名将言行録 / 『名将言行録』後藤基次 評・浪人の就職運動
後藤又兵衞は、黑田如水に養はれたので、主君長政と兄弟のやうにして育つた。それだけに、主君に對して素直になれなかつたらしい。その上、長政が剛傑であるだけに、武勇自慢で、常に後藤又兵衞と暗默の中に武勇競爭をやる氣持があつたので、君臣の間がうまく行かなかつたのであらう。 後藤などは、生れながらの境遇で、長政の家臣となつてゐたものゝ、武將としての器量では、長政と同格もしくは、それ以上で、悠に國持大名になれる資格があつたのであらう。 戰國時代の侍大將の中には、その主君以上の人物が、相當ゐたのであらう。 黑田を浪人した後、長政に他家への奉公を構はれたゝめに、十年も浪人してゐたのであらう。 大阪陣は、ある意味では、當時無數に存在した浪人の現狀打開運動、乃至は就職運動でもあつたのである。 結果的に云つても、大阪陣で働いた浪人の一部分は、その働きに依つて、戰後諸大名に抱へられてゐる。 さう云ふ浪人の中に在つて、節義を守つて堂々と討死してゐる後藤などが、後世の賞め者となるのは當然である。相國寺の揚西堂の話は、ウソにしても、これに似た誘惑は相當あつたに違ひないのである。 後藤は、黑田家で三萬石を領してゐた。三萬石と云へば、手兵千人足らずである。一介の侍大將で、後世にあの位、勇兵を轟かすことが出來れば、本人も地下で會心の微笑を浮べてゐることだらう。
新字:後藤又兵衛は、黒田如水に養はれたので、主君長政と兄弟のやうにして育つた。それだけに、主君に対して素直になれなかつたらしい。その上、長政が剛傑であるだけに、武勇自慢で、常に後藤又兵衛と暗黙の中に武勇競争をやる気持があつたので、君臣の間がうまく行かなかつたのであらう。 後藤などは、生れながらの境遇で、長政の家臣となつてゐたものゝ、武将としての器量では、長政と同格もしくは、それ以上で、悠に国持大名になれる資格があつたのであらう。 戦国時代の侍大将の中には、その主君以上の人物が、相当ゐたのであらう。 黒田を浪人した後、長政に他家への奉公を構はれたゝめに、十年も浪人してゐたのであらう。 大阪陣は、ある意味では、当時無数に存在した浪人の現状打開運動、乃至は就職運動でもあつたのである。 結果的に云つても、大阪陣で働いた浪人の一部分は、その働きに依つて、戦後諸大名に抱へられてゐる。 さう云ふ浪人の中に在つて、節義を守つて堂々と討死してゐる後藤などが、後世の賞め者となるのは当然である。相国寺の揚西堂の話は、ウソにしても、これに似た誘惑は相当あつたに違ひないのである。 後藤は、黒田家で三万石を領してゐた。三万石と云へば、手兵千人足らずである。一介の侍大将で、後世にあの位、勇兵を轟かすことが出来れば、本人も地下で会心の微笑を浮べてゐることだらう。
書き下し
後藤又兵衞は、黑田如水に養はれたので、主君長政と兄弟のやうにして育つた。それだけに、主君に對して素直になれなかつたらしい。その上、長政が剛傑であるだけに、武勇自慢で、常に後藤又兵衞と暗默の中に武勇競爭をやる氣持があつたので、君臣の間がうまく行かなかつたのであらう。 後藤などは、生れながらの境遇で、長政の家臣となつてゐたものゝ、武將としての器量では、長政と同格もしくは、それ以上で、悠に國持大名になれる資格があつたのであらう。 戰國時代の侍大將の中には、その主君以上の人物が、相當ゐたのであらう。 黑田を浪人した後、長政に他家への奉公を構はれたゝめに、十年も浪人してゐたのであらう。 大阪陣は、ある意味では、當時無數に存在した浪人の現狀打開運動、乃至は就職運動でもあつたのである。 結果的に云つても、大阪陣で働いた浪人の一部分は、その働きに依つて、戰後諸大名に抱へられてゐる。 さう云ふ浪人の中に在つて、節義を守つて堂々と討死してゐる後藤などが、後世の賞め者となるのは當然である。相國寺の揚西堂の話は、ウソにしても、これに似た誘惑は相當あつたに違ひないのである。 後藤は、黑田家で三萬石を領してゐた。三萬石と云へば、手兵千人足らずである。一介の侍大將で、後世にあの位、勇兵を轟かすことが出來れば、本人も地下で會心の微笑を浮べてゐることだらう。
現代語訳
後藤又兵衛は、黒田如水に養われたので、主君の長政と兄弟のように育ちました。それだけに、主君に対して素直になれなかったようです。そのうえ、長政が剛傑であるだけに、武勇自慢で、いつも後藤又兵衛と暗黙のうちに武勇を競う気持ちがあったので、君臣の間がうまくいかなかったのでしょう。 後藤などは、生まれながらの境遇で長政の家臣になっていたものの、武将としての器量では、長政と同格かそれ以上で、十分に国持大名になれる資格があったのでしょう。 戦国時代の侍大将の中には、その主君以上の人物が、相当いたのでしょう。 黒田を浪人した後、長政に他家への奉公を妨げられたために、十年も浪人していたのでしょう。 大坂の陣は、ある意味では、当時無数に存在した浪人の、現状打開運動、あるいは就職運動でもあったのです。 結果的に言っても、大坂の陣で働いた浪人の一部は、その働きによって、戦後諸大名に召し抱えられています。 そうした浪人の中にあって、節義を守って堂々と討ち死にしている後藤などが、後世の賞賛の的となるのは当然です。相国寺の揚西堂の話は、嘘にしても、これに似た誘惑は相当あったに違いありません。 後藤は、黒田家で三万石を領していました。三万石といえば、手兵は千人足らずです。一介の侍大将で、後世にあの位、勇名を轟かせることができれば、本人も地下で会心の微笑を浮かべていることでしょう。
解説

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