名将言行録 / 『名将言行録』眞田幸昌 命を二つ持つ願い
幸村も心強くは申けれども、今は落涙に及びつゝ、美じくも言ける、嬉しさよ、去ながら父と一所に討死すること忠義の道に叶はず、長く命を全くするにあらず、今日何卒命を生存らへて、明日にても秀頼公の御自害の砌は潔く腹搔切て、父に追付て再會を期すべし、今日の御和睦御相談の事、其實否知れ難し、去らば其成行を見定めんとて、左衛門程の者が出陣の馬を無下に城へは返されじ、又軍を猶豫し、敵をあしらふ様に見えなば、一鹽味方の士卒區々に成りて、降人に出ん者多かるべし、去るに依て、我は是より引返すこと成り難し、哀れ、世に言ふ人の命二つ持たばやと願ひしは今の我身なり、我こそ命二つ持て、一つは今日討死して武名を揚げ今一つは城内へ返して、今明日の體を見届くること、幸ひ人に勝れたりと、喜ば敷思ふなり、汝が命呉々汝が命にあらず、父が命なれば、父が心に任すべし、早々罷歸りて、秀頼公の先途を見届け奉るべしと、詞を盡して教訓ありければ、稍々に幸昌聞入れて、然らば御暇申て城内に罷歸り申べし、彌々今日御討死と思召定められしやと、又父が顏を守り、見て涙に沈みしを、幸村詞を荒らげ、親子の名殘何つまで惜みたればとて、盡ることのあるべきや、左衞門が子の大助、父と引分れて城中に歸り、秀頼公の御生害の際まで付從たると言ふこと、後代までの譽、餘人の及ぶべきにあらず、早々罷立よとありければ、幸昌、成程仰にてこそ候へ、父上の御命を預りし此身世に大切に候へば、寄手の近付ぬ内に、御暇申さんと、心強く思切て、父が前をば立出、馬に乘るべき體に見えけるが、猶も父が方を見遣りて、彳み居たりしを、幸村近習の者を以て、急ぎ罷越すべきとの催促に付、馬に乘出せしが、幾度ともなく、馬上より父が方を見返り、夫より阪を乘下し、城中へ歸りたり、幸村は幸昌を見送り、落る涙を押へ、昨日槻田にて痛手負しが弱る體の見えざれば、よも最後に人に笑はれじ心安しと言けるとぞ。
新字:幸村も心強くは申けれども、今は落涙に及びつゝ、美じくも言ける、嬉しさよ、去ながら父と一所に討死すること忠義の道に叶はず、長く命を全くするにあらず、今日何卒命を生存らへて、明日にても秀頼公の御自害の砌は潔く腹搔切て、父に追付て再会を期すべし、今日の御和睦御相談の事、其実否知れ難し、去らば其成行を見定めんとて、左衛門程の者が出陣の馬を無下に城へは返されじ、又軍を猶予し、敵をあしらふ様に見えなば、一塩味方の士卒区々に成りて、降人に出ん者多かるべし、去るに依て、我は是より引返すこと成り難し、哀れ、世に言ふ人の命二つ持たばやと願ひしは今の我身なり、我こそ命二つ持て、一つは今日討死して武名を揚げ今一つは城内へ返して、今明日の体を見届くること、幸ひ人に勝れたりと、喜ば敷思ふなり、汝が命呉々汝が命にあらず、父が命なれば、父が心に任すべし、早々罷帰りて、秀頼公の先途を見届け奉るべしと、詞を尽して教訓ありければ、稍々に幸昌聞入れて、然らば御暇申て城内に罷帰り申べし、弥々今日御討死と思召定められしやと、又父が顔を守り、見て涙に沈みしを、幸村詞を荒らげ、親子の名残何つまで惜みたればとて、尽ることのあるべきや、左衛門が子の大助、父と引分れて城中に帰り、秀頼公の御生害の際まで付従たると言ふこと、後代までの誉、余人の及ぶべきにあらず、早々罷立よとありければ、幸昌、成程仰にてこそ候へ、父上の御命を預りし此身世に大切に候へば、寄手の近付ぬ内に、御暇申さんと、心強く思切て、父が前をば立出、馬に乗るべき体に見えけるが、猶も父が方を見遣りて、彳み居たりしを、幸村近習の者を以て、急ぎ罷越すべきとの催促に付、馬に乗出せしが、幾度ともなく、馬上より父が方を見返り、夫より阪を乗下し、城中へ帰りたり、幸村は幸昌を見送り、落る涙を押へ、昨日槻田にて痛手負しが弱る体の見えざれば、よも最後に人に笑はれじ心安しと言けるとぞ。
