名将言行録 / 『名将言行録』眞田幸昌 父子の別れの言葉
左衞門佐幸村の子、大助と稱す。元和元年五月八日殉死、年十六。 ○大阪夏役五月六日、天王寺口の戰に、幸昌組討して取りたる首を鞍の四方手に付け手負たるが流るゝ血をも拭はず、馳來るを、森豐前守勝永、槇島玄蕃允昭光、兩人幸昌が傍に立寄り、二人共に扇を開き、幸昌を煽ぎ、偖も〳〵と申て大に感じける時、父の幸村も喜悅の體にて笑ひながら、手は浅きかと尋ねければ、幸昌罷て薄手にて候と答へしなり。 明る七日、幸村、秀頼の出馬なく、又和議せられんとするを聞き、出陣先より幸昌を城に返さんとして、近く之を呼び、汝既に左衛門が子たる故、諸將に肩を並べ采幣を取ること身の面目ならずや、父左衛門は今日討死と思ひ定めたるの間、今生の名残に、父を能々見覺えて、更々悲み歎くことあるべからず、此軍彌々味方敗北して、秀頼公御自害あらば、直ぐに其方も腹搔切て死出の御供申べし、必ず命を助からんとて、降人抔に罷出で、父が屍を汚すべからず、若又秀頼公此度の死を遁れ給はゞ、假令何れも自害に及ぶとも、其方は命を全くして下人の一人も生殘りたる者あらば、扶持し、召連て秀頼公を守護し申べし、呉々父が武勇の名を汚すことあるべからず、是れ子たる者の孝行の第一、親の志を繼ぎ重ねるこそ、忠義の詮要、此外にあらず、早々城内へ罷歸れと言ければ、幸昌父が詞を聞く中より落涙袖を絞りけるが、漸々に歎を止め、情なき仰せ哉、討死と思召定められなば、大助にも共に討死仕れとあるべき所に、如何ぞ左は宣ふぞや、秀頼公を見立申すこと、忠義に候はゞ、若年の某よりも、父上こそ其甲斐は御座あるべし、然るに、父上は討死ありて、某に罷歸れとの儀、何にとも心得難し、既に關東勢の中に正しく、伯父伊豆守殿を始め、一族の人々も御座し候へば、父が討死に悴の大助は、何にとて一所にはあらざるぞや、父を捨て腑甲斐なくも出張より城内へ逃げ歸りしと嘲られ申さん、先づ他人よりは、一族親戚への恥辱甚だ防ぎ難し、秀頼公を御見立中人は、御譜第の人々多ければ、大助が罷歸るにも及ばず、又去年母上に別れ奉りし後、父の便に生存らへて相見んは願はしけれども、合戰の場にて必ず父上と同枕に討死せよ、荷も名こそ惜けれと誡め給ひしこともあれば、呉々御免下さるべし、御一所に今日の軍に罷立ち、責て雜兵の二三騎も打留、其後腹搔切て黄泉の御供仕らんと申切て、歸るべき風情とは見えざりけり。
新字:左衛門佐幸村の子、大助と称す。元和元年五月八日殉死、年十六。 ○大阪夏役五月六日、天王寺口の戦に、幸昌組討して取りたる首を鞍の四方手に付け手負たるが流るゝ血をも拭はず、馳来るを、森豊前守勝永、槇島玄蕃允昭光、両人幸昌が傍に立寄り、二人共に扇を開き、幸昌を煽ぎ、偖も〳〵と申て大に感じける時、父の幸村も喜悦の体にて笑ひながら、手は浅きかと尋ねければ、幸昌罷て薄手にて候と答へしなり。 