名将言行録 / 『名将言行録』眞田幸村 碁を打ちながらの読み
○德川秀忠、兵を率ゐ昌幸を上田に攻む、時に家康より上方蜂起したるを以て、上田を捨て、早々關ヶ原へ來るべきとのことなり、秀忠是は如何すべきと尋ぬ。本多刑部左衞門曰く敵の爲めに京都を取られなば、西國は皆敵に屬し申べく、大切の所急に參らざるも成り申間敷と、然れども向たる敵を一攻もせずして引くこと軍の法に之なきこと、此邊燒打に致し、夫を手持に引取り申べくとて、其邊在家に火を掛け、本多刑部と名乘掛〳〵分取燒打を爲したりけり。此時上田の城には昌幸碁を打ち、幸村見物して居たりし處へ、敵三四里近所まで攻寄せ、本多刑部と名乘候て、燒討致し候と早打櫛の歯を引くが如し、昌幸幸村に物見して來れと言ひて、碁を打居たり、幸村早々乘出し、暫らくありて乘返し、敵は引候と申ければ、昌幸引くとな、引く〳〵と言て、終に其碁を止めずに打果せり。家臣ども、幸村へ如何して引くとは御覽成さるゝと尋ねければ、幸村左ればこそ、こは燒打すべき場にあらず、然るに燒打するは引取る手持なりと言けるとぞ。
新字:○徳川秀忠、兵を率ゐ昌幸を上田に攻む、時に家康より上方蜂起したるを以て、上田を捨て、早々関ヶ原へ来るべきとのことなり、秀忠是は如何すべきと尋ぬ。本多刑部左衛門曰く敵の為めに京都を取られなば、西国は皆敵に属し申べく、大切の所急に参らざるも成り申間敷と、然れども向たる敵を一攻もせずして引くこと軍の法に之なきこと、此辺焼打に致し、夫を手持に引取り申べくとて、其辺在家に火を掛け、本多刑部と名乗掛〳〵分取焼打を為したりけり。此時上田の城には昌幸碁を打ち、幸村見物して居たりし処へ、敵三四里近所まで攻寄せ、本多刑部と名乗候て、焼討致し候と早打櫛の歯を引くが如し、昌幸幸村に物見して来れと言ひて、碁を打居たり、幸村早々乗出し、暫らくありて乗返し、敵は引候と申ければ、昌幸引くとな、引く〳〵と言て、終に其碁を止めずに打果せり。家臣ども、幸村へ如何して引くとは御覧成さるゝと尋ねければ、幸村左ればこそ、こは焼打すべき場にあらず、然るに焼打するは引取る手持なりと言けるとぞ。
書き下し
○德川秀忠、兵を率ゐ昌幸を上田に攻む、時に家康より上方蜂起したるを以て、上田を捨て、早々關ヶ原へ來るべきとのことなり、秀忠是は如何すべきと尋ぬ。本多刑部左衞門曰く敵の爲めに京都を取られなば、西國は皆敵に屬し申べく、大切の所急に參らざるも成り申間敷と、然れども向たる敵を一攻もせずして引くこと軍の法に之なきこと、此邊燒打に致し、夫を手持に引取り申べくとて、其邊在家に火を掛け、本多刑部と名乘掛〳〵分取燒打を爲したりけり。此時上田の城には昌幸碁を打ち、幸村見物して居たりし處へ、敵三四里近所まで攻寄せ、本多刑部と名乘候て、燒討致し候と早打櫛の歯を引くが如し、昌幸幸村に物見して來れと言ひて、碁を打居たり、幸村早々乘出し、暫らくありて乘返し、敵は引候と申ければ、昌幸引くとな、引く〳〵と言て、終に其碁を止めずに打果せり。家臣ども、幸村へ如何して引くとは御覽成さるゝと尋ねければ、幸村左ればこそ、こは燒打すべき場にあらず、然るに燒打するは引取る手持なりと言けるとぞ。
現代語訳
