名将言行録 / 『名将言行録』眞田幸村 評・三勇士の傑出
大阪陣の三勇士は、その士節に於て、いづれも武士道の花だが、しかし將器に於ては、眞田幸村がやはり傑出してゐるし、聲望に於ても、一頭地を拔いてゐた。 祖父の幸隆、父の昌幸二人とも、名譽の武士であり、殊に父の昌幸は、天正十三年に德川勢を、居城上田に迎へて、一泡吹かせてゐるし、關ヶ原の役では秀忠軍を、上田で喰ひ止めて、關ヶ原の戰の間に合はせなかつた。西軍に屬した大名中では、武功第一と云つてもいゝ位だ。 兄の伊豆守信幸は、關ヶ原の時に父弟と別れて、德川方に屬してゐたが、戰敗れたとき、父弟の命乞ひをして、時の人達に義朝には異なる豆州かなと賞められた男である。 とにかく、德川勢と悠に對抗したと云ふ父の聲望をも、受け嗣いでゐるだけに、幸村が大阪へ入城したことは、家康にとつては、氣持のよいニュースではなかつたのである。 大阪陣に於ける眞田の奮戰は、目覺しかつた。冬の陣には、眞田丸を築いて、わづか三千の兵を率ゐて、數萬の寄手を四方に迎へて、ビクともしなかつた。夏の陣には、五月六日道明寺に於て、伊達政宗、松平忠輝の數萬の大軍を迎へ擊つて七八町も追ひ崩してゐる。翌六日は、天王寺表に於て、わづか二千の手兵で、越前少將忠直以下三萬五千の大軍と死戰をしてゐるのである。眞田の勇名が、後世まで傳はるのは、それだけの理由があるのである。
新字:大阪陣の三勇士は、その士節に於て、いづれも武士道の花だが、しかし将器に於ては、真田幸村がやはり傑出してゐるし、声望に於ても、一頭地を抜いてゐた。 祖父の幸隆、父の昌幸二人とも、名誉の武士であり、殊に父の昌幸は、天正十三年に徳川勢を、居城上田に迎へて、一泡吹かせてゐるし、関ヶ原の役では秀忠軍を、上田で喰ひ止めて、関ヶ原の戦の間に合はせなかつた。西軍に属した大名中では、武功第一と云つてもいゝ位だ。 兄の伊豆守信幸は、関ヶ原の時に父弟と別れて、徳川方に属してゐたが、戦敗れたとき、父弟の命乞ひをして、時の人達に義朝には異なる豆州かなと賞められた男である。 とにかく、徳川勢と悠に対抗したと云ふ父の声望をも、受け嗣いでゐるだけに、幸村が大阪へ入城したことは、家康にとつては、気持のよいニュースではなかつたのである。 大阪陣に於ける真田の奮戦は、目覚しかつた。冬の陣には、真田丸を築いて、わづか三千の兵を率ゐて、数万の寄手を四方に迎へて、ビクともしなかつた。夏の陣には、五月六日道明寺に於て、伊達政宗、松平忠輝の数万の大軍を迎へ撃つて七八町も追ひ崩してゐる。翌六日は、天王寺表に於て、わづか二千の手兵で、越前少将忠直以下三万五千の大軍と死戦をしてゐるのである。真田の勇名が、後世まで伝はるのは、それだけの理由があるのである。
書き下し
大阪陣の三勇士は、その士節に於て、いづれも武士道の花だが、しかし將器に於ては、眞田幸村がやはり傑出してゐるし、聲望に於ても、一頭地を拔いてゐた。 祖父の幸隆、父の昌幸二人とも、名譽の武士であり、殊に父の昌幸は、天正十三年に德川勢を、居城上田に迎へて、一泡吹かせてゐるし、關ヶ原の役では秀忠軍を、上田で喰ひ止めて、關ヶ原の戰の間に合はせなかつた。西軍に屬した大名中では、武功第一と云つてもいゝ位だ。 兄の伊豆守信幸は、關ヶ原の時に父弟と別れて、德川方に屬してゐたが、戰敗れたとき、父弟の命乞ひをして、時の人達に義朝には異なる豆州かなと賞められた男である。 とにかく、德川勢と悠に對抗したと云ふ父の聲望をも、受け嗣いでゐるだけに、幸村が大阪へ入城したことは、家康にとつては、氣持のよいニュースではなかつたのである。 大阪陣に於ける眞田の奮戰は、目覺しかつた。冬の陣には、眞田丸を築いて、わづか三千の兵を率ゐて、數萬の寄手を四方に迎へて、ビクともしなかつた。夏の陣には、五月六日道明寺に於て、伊達政宗、松平忠輝の數萬の大軍を迎へ擊つて七八町も追ひ崩してゐる。翌六日は、天王寺表に於て、わづか二千の手兵で、越前少將忠直以下三萬五千の大軍と死戰をしてゐるのである。眞田の勇名が、後世まで傳はるのは、それだけの理由があるのである。
現代語訳