書き下し
幸村も心強くは申けれども、今は落涙に及びつゝ、美じくも言ける、嬉しさよ、去ながら父と一所に討死すること忠義の道に叶はず、長く命を全くするにあらず、今日何卒命を生存らへて、明日にても秀頼公の御自害の砌は潔く腹搔切て、父に追付て再會を期すべし、今日の御和睦御相談の事、其實否知れ難し、去らば其成行を見定めんとて、左衛門程の者が出陣の馬を無下に城へは返されじ、又軍を猶豫し、敵をあしらふ様に見えなば、一鹽味方の士卒區々に成りて、降人に出ん者多かるべし、去るに依て、我は是より引返すこと成り難し、哀れ、世に言ふ人の命二つ持たばやと願ひしは今の我身なり、我こそ命二つ持て、一つは今日討死して武名を揚げ今一つは城内へ返して、今明日の體を見届くること、幸ひ人に勝れたりと、喜ば敷思ふなり、汝が命呉々汝が命にあらず、父が命なれば、父が心に任すべし、早々罷歸りて、秀頼公の先途を見届け奉るべしと、詞を盡して教訓ありければ、稍々に幸昌聞入れて、然らば御暇申て城内に罷歸り申べし、彌々今日御討死と思召定められしやと、又父が顏を守り、見て涙に沈みしを、幸村詞を荒らげ、親子の名殘何つまで惜みたればとて、盡ることのあるべきや、左衞門が子の大助、父と引分れて城中に歸り、秀頼公の御生害の際まで付從たると言ふこと、後代までの譽、餘人の及ぶべきにあらず、早々罷立よとありければ、幸昌、成程仰にてこそ候へ、父上の御命を預りし此身世に大切に候へば、寄手の近付ぬ内に、御暇申さんと、心強く思切て、父が前をば立出、馬に乘るべき體に見えけるが、猶も父が方を見遣りて、彳み居たりしを、幸村近習の者を以て、急ぎ罷越すべきとの催促に付、馬に乘出せしが、幾度ともなく、馬上より父が方を見返り、夫より阪を乘下し、城中へ歸りたり、幸村は幸昌を見送り、落る涙を押へ、昨日槻田にて痛手負しが弱る體の見えざれば、よも最後に人に笑はれじ心安しと言けるとぞ。
現代語訳
幸村も、心強く言ってはいましたが、今は涙を流すに及び、立派なことを言うものよ、嬉しいぞ、とは言いましたが、しかし父と一所に討ち死にするのは忠義の道に叶わず、長く命を全うするものでもない。今日どうにか命を長らえて、明日にも秀頼公のご自害のときは潔く腹を切って、父に追いついて再会を期すべきである。今日の御和睦のご相談のことは、その真偽が分からない。されば、その成り行きを見定めようと思うが、左衛門ほどの者が出陣の馬を無下に城へは返されまい。また軍をためらい、敵をあしらうように見えたなら、味方の士卒はひとしお気持ちがばらばらになって、降人に出る者が多くなるだろう。それゆえ私はここから引き返すことはできない。ああ、世の人が、命を二つ持ちたいと願うのは、今の我が身のことだ。私こそ命を二つ持って、一つは今日討ち死にして武名を揚げ、もう一つは城内へ返して、今明日の様子を見届けさせるのは、幸いにも人に勝ったことと、嬉しく思う。