徳川秀忠は兵を率いて昌幸を上田に攻めました。そのとき家康から、上方で蜂起があったので、上田を捨てて早々に関ヶ原へ来るようにとの命がありました。秀忠は、これはどうすべきかと尋ねました。本多刑部左衛門は、敵のために京都を取られたならば、西国は皆敵に属すでしょう、大切な所へ急いで参らないわけにもまいりません、しかし向かっている敵を一攻めもせずに引くことは、軍の法にないことです、この辺りを焼き討ちにして、それを引き取る手立てにしましょうと言って、その辺りの民家に火をかけ、本多刑部と名乗りながら分捕りや焼き討ちをしました。このとき上田の城では、昌幸が碁を打ち、幸村が見物していましたところへ、敵が三、四里近くまで攻め寄せ、本多刑部と名乗って焼き討ちをしていると、早打ちの知らせが櫛の歯を引くように相次ぎました。昌幸は幸村に、物見をして来いと言って、碁を打ち続けていました。幸村は早々に馬で出て、しばらくして戻り、敵は引きます、と申しました。昌幸は、引くとな、引くとな、と言って、ついに碁を止めずに打ち終えました。家臣たちが幸村に、どうして引くとお分かりになったのかと尋ねると、幸村は、こう見たのです、ここは焼き討ちをすべき場ではない、それなのに焼き討ちをするのは、引き取るための手立てだからです、と言ったということです。
解説

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名将言行録・『名将言行録』眞田昌幸 碁を止めて放つ馬の計此時に當て敵既に二の丸に近づく比、昌幸令して煙を揚け城外の兵に示し、關の聲を發し、自ら千餘の退兵を率ゐて突戰し、椿山、海野、鴫田口三方より一時に馳出で、時田、高月は奇兵と成て橫擊す。敵兵大に敗れ退んとするに、橫路の柵に遮られ、死する者甚だ多し。本道漸くにして崩れ走りける。時に砥石、矢澤兩城の士及び、小野山の鄕人等煙の發るを見、關の聲の發するを聞き、何れも急に馳來る。敵前後の兵に當らんと備を返す。谷々嶺々の伏兵紙旗を建て鳥銃を發し、橫より擊つ。敵防ぎ支ふること能はず敗績す、昌幸勝に乗りて追擊つこと甚だ急なり。此時討取る所の首三百五十、我兵死する者二十一人、昌幸益々進み擊つ。信幸も砥石の兵も尾擊し、大に之を敗る。城より僅五六町の間、又敵を討取ること三百人なりとぞ。果して家康の言の如し。 ○此役や、昌幸禰津長右衞門と、碁を圍み居たりしが敵城際に著たりと告ければ、昌幸碁を止め、湯漬を食し、兼ねて悍強の馬五十匹に鎗長刀を結付け、武者溜りに繋ぎ置きしを、敵大手の橋際まで押詰めしを待ち、門を開かせ、此馬共を叩き立て、敵中へ追入れ、續て兵士五六百人、鎗先を揃て突掛る。馬はいれて一文字に馳入り、堅橫に敵中を馳廻るに依り、亂れ立ちしをなほ突立られて、流石の德川勢、一溜もせず敗走せり。
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名将言行録・『名将言行録』眞田昌幸 上田城、誘い込みの布陣○昌幸、上田、砥石、矢澤の城々を、德川家に明渡さんと言ふに依り、家康、家人を遣はし請取らしめんとありし時、眞田、信玄の小脇差と言はれし程の古兵にてあれば、彼城々も守備固からん、其上彼が兄長篠にて我勢の爲めに撃たれたれば、此度、弔合戰すべき抔思ひ設けしも知るべからず、彼が如き小身者に、五ケ國をも領する者が打負けなば、如何計りの恥辱ならん、是は保科、蘆田抔に扱はせよと言はれけれども、老臣強て申請ふにより、十三年閏八月二日大久保忠世、平岩親吉、鳥居元忠、柴田康忠等をして、上田を攻めしむ。