名将言行録 / 『名将言行録』長曾我部盛親 評・浪人たちの出世運動
大阪冬の陣、夏の陣を通じて、諸侯は、一人も大阪の味方をしなかつた。黒田長政に仕へて三萬石の侍大將であつた後藤又兵衞とか、大名の次男である眞田幸村が大將株である。その中には、封錄は奪はれてゐたにしろ、長曾我部盛親は、大名格の一人である。關ヶ原の役に封を失ひ碌々として民間に老いるよりはと、一旗擧げるつもりで加つたのである。大阪陣に加つた浪人は、大小に拘はらず、みんな盛親と同じ考へであつた。大阪陣は、ある意味で關ヶ原以來の十萬に近い浪人達の出世運動であり、窮境打開の活動でもあつたのである。
新字:大阪冬の陣、夏の陣を通じて、諸侯は、一人も大阪の味方をしなかつた。黒田長政に仕へて三万石の侍大将であつた後藤又兵衛とか、大名の次男である真田幸村が大将株である。その中には、封録は奪はれてゐたにしろ、長曽我部盛親は、大名格の一人である。関ヶ原の役に封を失ひ碌々として民間に老いるよりはと、一旗挙げるつもりで加つたのである。大阪陣に加つた浪人は、大小に拘はらず、みんな盛親と同じ考へであつた。大阪陣は、ある意味で関ヶ原以来の十万に近い浪人達の出世運動であり、窮境打開の活動でもあつたのである。
書き下し
大阪冬の陣、夏の陣を通じて、諸侯は、一人も大阪の味方をしなかつた。黒田長政に仕へて三萬石の侍大將であつた後藤又兵衞とか、大名の次男である眞田幸村が大將株である。その中には、封錄は奪はれてゐたにしろ、長曾我部盛親は、大名格の一人である。關ヶ原の役に封を失ひ碌々として民間に老いるよりはと、一旗擧げるつもりで加つたのである。大阪陣に加つた浪人は、大小に拘はらず、みんな盛親と同じ考へであつた。大阪陣は、ある意味で關ヶ原以來の十萬に近い浪人達の出世運動であり、窮境打開の活動でもあつたのである。
現代語訳
大阪冬の陣、夏の陣を通じて、諸侯は、一人も大阪の味方をしませんでした。黒田長政に仕えて三万石の侍大将であった後藤又兵衛とか、大名の次男である真田幸村が大将株です。その中には、封禄は奪われていたにしても、長曽我部盛親は、大名格の一人です。関ヶ原の役に封を失い、碌々として民間に老いるよりは、と、一旗挙げるつもりで加わったのです。大阪の陣に加わった浪人は、大小にかかわらず、みんな盛親と同じ考えでした。大阪の陣は、ある意味で、関ヶ原以来の十万に近い浪人たちの出世運動であり、窮境打開の活動でもあったのです。
解説

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名将言行録・『名将言行録』後藤基次 評・浪人の就職運動後藤又兵衞は、黑田如水に養はれたので、主君長政と兄弟のやうにして育つた。それだけに、主君に對して素直になれなかつたらしい。その上、長政が剛傑であるだけに、武勇自慢で、常に後藤又兵衞と暗默の中に武勇競爭をやる氣持があつたので、君臣の間がうまく行かなかつたのであらう。 後藤などは、生れながらの境遇で、長政の家臣となつてゐたものゝ、武將としての器量では、長政と同格もしくは、それ以上で、悠に國持大名になれる資格があつたのであらう。 戰國時代の侍大將の中には、その主君以上の人物が、相當ゐたのであらう。 黑田を浪人した後、長政に他家への奉公を構はれたゝめに、十年も浪人してゐたのであらう。 大阪陣は、ある意味では、當時無數に存在した浪人の現狀打開運動、乃至は就職運動でもあつたのである。 結果的に云つても、大阪陣で働いた浪人の一部分は、その働きに依つて、戰後諸大名に抱へられてゐる。 さう云ふ浪人の中に在つて、節義を守つて堂々と討死してゐる後藤などが、後世の賞め者となるのは當然である。相國寺の揚西堂の話は、ウソにしても、これに似た誘惑は相當あつたに違ひないのである。 後藤は、黑田家で三萬石を領してゐた。三萬石と云へば、手兵千人足らずである。一介の侍大將で、後世にあの位、勇兵を轟かすことが出來れば、本人も地下で會心の微笑を浮べてゐることだらう。
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名将言行録・『名将言行録』長曾我部盛親 浪人から大阪入城土佐守元親の子、封を襲ひ、正五位に敍し、侍從兼宮内少輔に任す。慶長五年封を失ひ、薙髮して祐夢と號す。元和元年五月十五日死。 ○盛親、天資顯悟、秀吉の寵を得たり。關ヶ原の役、敗れて後封を失ひ、京師に潛居す。慶長の末年、秀頼兵を募る。板倉勝重、盛親が大阪に屬せんことを恐れ、屢盛親を諫む。家康も盛親を招かれんとて、勝重に命ぜらる。勝重、貴殿の爲めに罪を謝し、舊封を得させんと言ふ。時に盛親、大野治長に志を通ずると聞えければ、其友人に命じ、盛親が宅を守衛せしむ。盛僞り、浅野但馬守長晟と舊約あり、今變じ難し、依て紀伊へ行き、其隊に屬し、功を勵み、小錄たりとも受くべしと言ひ、友人を欺き、紀伊へ行くこと疑ひなきの一通の書を勝重に贈らせ、秀頼の招に應ず。盛親の京師に在るや、小家を相國寺門前竹林の中に造り、村童に手跡を敎へ居たり。一朝甲冑を帶し、一人にて立出でしかば、近里の者大に驚きたり。