて、涙にくれければ、貞胤も涙を流し、哀れ武士程墓なきものは候はず、戰場に赴く身は、誰か前後を定めんや、必ず冥途にて參會仕らんと語りける。其後白河毛なる馬の太く逞しきに、六文錢を、金にて摺りたる白鞍置て引出し、幸村ゆらりと打乘り、五六度乘て靜に乘治めながら、若し重ねて合戰あらば城を破却せられぬれば平場の合戰なるべし、天王寺表へ乘出し、東方の大軍に厮合はせ、此馬の息の續かん程は、戰つて討死せんと存入候へば、一入祕藏に候とて、馬より下りて、又酒宴になる、是は今生の暇乞たるべしとて、又盃を差し、數盃の興を催して、夜中に及び立分れけり。果して翌年彼冑を被り、彼馬に乘て討死しけり。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田昌幸 木綿の柄に隠した名刀○關ヶ原の役終り、昌幸高野の久度山の麓に蟄居す。時に大小の柄に木綿の打糸にて卷きたり。或人之を笑ふ。昌幸曰く、假令上に錦を着たりとも、心頭愚ならば用に立つまじ、夫と同じ此魂を見るべしとて拔き見せしに、兩刀共に相州正宗にてぞありける。世人其木綿の紐を稱して眞田打と云ふ。 ○昌幸蟄し居りしが、其志常に東西の戰起らば、大坂に興力して關東を亡さんと謀る。圍碁を好みて日毎に二男幸村と打ける。是は備立人數配を試むるなり。其後老病重りて死に臨みし時に、歎息し、我に一つの秘計あれども用ひずして死んと言ければ、幸村、後學の爲めに承り度と請ふ。昌幸汝が及ぶ所にあらずと言ふ。幸村身不肖に候へば仰置かれ候ても甲斐なき者と思召候はんこそ、返々恥入候と言ふ。昌幸、汝が愚なりとて我其志を言はざるにあらず、我は老功なれば人に仰がるゝに依て、謀用らる。汝が才智我に勝るとも、軍陣の數を重ねざる故、名顯はれざれば良策なりとも用られず、同輩異論を雜へ、心々にて何事も無益なり。然れども此年頃思ひ設けしことを空くせんも口惜しければ、汝が爲めに語らん、今三年過ぎずして、關東と大坂と合戰に及ぶべし。其時必ず大坂より我を招くべし、召に應じて出るならば、定めて我を以て謀主とせられん。其時兵二萬計を引連て、青野ヶ原の邊に出陣し、關東の軍を支へんこと、汝之を知るやと言ふ。幸村暫らく思案して、要害の地にもあらず、堅固の城を守るにもあらず、隣國の救を頼むにもあらず、二萬計の國々の集り武者を以て、關東の銳騎十倍の大軍を、然かも平原にて防んこと存も寄り候はず最も不審に候と言ふ。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田幸昌 父子の別れの言葉左衞門佐幸村の子、大助と稱す。元和元年五月八日殉死、年十六。 ○大阪夏役五月六日、天王寺口の戰に、幸昌組討して取りたる首を鞍の四方手に付け手負たるが流るゝ血をも拭はず、馳來るを、森豐前守勝永、槇島玄蕃允昭光、兩人幸昌が傍に立寄り、二人共に扇を開き、幸昌を煽ぎ、偖も〳〵と申て大に感じける時、父の幸村も喜悅の體にて笑ひながら、手は浅きかと尋ねければ、幸昌罷て薄手にて候と答へしなり。 