昌幸之を聞き、砥石城をば嫡子源三郎信幸に、七百の兵を副へて之を守らせ、矢澤の砦をば、矢澤但馬に守らせ、當城上田は、大河二重後に續れば、敵必ず一本木染屋一方より來るべし、然らば二の丸、椿、山口、海野口鴫田口まで弱兵を以て誘引寄せ、三方より突出て追崩し、砥石、矢澤より兵を出し敵の後を斷つべし、且つ城外小野山の陰に鄕民を伏せ、犬聞村にも輕兵三十人計りを置き一同に慕ひ擊たんと、先づ近里の作毛を雍ぎ刈らせ、谷々嶺々に二三千の兵を伏せ、紙旗を持たせ鳥銃を投け、城中に煙を揚け、關の聲起らば速かに發すべしと約を定め、備を爲す。敵は三、遠、駿、甲、信の勇士なれば、我が孤弱なるを侮り、巳の刻染屋より直ぐに攻む。城外曾て一人も見えざれば、敵競ひ進み、總郭の町口に迫る。大手の守將時田出羽、高月備中四百の兵を率ゐて突出で、暫時戰ひ、僞り負けて總郭の中に入る。敵勢に乗て攻入る。町口の橫路に喰違の柵を結び、籬を掛け輕卒を伏せ、是を待ち敵の到るを見て、等く鳥銃を發す。敵創を被る者過半に及ぶ。然れども敢て顧みず、猶進み、總郭に火を放ち、一時に攻破らんとす。康忠之を制し、火を發して進み擊たば城中より突出て味方必ず敗を取らん。猥に進むべからずと、頻りに止む。昌幸は上杉景勝が援兵を本丸に置き、自ら二の丸の正門に在て、時を窺ふ。
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名将言行録・『名将言行録』眞田昌幸 木綿の柄に隠した名刀○關ヶ原の役終り、昌幸高野の久度山の麓に蟄居す。時に大小の柄に木綿の打糸にて卷きたり。或人之を笑ふ。昌幸曰く、假令上に錦を着たりとも、心頭愚ならば用に立つまじ、夫と同じ此魂を見るべしとて拔き見せしに、兩刀共に相州正宗にてぞありける。世人其木綿の紐を稱して眞田打と云ふ。 ○昌幸蟄し居りしが、其志常に東西の戰起らば、大坂に興力して關東を亡さんと謀る。圍碁を好みて日毎に二男幸村と打ける。是は備立人數配を試むるなり。其後老病重りて死に臨みし時に、歎息し、我に一つの秘計あれども用ひずして死んと言ければ、幸村、後學の爲めに承り度と請ふ。昌幸汝が及ぶ所にあらずと言ふ。幸村身不肖に候へば仰置かれ候ても甲斐なき者と思召候はんこそ、返々恥入候と言ふ。昌幸、汝が愚なりとて我其志を言はざるにあらず、我は老功なれば人に仰がるゝに依て、謀用らる。汝が才智我に勝るとも、軍陣の數を重ねざる故、名顯はれざれば良策なりとも用られず、同輩異論を雜へ、心々にて何事も無益なり。然れども此年頃思ひ設けしことを空くせんも口惜しければ、汝が爲めに語らん、今三年過ぎずして、關東と大坂と合戰に及ぶべし。其時必ず大坂より我を招くべし、召に應じて出るならば、定めて我を以て謀主とせられん。其時兵二萬計を引連て、青野ヶ原の邊に出陣し、關東の軍を支へんこと、汝之を知るやと言ふ。幸村暫らく思案して、要害の地にもあらず、堅固の城を守るにもあらず、隣國の救を頼むにもあらず、二萬計の國々の集り武者を以て、關東の銳騎十倍の大軍を、然かも平原にて防んこと存も寄り候はず最も不審に候と言ふ。
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名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 犬伏の兄弟の別れ安房守昌幸の二子、源五郎と稱す。後左衞門佐と改む。慶長五年高野九度山に蟄居し、好白と號す。元和元年五月七日戰死、年四十九。 ○天正十三年、德川の兵上田城を攻む。幸村時宜を察し、林間より出て横擊す。鳥井元忠等狼狽して走る、幸村追擊し、圖を計り追擊を制し、徐々として兵を返す、時に幸村戲れに小鼓を擊ち、高砂の謠曲を謠て城中に入る、衆皆其豪氣に感ぜり。