お前の命は決してお前の命ではない、父の命であるから、父の心に任せるがよい。早々に帰り、秀頼公の最期を見届け申せ、と言葉を尽くして教訓をしたので、ようやく幸昌も聞き入れ、それならばお暇申して城内に帰ります。いよいよ今日の御討ち死にと思い定められたのですか、と、また父の顔を見つめて涙に沈んだところ、幸村は言葉を荒らげて、親子の名残は、いつまで惜しんだとて尽きることがあろうか。左衛門の子の大助が、父と別れて城中に帰り、秀頼公の御生害の際まで付き従ったということは、後代までの誉れで、他人の及ぶところではない。早々に出立せよ、と言いました。幸昌は、なるほどお言葉ごもっともです、父上のお命をお預かりしたこの身は世に大切でございますので、寄せ手が近づかないうちに、お暇申し上げます、と心強く思い切って、父の前を立ち出で、馬に乗ろうとする様子でしたが、なお父の方を見やって立ち止まっていたので、幸村は近習の者をもって、急いで罷り越すよう促し、馬に乗り出しましたが、幾度となく馬上から父の方を見返り、それから坂を乗り下り、城中へ帰りました。幸村は幸昌を見送り、落ちる涙を押さえ、昨日、槻田で痛手を負ったが、弱る様子が見えないので、よもや最後に人に笑われることはあるまい、安心だと言ったということです。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』眞田幸昌 大将としての最期の作法○幸昌旣に城中に入り、秀頼に從て蘆田曲輪の櫓に籠れり。偖父のことを尋ねけるに、討死せしと言ふことを聞てより、物も言はず母の形身に賜はりたる水晶の珠數を首に掛けて、秀頼の自害を待居しかば、速見時之、幸昌に向て曰く、組討の武勇逞き振舞して、痛手を負はれしと聞ゆ、如何なりやと尋ね、偖和平にて傾て秀頼公も城を出させ給ふべし、去らば貴殿をも眞田河内守信吉の方へ、人を副て送るべしと言へども、些とも動ぜず、寄手櫓を取卷きし時、時之戸口に立出で、幸昌が有り樣を語り、武勇の血脈恐敷ものなりと言ひしとぞ。 ○幸昌、自害の時側より佩楯を取られよと言ければ、幸昌大將たる者の切腹には、佩楯は取らざるものなり、我も若年ながら左衞門佐が嫡子、一方の大將分なり、佩楯は脱べからずと言て、着ながら切腹せり。聞く人感ぜぬはなかりけり。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田幸昌 父子の別れの言葉左衞門佐幸村の子、大助と稱す。元和元年五月八日殉死、年十六。 ○大阪夏役五月六日、天王寺口の戰に、幸昌組討して取りたる首を鞍の四方手に付け手負たるが流るゝ血をも拭はず、馳來るを、森豐前守勝永、槇島玄蕃允昭光、兩人幸昌が傍に立寄り、二人共に扇を開き、幸昌を煽ぎ、偖も〳〵と申て大に感じける時、父の幸村も喜悅の體にて笑ひながら、手は浅きかと尋ねければ、幸昌罷て薄手にて候と答へしなり。 明る七日、幸村、秀頼の出馬なく、又和議せられんとするを聞き、出陣先より幸昌を城に返さんとして、近く之を呼び、汝既に左衛門が子たる故、諸將に肩を並べ采幣を取ること身の面目ならずや、父左衛門は今日討死と思ひ定めたるの間、今生の名残に、父を能々見覺えて、更々悲み歎くことあるべからず、此軍彌々味方敗北して、秀頼公御自害あらば、直ぐに其方も腹搔切て死出の御供申べし、必ず命を助からんとて、降人抔に罷出で、父が屍を汚すべからず、若又秀頼公此度