名将言行録 / 『名将言行録』後藤基次 大坂入城と辞した賜物
○慶長の末年、秀賴兵を募る。基次募に應じ、大阪に入る、時に從者九人、馬一匹なり。秀賴より三千人扶持を賜はり、二の丸目付總軍都督となれども、持參の金子僅十兩許にて肯て祿を請けず、日夜軍務に出精せり。之に依り淀婦人より小袖一重、綿直垂、夜着、蒲團一具を賜はり、寒氣を凌ぐべしと言越さる。基次錦の直垂は大將の裝束故に之を衣ざるも無禮なれば拜受すべし、余は國元より門人等が餞別、又自身も僅の旅金もあれば、今に於て事足れり、軍中には餘計に物を蓄ること無益なり、又妻子もなければ與ふる者もなし、又某が召使者には未だ褒美を與ふべき者あらず、又何の勳功もなく、空しく賞を受る理なし、若し所用あらば、重ねて願ふべしと申ければ、誠に靑砥左衞門藤綱以來の俊傑と、人皆感心せり。使者復命に、基次が居所を見るに、朝夕の膳も輕卒と同座して食し、此寒中に屛風もなく、雪風に身を晒し、其貧苦見るに忍びずと申ければ、秀賴の夫人、不自由なき樣に早く取揃て遣はすべしとのことにて、牢禮彦三郎、瀧波彌八郎、當用を見計らひ、使者に目錄を渡す。
新字:○慶長の末年、秀頼兵を募る。基次募に応じ、大阪に入る、時に従者九人、馬一匹なり。秀頼より三千人扶持を賜はり、二の丸目付総軍都督となれども、持参の金子僅十両許にて肯て禄を請けず、日夜軍務に出精せり。之に依り淀婦人より小袖一重、綿直垂、夜着、蒲団一具を賜はり、寒気を凌ぐべしと言越さる。基次錦の直垂は大将の装束故に之を衣ざるも無礼なれば拝受すべし、余は国元より門人等が餞別、又自身も僅の旅金もあれば、今に於て事足れり、軍中には余計に物を蓄ること無益なり、又妻子もなければ与ふる者もなし、又某が召使者には未だ褒美を与ふべき者あらず、又何の勲功もなく、空しく賞を受る理なし、若し所用あらば、重ねて願ふべしと申ければ、誠に青砥左衛門藤綱以来の俊傑と、人皆感心せり。使者復命に、基次が居所を見るに、朝夕の膳も軽卒と同座して食し、此寒中に屛風もなく、雪風に身を晒し、其貧苦見るに忍びずと申ければ、秀頼の夫人、不自由なき様に早く取揃て遣はすべしとのことにて、牢礼彦三郎、滝波弥八郎、当用を見計らひ、使者に目録を渡す。
書き下し
○慶長の末年、秀賴兵を募る。基次募に應じ、大阪に入る、時に從者九人、馬一匹なり。秀賴より三千人扶持を賜はり、二の丸目付總軍都督となれども、持參の金子僅十兩許にて肯て祿を請けず、日夜軍務に出精せり。之に依り淀婦人より小袖一重、綿直垂、夜着、蒲團一具を賜はり、寒氣を凌ぐべしと言越さる。基次錦の直垂は大將の裝束故に之を衣ざるも無禮なれば拜受すべし、余は國元より門人等が餞別、又自身も僅の旅金もあれば、今に於て事足れり、軍中には餘計に物を蓄ること無益なり、又妻子もなければ與ふる者もなし、又某が召使者には未だ褒美を與ふべき者あらず、又何の勳功もなく、空しく賞を受る理なし、若し所用あらば、重ねて願ふべしと申ければ、誠に靑砥左衞門藤綱以來の俊傑と、人皆感心せり。使者復命に、基次が居所を見るに、朝夕の膳も輕卒と同座して食し、此寒中に屛風もなく、雪風に身を晒し、其貧苦見るに忍びずと申ければ、秀賴の夫人、不自由なき樣に早く取揃て遣はすべしとのことにて、牢禮彦三郎、瀧波彌八郎、當用を見計らひ、使者に目錄を渡す。
現代語訳
慶長の末年、秀頼が兵を募りました。基次はこれに応じて大坂に入りました。このとき従者は九人、馬は一匹でした。秀頼から三千人扶持を賜り、二の丸目付、総軍都督となりましたが、持参した金子はわずか十両ばかりで、決して禄を受けず、日夜、軍務に精励しました。これによって淀の方から小袖一重、綿直垂、夜着、布団一具を賜り、寒さをしのぐようにと言ってよこされました。基次は、錦の直垂は大将の装束だから着ないのも無礼であり、拝受いたしましょう、そのほかは、国元から門人たちの餞別があり、自分にもわずかな旅の金があるので、今のところ事は足りています、軍中ではよけいに物を蓄えても無益です、また妻子もなく与える人もありません、また私の召使いの者には、まだ褒美を与えるべき者がいません、また何の勲功もないのに、むなしく賞を受ける理由もありません、もし必要なものがありましたら、改めて願います、と申しました。そこで、まことに青砥左衛門藤綱以来の俊傑だと、人々は皆感心しました。使者が帰って報告するには、基次の居所を見ますと、朝夕の膳も下級の兵士と同座して食べ、この寒中に屏風もなく、雪風に身をさらし、その貧苦は見るに忍びないほどです、ということでした。秀頼の夫人は、不自由のないよう早く取りそろえて遣わすようにとのことで、牢人の礼彦三郎、滝波弥八郎が必要な品を見計らい、使者に目録を渡しました。
解説

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