時に年十九。 ○會津の役、幸村、父昌幸、兄信幸と與に兵を率ゐて下野犬伏まで至る、時に石田三成、兵を大阪に起し、書を昌幸に贈り、上方に與せんことを勸む。昌幸二子を招き、之を告ぐ、信幸は東師に與せんと言て、議論合せず、信幸然らば大人と幸村とは西師に與せらるべし、某は東師に與せん、萬一西師利あらずんば、黨與の人々必ず戮を受ん、其時に至りなば、某死力を出し、父と弟との危難に逼らんを助て、家の亡びざる様にせんと言ふ。幸村曰く、若し利あらずんば父と共に同じく戰場の土とならんに、何にとして助けさせ給ふべき、家康先年兵を出し上田を攻し時、景勝加勢あり、其頃秀吉公和平を取行ひ給ひ、武名を世に揚げしは豊臣家の恩淺しと言ふべからず、唯疾く上方に御同心ありて然るべし、凡そ家の亡ぶべき時、人の死すべき時至らば潔く身を失ひてこそ勇士の本意なるべけれ、何條墨く命生て家の亡びざる様にせんと言ふことや候と、爭ければ、信幸怒て、汝が詞不禮なりとて、既に切て捨べく見えしかば、幸村否々只今爰にて首を刎られんことは許されよ、幸村は豊臣家の爲めに身を失ひ申さん志なりと言へば、昌幸聞て、兄弟の爭、各々其理あり、太閤薨後此事の起れるは必ず秀頼公の爲めにする忠にあらずと、信幸は思へるならん、幸村が言ふ所我と同じければ、我と共に引返すべし、信幸は是より心任にせよとて別れにけり。
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名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 冑と槍の号令打立られて敵の備亂る丶所を、鐵砲の烟の下より直ぐに乘込みて馳散らし、馬蹄に蹂躙せられて、敵敗績せずと云ふことなし、此時騎馬の鐵砲先手より一二町も前に進て、連發するに、鉛子の飛ぶは雹の如く、火藥の光は電に似たり、烟は忽ち雲霧と成りて、丈尺の間も見え分かずなれば、岡の上に押上たる幸村の兵士、多く死傷したれども、幸村鐵砲の烟の中より馳來て、爰を怺よ、大事の場を片足も引かば全く歿すべしと下知する聲、耳に徹す。村々なしたる松原を楯となして、鎗の柄を握りながら平伏に成て後に退く者はなし。初め兵を合はせんとする時、幸村令を下して、冑を被らせず、鎗を取らせず、馬の傍に引副て下知せん時を待たせたり。敵間十町計りになりければ、幸村使番を以て冑を被れと命す、玆に於て皆持せたる冑を取て打被り、忍の緒を〆たりければ、勇氣新に加はりて、兵氣彌々盛になる、敵間既に二町計りあらんと思ふ時、幸村又使番を以て鎗を取れと命す。爰に於て手に手鎗を取て鋒先を敵の方に差向けたれば、面面如何なる勁敵堅陣なりとも打摧かんと別に魄を入れたるが如し、ひたひた鐵砲に打斃されながら一足も退かざりしは、冑を被り鎗を取つたる氣勢の壯なるに依てなり。政宗の騎馬鐵砲の士馬を入れんと馳寄せけれども、折敷たりと見て漂ふ所に砲聲も絶々になり、烟も稍々薄くなれば、幸村其隙合をや計りけん、大音を揚げ掛れと言ふ詞の下より、皆起立て直ぐに突て掛り、政宗の先手を七八町追崩す。此勢に乘じ總軍競ひ掛りして追拂ふ、勝成、政宗を勸めて、復た戰はしむ、政宗我軍旣に疲れたり、合戰は今日に限るべからずとて聞かず、勝成小敵を目前に置ながら、忠輝、政宗縮ミ居るは恥にあらずやと、忠輝を諫め立つれども、忠輝果さず、勝成は兵少にして、獨り戰ふこと能はずして已みぬ。