名将言行録 / 『名将言行録』眞田昌幸 木綿の柄に隠した名刀
○關ヶ原の役終り、昌幸高野の久度山の麓に蟄居す。時に大小の柄に木綿の打糸にて卷きたり。或人之を笑ふ。昌幸曰く、假令上に錦を着たりとも、心頭愚ならば用に立つまじ、夫と同じ此魂を見るべしとて拔き見せしに、兩刀共に相州正宗にてぞありける。世人其木綿の紐を稱して眞田打と云ふ。 ○昌幸蟄し居りしが、其志常に東西の戰起らば、大坂に興力して關東を亡さんと謀る。圍碁を好みて日毎に二男幸村と打ける。是は備立人數配を試むるなり。其後老病重りて死に臨みし時に、歎息し、我に一つの秘計あれども用ひずして死んと言ければ、幸村、後學の爲めに承り度と請ふ。昌幸汝が及ぶ所にあらずと言ふ。幸村身不肖に候へば仰置かれ候ても甲斐なき者と思召候はんこそ、返々恥入候と言ふ。昌幸、汝が愚なりとて我其志を言はざるにあらず、我は老功なれば人に仰がるゝに依て、謀用らる。汝が才智我に勝るとも、軍陣の數を重ねざる故、名顯はれざれば良策なりとも用られず、同輩異論を雜へ、心々にて何事も無益なり。然れども此年頃思ひ設けしことを空くせんも口惜しければ、汝が爲めに語らん、今三年過ぎずして、關東と大坂と合戰に及ぶべし。其時必ず大坂より我を招くべし、召に應じて出るならば、定めて我を以て謀主とせられん。其時兵二萬計を引連て、青野ヶ原の邊に出陣し、關東の軍を支へんこと、汝之を知るやと言ふ。幸村暫らく思案して、要害の地にもあらず、堅固の城を守るにもあらず、隣國の救を頼むにもあらず、二萬計の國々の集り武者を以て、關東の銳騎十倍の大軍を、然かも平原にて防んこと存も寄り候はず最も不審に候と言ふ。
新字:○関ヶ原の役終り、昌幸高野の久度山の麓に蟄居す。時に大小の柄に木綿の打糸にて巻きたり。或人之を笑ふ。昌幸曰く、仮令上に錦を着たりとも、心頭愚ならば用に立つまじ、夫と同じ此魂を見るべしとて抜き見せしに、両刀共に相州正宗にてぞありける。世人其木綿の紐を称して真田打と云ふ。 ○昌幸蟄し居りしが、其志常に東西の戦起らば、大坂に興力して関東を亡さんと謀る。囲碁を好みて日毎に二男幸村と打ける。是は備立人数配を試むるなり。其後老病重りて死に臨みし時に、嘆息し、我に一つの秘計あれども用ひずして死んと言ければ、幸村、後学の為めに承り度と請ふ。昌幸汝が及ぶ所にあらずと言ふ。幸村身不肖に候へば仰置かれ候ても甲斐なき者と思召候はんこそ、返々恥入候と言ふ。昌幸、汝が愚なりとて我其志を言はざるにあらず、我は老功なれば人に仰がるゝに依て、謀用らる。汝が才智我に勝るとも、軍陣の数を重ねざる故、名顕はれざれば良策なりとも用られず、同輩異論を雑へ、心々にて何事も無益なり。然れども此年頃思ひ設けしことを空くせんも口惜しければ、汝が為めに語らん、今三年過ぎずして、関東と大坂と合戦に及ぶべし。其時必ず大坂より我を招くべし、召に応じて出るならば、定めて我を以て謀主とせられん。其時兵二万計を引連て、青野ヶ原の辺に出陣し、関東の軍を支へんこと、汝之を知るやと言ふ。幸村暫らく思案して、要害の地にもあらず、堅固の城を守るにもあらず、隣国の救を頼むにもあらず、二万計の国々の集り武者を以て、関東の鋭騎十倍の大軍を、然かも平原にて防んこと存も寄り候はず最も不審に候と言ふ。
書き下し