明る七日、幸村、秀頼の出馬なく、又和議せられんとするを聞き、出陣先より幸昌を城に返さんとして、近く之を呼び、汝既に左衛門が子たる故、諸将に肩を並べ采幣を取ること身の面目ならずや、父左衛門は今日討死と思ひ定めたるの間、今生の名残に、父を能々見覚えて、更々悲み嘆くことあるべからず、此軍弥々味方敗北して、秀頼公御自害あらば、直ぐに其方も腹搔切て死出の御供申べし、必ず命を助からんとて、降人抔に罷出で、父が屍を汚すべからず、若又秀頼公此度の死を遁れ給はゞ、仮令何れも自害に及ぶとも、其方は命を全くして下人の一人も生残りたる者あらば、扶持し、召連て秀頼公を守護し申べし、呉々父が武勇の名を汚すことあるべからず、是れ子たる者の孝行の第一、親の志を継ぎ重ねるこそ、忠義の詮要、此外にあらず、早々城内へ罷帰れと言ければ、幸昌父が詞を聞く中より落涙袖を絞りけるが、漸々に嘆を止め、情なき仰せ哉、討死と思召定められなば、大助にも共に討死仕れとあるべき所に、如何ぞ左は宣ふぞや、秀頼公を見立申すこと、忠義に候はゞ、若年の某よりも、父上こそ其甲斐は御座あるべし、然るに、父上は討死ありて、某に罷帰れとの儀、何にとも心得難し、既に関東勢の中に正しく、伯父伊豆守殿を始め、一族の人々も御座し候へば、父が討死に悴の大助は、何にとて一所にはあらざるぞや、父を捨て腑甲斐なくも出張より城内へ逃げ帰りしと嘲られ申さん、先づ他人よりは、一族親戚への恥辱甚だ防ぎ難し、秀頼公を御見立中人は、御譜第の人々多ければ、大助が罷帰るにも及ばず、又去年母上に別れ奉りし後、父の便に生存らへて相見んは願はしけれども、合戦の場にて必ず父上と同枕に討死せよ、荷も名こそ惜けれと誡め給ひしこともあれば、呉々御免下さるべし、御一所に今日の軍に罷立ち、責て雑兵の二三騎も打留、其後腹搔切て黄泉の御供仕らんと申切て、帰るべき風情とは見えざりけり。
書き下し
左衞門佐幸村の子、大助と稱す。元和元年五月八日殉死、年十六。 ○大阪夏役五月六日、天王寺口の戰に、幸昌組討して取りたる首を鞍の四方手に付け手負たるが流るゝ血をも拭はず、馳來るを、森豐前守勝永、槇島玄蕃允昭光、兩人幸昌が傍に立寄り、二人共に扇を開き、幸昌を煽ぎ、偖も〳〵と申て大に感じける時、父の幸村も喜悅の體にて笑ひながら、手は浅きかと尋ねければ、幸昌罷て薄手にて候と答へしなり。 明る七日、幸村、秀頼の出馬なく、又和議せられんとするを聞き、出陣先より幸昌を城に返さんとして、近く之を呼び、汝既に左衛門が子たる故、諸將に肩を並べ采幣を取ること身の面目ならずや、父左衛門は今日討死と思ひ定めたるの間、今生の名残に、父を能々見覺えて、更々悲み歎くことあるべからず、此軍彌々味方敗北して、秀頼公御自害あらば、直ぐに其方も腹搔切て死出の御供申べし、必ず命を助からんとて、降人抔に罷出で、父が屍を汚すべからず、若又秀頼公此度の死を遁れ給はゞ、假令何れも自害に及ぶとも、其方は命を全くして下人の一人も生殘りたる者あらば、扶持し、召連て秀頼公を守護し申べし、呉々父が武勇の名を汚すことあるべからず、是れ子たる者の孝行の第一、親の志を繼ぎ重ねるこそ、忠義の詮要、此外にあらず、早々城内へ罷歸れと言ければ、幸昌父が詞を聞く中より落涙袖を絞りけるが、漸々に歎を止め、情なき仰せ哉、討死と思召定められなば、大助にも共に討死仕れとあるべき所に、如何ぞ左は宣ふぞや、秀頼公を見立申すこと、忠義に候はゞ、若年の某よりも、父上こそ其甲斐は御座あるべし、然るに、父上は討死ありて、某に罷歸れとの儀、何にとも心得難し、既に關東勢の中に正しく、伯父伊豆守殿を始め、一族の人々も御座し候へば、父が討死に悴の大助は、何にとて一所にはあらざるぞや、父を捨て腑甲斐なくも出張より城内へ逃げ歸りしと嘲られ申さん、先づ他人よりは、一族親戚への恥辱甚だ防ぎ難し、秀頼公を御見立中人は、御譜第の人々多ければ、大助が罷歸るにも及ばず、又去年母上に別れ奉りし後、父の便に生存らへて相見んは願はしけれども、合戰の場にて必ず父上と同枕に討死せよ、荷も名こそ惜けれと誡め給ひしこともあれば、呉々御免下さるべし、御一所に今日の軍に罷立ち、責て雜兵の二三騎も打留、其後腹搔切て黄泉の御供仕らんと申切て、歸るべき風情とは見えざりけり。