然るに今出川邊にては、二三百人になり、伏見邊にては千騎計りになりて、大阪に赴きしとなり。是は盛親兼ねてより大佛、伏見、東寺、竹田、宇治、長池、玉水邊に舊臣を馬夫船頭等種々様々に拵置き、少々づゝ扶持を遣はし置きたる者共なりとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 評・親心と後世の讃美最期の時、幸村が子大助を城に返したのは、秀賴の最期を見屆けさせたい氣持もあつたゞらうが、(悴に、一度も人らしい事をさせないで殺すのが殘念だ)と、云つてゐたゞけに、大助を一日でも生き伸させて、もし秀賴が助命でもされる場合は、大助をも一度世に出したいと云ふ親心も、うごいてゐたのではないかと、かう云ふ親心こそ、人間本來の心持で、却つて幸村の人格のゆかしさを思はせるものがある。 關ヶ原の戰は、德川方にとつても、天下分け目であるだけに、戰後も德川方の人々は西軍の主腦部に對しても、憎惡をなしたが、大阪陣は勝つに定まつた戰であり、又德川方としては良心的に邪しいところもあり、德川方に從軍してゐた諸大名も、內心は大阪方の將士に同情してゐたと思はれるが、さうした同情が、戰後大阪方の勇士に對する讃美として現はれたのである。まして、大閤を好きであつた大衆は、大阪方にひゐきしてゐたに違ひないから、さうした同情がみな重成や又兵衞や幸村に對する讃美に變つたのである。 また、大阪陣が戰國時代の最後の戰爭であつただけに、その戰爭の勇士は、長く後世に傳へられたのである。 講談などでは、幸村は、(昔楠木今眞田)と、云はれ善謀善戰盛んに家康を追ひ廻すやうな場面まで飛び出して來るが、講談でなくても島津家の大阪陣の記錄などでも、幸村の評判はものすごいものである。 江戶初期の禪宗の名僧である白隱和尙は、武士の覺悟について 肚の底で一たび死んだ男には 眞田の槍も齒が立たぬなり と、云ふ歌を作つてゐる。 德川全盛の世の中に、眞田の武名がいかに傳へられてゐたかゞ分る。
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名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 評・三勇士の傑出大阪陣の三勇士は、その士節に於て、いづれも武士道の花だが、しかし將器に於ては、眞田幸村がやはり傑出してゐるし、聲望に於ても、一頭地を拔いてゐた。 祖父の幸隆、父の昌幸二人とも、名譽の武士であり、殊に父の昌幸は、天正十三年に德川勢を、居城上田に迎へて、一泡吹かせてゐるし、關ヶ原の役では秀忠軍を、上田で喰ひ止めて、關ヶ原の戰の間に合はせなかつた。西軍に屬した大名中では、武功第一と云つてもいゝ位だ。 兄の伊豆守信幸は、關ヶ原の時に父弟と別れて、德川方に屬してゐたが、戰敗れたとき、父弟の命乞ひをして、時の人達に義朝には異なる豆州かなと賞められた男である。 とにかく、德川勢と悠に對抗したと云ふ父の聲望をも、受け嗣いでゐるだけに、幸村が大阪へ入城したことは、家康にとつては、氣持のよいニュースではなかつたのである。 大阪陣に於ける眞田の奮戰は、目覺しかつた。冬の陣には、眞田丸を築いて、わづか三千の兵を率ゐて、數萬の寄手を四方に迎へて、ビクともしなかつた。夏の陣には、五月六日道明寺に於て、伊達政宗、松平忠輝の數萬の大軍を迎へ擊つて七八町も追ひ崩してゐる。翌六日は、天王寺表に於て、わづか二千の手兵で、越前少將忠直以下三萬五千の大軍と死戰をしてゐるのである。眞田の勇名が、後世まで傳はるのは、それだけの理由があるのである。
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名将言行録・『名将言行録』長曾我部盛親 捕らわれても恥じず○大阪城陷りしかば、盛親、葭蘆の中に潛まり隱れ居たりしが、終に蜂須賀が手に生捕れたり。盛親に縄二筋付けて白州に引き居ゑたり。秀忠側の士を以て數千の大將たる身、自害をすべきことゝなるに、左はなかりしは如何ぞと尋ねらる。盛親わるびれたる色もなく、朝の軍に打勝ちたれども、後の軍に、赤備の軍兵に打合はせて、味方餘多討死し、敗北せしこと、是非なき次第に候と言ふ。又討死するか、自害するか二つの志なかりしこと、返す〳〵も不審なりと再び尋ねられしかば、盛親承はり、盛親も一方の大將たる身に候へば、葉武者と同じく輕々敷討死すべきに候はずと言ひ、再び兵を起して恥を雪ぐべき心、言外に顯はれたりとぞ。 ○盛親、警固の士に謂て曰く、我藤堂高虎の家士に贈り度物あり、其故は矢尾合戰の時、高虎の家臣に藤堂仁右衛門、同勘解由、同新七、桑名彌次兵衛等鎗を合はせ、何れも戰死せり。中にも勘解由只一人に成り、勇を奮て戰死せり。其勢拔群なることにてありし故に、其冑を取り家臣に持たせたり。之を勘解由の子孫に贈て戰死の時の形勢を願くは知らせ度思ふなりとありければ、警固の士大に感じ、其冑を勘解由が子に送りけり。
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