○關ヶ原の役終り、昌幸高野の久度山の麓に蟄居す。時に大小の柄に木綿の打糸にて卷きたり。或人之を笑ふ。昌幸曰く、假令上に錦を着たりとも、心頭愚ならば用に立つまじ、夫と同じ此魂を見るべしとて拔き見せしに、兩刀共に相州正宗にてぞありける。世人其木綿の紐を稱して眞田打と云ふ。 ○昌幸蟄し居りしが、其志常に東西の戰起らば、大坂に興力して關東を亡さんと謀る。圍碁を好みて日毎に二男幸村と打ける。是は備立人數配を試むるなり。其後老病重りて死に臨みし時に、歎息し、我に一つの秘計あれども用ひずして死んと言ければ、幸村、後學の爲めに承り度と請ふ。昌幸汝が及ぶ所にあらずと言ふ。幸村身不肖に候へば仰置かれ候ても甲斐なき者と思召候はんこそ、返々恥入候と言ふ。昌幸、汝が愚なりとて我其志を言はざるにあらず、我は老功なれば人に仰がるゝに依て、謀用らる。汝が才智我に勝るとも、軍陣の數を重ねざる故、名顯はれざれば良策なりとも用られず、同輩異論を雜へ、心々にて何事も無益なり。然れども此年頃思ひ設けしことを空くせんも口惜しければ、汝が爲めに語らん、今三年過ぎずして、關東と大坂と合戰に及ぶべし。其時必ず大坂より我を招くべし、召に應じて出るならば、定めて我を以て謀主とせられん。其時兵二萬計を引連て、青野ヶ原の邊に出陣し、關東の軍を支へんこと、汝之を知るやと言ふ。幸村暫らく思案して、要害の地にもあらず、堅固の城を守るにもあらず、隣國の救を頼むにもあらず、二萬計の國々の集り武者を以て、關東の銳騎十倍の大軍を、然かも平原にて防んこと存も寄り候はず最も不審に候と言ふ。
現代語訳
関ヶ原の戦いが終わり、昌幸は高野山の麓の九度山に蟄居しました。そのころ、大小の刀の柄に木綿の打ち糸を巻いていました。ある人がこれを笑いました。昌幸は言いました。「たとえ上に錦を着ていても、心が愚かであれば役には立たない。それと同じで、この魂を見よ」。そう言って抜いて見せたところ、二振りとも相州正宗でした。世の人はその木綿の紐を称して「真田打ち」と呼びました。 昌幸は蟄居していましたが、その志は常に、東西で戦が起これば大坂に力を貸して関東を滅ぼそうと謀ることにありました。囲碁を好み、毎日次男の幸村と打ちました。これは備えの立て方や人数の配分を試していたのです。その後、老病が重くなり死に臨んだとき、嘆息して「私には一つの秘策があるが、用いられずに死ぬのだ」と言いました。幸村が「後学のため、承りたいのです」と願うと、昌幸は「お前の及ぶところではない」と言います。幸村は「不肖の身なので、仰せ置かれても甲斐のない者とお思いなのでしょう。かえすがえす恥じ入ります」と言いました。昌幸は言いました。「お前が愚かだから志を言わないのではない。私は老練なので人に仰がれ、それゆえ謀が用いられる。お前の才智が私に勝っていても、軍陣の数を重ねていないので名が顕れず、良策でも用いられない。同輩が異論を交え、心々になっては何事も無益だ。しかし長年考えてきたことを空しくするのも口惜しいので、お前のために語ろう。あと三年たたないうちに、関東と大坂は合戦に及ぶだろう。そのとき必ず大坂から私を招くはずだ。召しに応じて出れば、きっと私が謀主とされる。そのとき兵二万ほどを引き連れて青野ヶ原のあたりに出陣し、関東の軍を支えるつもりだが、お前はこれをどう思うか」。幸村はしばらく思案して言いました。「要害の地でもなく、堅固な城を守るのでもなく、隣国の救援を頼むのでもなく、二万ほどの諸国から集まった兵で、関東の精鋭十倍の大軍を、しかも平原で防ぐとは、思いもよりません。まことに不審に存じます」。
解説

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