の死を遁れ給はゞ、假令何れも自害に及ぶとも、其方は命を全くして下人の一人も生殘りたる者あらば、扶持し、召連て秀頼公を守護し申べし、呉々父が武勇の名を汚すことあるべからず、是れ子たる者の孝行の第一、親の志を繼ぎ重ねるこそ、忠義の詮要、此外にあらず、早々城内へ罷歸れと言ければ、幸昌父が詞を聞く中より落涙袖を絞りけるが、漸々に歎を止め、情なき仰せ哉、討死と思召定められなば、大助にも共に討死仕れとあるべき所に、如何ぞ左は宣ふぞや、秀頼公を見立申すこと、忠義に候はゞ、若年の某よりも、父上こそ其甲斐は御座あるべし、然るに、父上は討死ありて、某に罷歸れとの儀、何にとも心得難し、既に關東勢の中に正しく、伯父伊豆守殿を始め、一族の人々も御座し候へば、父が討死に悴の大助は、何にとて一所にはあらざるぞや、父を捨て腑甲斐なくも出張より城内へ逃げ歸りしと嘲られ申さん、先づ他人よりは、一族親戚への恥辱甚だ防ぎ難し、秀頼公を御見立中人は、御譜第の人々多ければ、大助が罷歸るにも及ばず、又去年母上に別れ奉りし後、父の便に生存らへて相見んは願はしけれども、合戰の場にて必ず父上と同枕に討死せよ、荷も名こそ惜けれと誡め給ひしこともあれば、呉々御免下さるべし、御一所に今日の軍に罷立ち、責て雜兵の二三騎も打留、其後腹搔切て黄泉の御供仕らんと申切て、歸るべき風情とは見えざりけり。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 別れを告げる最後の酒宴○東西和平成りし時、幸村德川忠直の使番原隼人佐貞胤と舊友なれば、貞胤を招請し、種々饗應なり、數獻の後、幸村小皷取出し、亂舞あり、子息大助に曲舞二三番舞させて、其後茶を點じ懇意を盡くして、又書院へ出て、幸村申は、今度討死すべき身なりしが、不慮の御和睦にて、今日までの命を生存らへ二度見參致すこと喜び入たり、幸村身不肖なれども、一方の大將を承はりぬこと、今生の面目死後の思出と存ずるなり、御和睦も一旦のこと、終には又御弓箭に罷成るべくと存ずれば、幸村父子は一兩年の内には討死とこそ思ひ定めたれ、最後の晴、あれ御覽候へ、床に飾り置たる鹿の抱角打たる胄は眞田家に傳へたる物とて、父安房守譲り與へて候へば、是を着て討死仕らん、若し此胄首御覽に於ては、幸村首と思召、一遍の御回向に預ろべく候、君の爲め、義の爲め、討死致すは武士の習なれども、悴大助が是ぞと思ふことに逢はず、一生浪人にて年十五六になるや、均く戰場の苔に埋もれんこと不便に候とて、涙にくれければ、貞胤も涙を流し、哀れ武士程墓なきものは候はず、戰場に赴く身は、誰か前後を定めんや、必ず冥途にて參會仕らんと語りける。其後白河毛なる馬の太く逞しきに、六文錢を、金にて摺りたる白鞍置て引出し、幸村ゆらりと打乘り、五六度乘て靜に乘治めながら、若し重ねて合戰あらば城を破却せられぬれば平場の合戰なるべし、天王寺表へ乘出し、東方の大軍に厮合はせ、此馬の息の續かん程は、戰つて討死せんと存入候へば、一入祕藏に候とて、馬より下りて、又酒宴になる、是は今生の暇乞たるべしとて、又盃を差し、數盃の興を催して、夜中に及び立分れけり。果して翌年彼冑を被り、彼馬に乘て討死しけり。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田昌幸 降参勧告への答え○關ケ原の役、德川秀忠木曾より上る時、昌幸方へ使を以て、禍を招かるゝにてこそあれ、降參せられよと申越す。