明る七日、幸村、秀頼の出馬なく、又和議せられんとするを聞き、出陣先より幸昌を城に返さんとして、近く之を呼び、汝既に左衛門が子たる故、諸將に肩を並べ采幣を取ること身の面目ならずや、父左衛門は今日討死と思ひ定めたるの間、今生の名残に、父を能々見覺えて、更々悲み歎くことあるべからず、此軍彌々味方敗北して、秀頼公御自害あらば、直ぐに其方も腹搔切て死出の御供申べし、必ず命を助からんとて、降人抔に罷出で、父が屍を汚すべからず、若又秀頼公此度の死を遁れ給はゞ、假令何れも自害に及ぶとも、其方は命を全くして下人の一人も生殘りたる者あらば、扶持し、召連て秀頼公を守護し申べし、呉々父が武勇の名を汚すことあるべからず、是れ子たる者の孝行の第一、親の志を繼ぎ重ねるこそ、忠義の詮要、此外にあらず、早々城内へ罷歸れと言ければ、幸昌父が詞を聞く中より落涙袖を絞りけるが、漸々に歎を止め、情なき仰せ哉、討死と思召定められなば、大助にも共に討死仕れとあるべき所に、如何ぞ左は宣ふぞや、秀頼公を見立申すこと、忠義に候はゞ、若年の某よりも、父上こそ其甲斐は御座あるべし、然るに、父上は討死ありて、某に罷歸れとの儀、何にとも心得難し、既に關東勢の中に正しく、伯父伊豆守殿を始め、一族の人々も御座し候へば、父が討死に悴の大助は、何にとて一所にはあらざるぞや、父を捨て腑甲斐なくも出張より城内へ逃げ歸りしと嘲られ申さん、先づ他人よりは、一族親戚への恥辱甚だ防ぎ難し、秀頼公を御見立中人は、御譜第の人々多ければ、大助が罷歸るにも及ばず、又去年母上に別れ奉りし後、父の便に生存らへて相見んは願はしけれども、合戰の場にて必ず父上と同枕に討死せよ、荷も名こそ惜けれと誡め給ひしこともあれば、呉々御免下さるべし、御一所に今日の軍に罷立ち、責て雜兵の二三騎も打留、其後腹搔切て黄泉の御供仕らんと申切て、歸るべき風情とは見えざりけり。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田幸昌 命を二つ持つ願い幸村も心強くは申けれども、今は落涙に及びつゝ、美じくも言ける、嬉しさよ、去ながら父と一所に討死すること忠義の道に叶はず、長く命を全くするにあらず、今日何卒命を生存らへて、明日にても秀頼公の御自害の砌は潔く腹搔切て、父に追付て再會を期すべし、今日の御和睦御相談の事、其實否知れ難し、去らば其成行を見定めんとて、左衛門程の者が出陣の馬を無下に城へは返されじ、又軍を猶豫し、敵をあしらふ様に見えなば、一鹽味方の士卒區々に成りて、降人に出ん者多かるべし、去るに依て、我は是より引返すこと成り難し、哀れ、世に言ふ人の命二つ持たばやと願ひしは今の我身なり、我こそ命二つ持て、一つは今日討死して武名を揚げ今一つは城内へ返して、今明日の體を見届くること、幸ひ人に勝れたりと、喜ば敷思ふなり、汝が命呉々汝が命にあらず、父が命なれば、父が心に任すべし、早々罷歸りて、秀頼公の先途を見届け奉るべしと、詞を盡して教訓ありければ、稍々に幸昌聞入れて、然らば御暇申て城内に罷歸り申べし、彌々今日御討死と思召定められしやと、又父が顏を守り、見て涙に沈みしを、幸村詞を荒らげ、親子の名殘何つまで惜みたればとて、盡ることのあるべきや、左衞門が子の大助、父と引分れて城中に歸り、秀頼公の御生害の際まで付從たると言ふこと、後代までの譽、餘人の及ぶべきにあらず、早々罷立よとありければ、幸昌、成程仰にてこそ候へ、父上の御命を預りし此身世に大切に候へば、寄手の近付ぬ内に、御暇申さんと、心強く思切て、父が前をば立出、馬に乘るべき體に見えけるが、猶も父が方を見遣りて、彳み居たりしを、幸村近習の者を以て、急ぎ罷越すべきとの催促に付、馬に乘出せしが、幾度ともなく、馬上より父が方を見返り、夫より阪を乘下し、城中へ歸りたり、幸村は幸昌を見送り、落る涙を押へ、昨日槻田にて痛手負しが弱る體の見えざれば、よも最後に人に笑はれじ心安しと言けるとぞ。