大坂の陣の三勇士は、その士節において、いずれも武士道の花ですが、しかし将器においては、真田幸村がやはり傑出していますし、声望においても、一頭地を抜いていました。 祖父の幸隆、父の昌幸の二人とも、名誉の武士であり、ことに父の昌幸は、天正十三年に徳川勢を居城の上田に迎えて、一泡吹かせていますし、関ヶ原の役では秀忠軍を上田で食い止めて、関ヶ原の戦に間に合わせませんでした。西軍に属した大名の中では、武功第一と言ってもいいくらいです。 兄の伊豆守信幸は、関ヶ原の時に父と弟と別れて、徳川方に属していましたが、戦に敗れたとき、父と弟の命乞いをして、時の人たちに、義朝とは異なる豆州かなと褒められた男です。 ともかく、徳川勢と十分に対抗したという父の声望をも受け継いでいるだけに、幸村が大坂へ入城したことは、家康にとっては、気持ちのよいニュースではなかったのです。 大坂の陣における真田の奮戦は目覚ましいものでした。冬の陣には、真田丸を築いて、わずか三千の兵を率い、数万の寄せ手を四方に迎えて、びくともしませんでした。夏の陣には、五月六日の道明寺において、伊達政宗、松平忠輝の数万の大軍を迎え撃って七、八町も追い崩しています。翌日は、天王寺表において、わずか二千の手兵で、越前少将忠直以下三万五千の大軍と死戦をしているのです。真田の勇名が後世まで伝わるのは、それだけの理由があるのです。
解説

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名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 評・親心と後世の讃美最期の時、幸村が子大助を城に返したのは、秀賴の最期を見屆けさせたい氣持もあつたゞらうが、(悴に、一度も人らしい事をさせないで殺すのが殘念だ)と、云つてゐたゞけに、大助を一日でも生き伸させて、もし秀賴が助命でもされる場合は、大助をも一度世に出したいと云ふ親心も、うごいてゐたのではないかと、かう云ふ親心こそ、人間本來の心持で、却つて幸村の人格のゆかしさを思はせるものがある。 關ヶ原の戰は、德川方にとつても、天下分け目であるだけに、戰後も德川方の人々は西軍の主腦部に對しても、憎惡をなしたが、大阪陣は勝つに定まつた戰であり、又德川方としては良心的に邪しいところもあり、德川方に從軍してゐた諸大名も、內心は大阪方の將士に同情してゐたと思はれるが、さうした同情が、戰後大阪方の勇士に對する讃美として現はれたのである。まして、大閤を好きであつた大衆は、大阪方にひゐきしてゐたに違ひないから、さうした同情がみな重成や又兵衞や幸村に對する讃美に變つたのである。 また、大阪陣が戰國時代の最後の戰爭であつただけに、その戰爭の勇士は、長く後世に傳へられたのである。 講談などでは、幸村は、(昔楠木今眞田)と、云はれ善謀善戰盛んに家康を追ひ廻すやうな場面まで飛び出して來るが、講談でなくても島津家の大阪陣の記錄などでも、幸村の評判はものすごいものである。 江戶初期の禪宗の名僧である白隱和尙は、武士の覺悟について 肚の底で一たび死んだ男には 眞田の槍も齒が立たぬなり と、云ふ歌を作つてゐる。 德川全盛の世の中に、眞田の武名がいかに傳へられてゐたかゞ分る。
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名将言行録・『名将言行録』眞田昌幸 評・領地は狭い名将眞田氏は、最初武田氏の部將で、武田亡びて後自立したのである。最初の項に、(法性院の兩眼の如くなる者)と、あるが、法性院とは、信玄自身のことである。 眞田昌幸は、幸村の父である。その領有した土地は狹かつたが戰國時代に於ける名將の一人である。黑田如水などと拮抗する人物ではないかと思はれる。とにかく、一生の內に德川勢に二度泡をふかせてゐるのである。關ヶ原の合戰に、秀忠の大軍を中途で、防ぎ止めたのは、非常な功績で、石田方が勝つてゐたならば、百萬石の大名になつてゐたらう。眞田三代記と云つて、昌幸、幸村、大助を擧げてゐるが、大助は少年にして死んでゐる。むしろ昌幸の父彈正忠幸隆を擧げるべきで、これが信玄の軍師として可なり偉いのである。 眞田は信州の上田から上州の沼田地方を領有してゐた。本文にもあるやうに、勝頼が天目山方面へ行かず、眞田領へは入つてゐたならば、あれほど簡單には滅ぼされなかつたのではないかと思はれる位、昌幸はしつかりしてゐるのである。
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