昌幸答に、秀賴公の爲に城を守り候。攻られなば一矢仕らんと言ふ。又使にて石田、小西等、己が權威を恣にせんが爲に斯る企に及べり、豐臣家の恩を蒙りし人々皆反きたるを以て知るべし、猶降參なくば信幸に腹切らせ、其後城を攻破るべしと申越す。昌幸太閤恩深き人の背き候は、是人々心の同じからざる故なり。既に子にて候信幸、父と相違ひたるにて知召さるべし。信幸に腹切らせられんとや。親の子を愛するは誰も同事に候へども、信幸、父と共に城に在らば同枕に討死すべし。信幸を助くべきにあらずと答へしかば、去らば攻よとて陣を寄せられけり。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 一国の誘いを断る然しながら、一旦の約の重きことを存じて較ふれば、信濃一國は申すに及ばず、日本國を半分賜はるとも翻し難し、殊更此軍勝利を得べきにあらず、幸村は初めより討死とこそ覺悟仕たれ、哀れ御和睦にもなれかし、左候はゞ某は叔父上の御扶持を蒙らん、只何つまでも軍のあらんずらん内は、心底を翻さず、秀頼公の御味方仕るなり、最早重ねては、對面仕るまじ、必ず御入來御無用と言ければ、信尹も、此上は力なし、是今上の暇乞なりと言て、落淚して立歸り、此旨を復命しければ、家康偖も〳〵不便の心根ぞや、日本一の勇士なり、父安房守には劣る間敷との稱美ありしとぞ。 これが武道の精華
-
名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 犬伏の兄弟の別れ安房守昌幸の二子、源五郎と稱す。後左衞門佐と改む。慶長五年高野九度山に蟄居し、好白と號す。元和元年五月七日戰死、年四十九。 ○天正十三年、德川の兵上田城を攻む。幸村時宜を察し、林間より出て横擊す。鳥井元忠等狼狽して走る、幸村追擊し、圖を計り追擊を制し、徐々として兵を返す、時に幸村戲れに小鼓を擊ち、高砂の謠曲を謠て城中に入る、衆皆其豪氣に感ぜり。時に年十九。 ○會津の役、幸村、父昌幸、兄信幸と與に兵を率ゐて下野犬伏まで至る、時に石田三成、兵を大阪に起し、書を昌幸に贈り、上方に與せんことを勸む。昌幸二子を招き、之を告ぐ、信幸は東師に與せんと言て、議論合せず、信幸然らば大人と幸村とは西師に與せらるべし、某は東師に與せん、萬一西師利あらずんば、黨與の人々必ず戮を受ん、其時に至りなば、某死力を出し、父と弟との危難に逼らんを助て、家の亡びざる様にせんと言ふ。幸村曰く、若し利あらずんば父と共に同じく戰場の土とならんに、何にとして助けさせ給ふべき、家康先年兵を出し上田を攻し時、景勝加勢あり、其頃秀吉公和平を取行ひ給ひ、武名を世に揚げしは豊臣家の恩淺しと言ふべからず、唯疾く上方に御同心ありて然るべし、凡そ家の亡ぶべき時、人の死すべき時至らば潔く身を失ひてこそ勇士の本意なるべけれ、何條墨く命生て家の亡びざる様にせんと言ふことや候と、爭ければ、信幸怒て、汝が詞不禮なりとて、既に切て捨べく見えしかば、幸村否々只今爰にて首を刎られんことは許されよ、幸村は豊臣家の爲めに身を失ひ申さん志なりと言へば、昌幸聞て、兄弟の爭、各々其理あり、太閤薨後此事の起れるは必ず秀頼公の爲めにする忠にあらずと、信幸は思へるならん、幸村が言ふ所我と同じければ、我と共に引返すべし、信幸は是より心任にせよとて別れにけり。