現代語訳
左衛門佐幸村の子で、大助と称しました。元和元年(1615)五月八日に殉死、年は十六でした。 ○大坂夏の陣の五月六日、天王寺口の戦いで、幸昌は組み討ちして取った首を鞍の四方の手に付け、傷を負って流れる血も拭わずに馳せて来ました。森豊前守勝永と槇島玄蕃允昭光の両人は、幸昌のそばに立ち寄り、二人とも扇を開いて幸昌をあおぎ、いやはやと言って大いに感心した時、父の幸村も喜ぶ様子で笑いながら、傷は浅いかと尋ねたところ、幸昌は、まかり出ましたが薄手でございますと答えました。 翌七日、幸村は、秀頼の出馬がなく、また和議をされようとするのを聞き、出陣する前に幸昌を城に返そうとして、近くに呼び、お前はすでに左衛門の子であるから、諸将と肩を並べて采配を取るのは身の面目ではないか。父左衛門は今日、討ち死にと思い定めているので、今生の名残に、父をよくよく見覚えて、決して悲しみ嘆くことがあってはならない。この戦はいよいよ味方が敗北して、秀頼公がご自害されたならば、すぐにお前も腹を掻き切って、死出の御供を申せ。決して命を助かろうとして降人などに出て、父の屍を汚してはならない。もしまた秀頼公がこのたびの死を逃れられたならば、たとえ皆が自害に及んでも、お前は命を全うして、下人一人でも生き残る者があれば、扶持を与え、召し連れて秀頼公を守護申せ。ゆめゆめ父の武勇の名を汚してはならない。これは子たる者の孝行の第一、親の志を継ぎ重ねることこそ忠義の肝要で、このほかにはない。早々に城内へ帰れ、と言いました。幸昌は、父の言葉を聞くうちから涙が袖を絞るほどでしたが、ようやく嘆きを止め、情けないお言葉です、討ち死にと思い定められたなら、大助にも共に討ち死にせよと仰せになるはずなのに、どうしてそのように言われるのですか。秀頼公を見守ることが忠義ならば、若年の私よりも、父上こそその甲斐がおありでしょう。それなのに、父上は討ち死にされて、私に帰れというのは、どうにも納得できません。すでに関東勢の中には、まさしく伯父の伊豆守殿をはじめ、一族の人々もおられますのに、父が討ち死にして、せがれの大助が、どうして一緒でないのかと、父を捨てて、腑甲斐なくも出張りから城内へ逃げ帰ったと嘲られましょう。まず他人よりも、一族親戚への恥辱がとても防ぎきれません。秀頼公を見守る人は、譜代の人々が多いので、大助が帰るにも及びません。また去年、母上に別れ申し上げた後、父を頼りに生きながらえて相見えることは願わしいのですが、合戦の場で必ず父上と枕を並べて討ち死にせよ、いやしくも名こそ惜しけれと戒められたこともございますので、くれぐれもお許しください。ご一緒に今日の軍に罷り立ち、せめて雑兵の二、三騎も討ち留め、その後に腹を掻き切り、黄泉の御供を致します、と言い切って、帰るべき様子とは見えませんでした。
解説

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