名将言行録 / 『名将言行録』後藤基次 刺客を前に動じず
○基次、播磨にて三浦主水の家に在り、一日數人と碁を圍む、暴雨疾雷基次の側に落つ、衆悶絶叫逃す。基次刀を拔き雷を斫りければ、刀刄鎔折す、左れども基次意氣自若たり、衆皆感歎せり。 ○基次京師に居たりしを、長政聞て討て來れとて、大剛の者二人忍ばせ遣はす、此者在京して狙ひける。或時基次上下を着し、僕一人を召連れ來るを、彼二人木戶際に待掛け居たるを、基次見付けて立止り、兩人は我等を打ちに來ると見えたり、討候へと言ひて靜に通りしに、兩人中中討つこの能はず、唯惘然として居たりけり。遙に行過ぎたる跡にて、兩人あきれて誠に武の冥加に盡きたる所なり、此上は兩人差違ひで死んと言ふに、一人が曰く、尤もなることなれども、今雯にて死なば、此譯を知る人なくして犬死ならん、一と先づ國に歸て此首尾委細に申述、其後切腹するとも、又は御仕置になるとも御下知次第にならんことこそ本意なれと言ふ。いざとて國に歸り、斯くと申ければ、長政聞て、是我過なり、兩人中々又兵衞を討べき者にあらず、覺悟して歸りしこと感賞に堪えたりと言て、百石づゝの加祿を與へたり。 ○基次、黑田家を去りしより、漂遊十餘年、孥を人に託し置き、孤にて刀甲を覆ひ、食を乞ひ伊勢に赴く時、藤堂高刑に明星の茶店にて遇ひ、從ひ安濃津に往く、一萬石に祿するを請うて成らず、孤物を負て去る。是時猶金百兩を甲に藏し、以て備と爲せり。
新字:○基次、播磨にて三浦主水の家に在り、一日数人と碁を囲む、暴雨疾雷基次の側に落つ、衆悶絶叫逃す。基次刀を抜き雷を斫りければ、刀刄鎔折す、左れども基次意気自若たり、衆皆感嘆せり。 ○基次京師に居たりしを、長政聞て討て来れとて、大剛の者二人忍ばせ遣はす、此者在京して狙ひける。或時基次上下を着し、僕一人を召連れ来るを、彼二人木戸際に待掛け居たるを、基次見付けて立止り、両人は我等を打ちに来ると見えたり、討候へと言ひて静に通りしに、両人中中討つこの能はず、唯惘然として居たりけり。遥に行過ぎたる跡にて、両人あきれて誠に武の冥加に尽きたる所なり、此上は両人差違ひで死んと言ふに、一人が曰く、尤もなることなれども、今雯にて死なば、此訳を知る人なくして犬死ならん、一と先づ国に帰て此首尾委細に申述、其後切腹するとも、又は御仕置になるとも御下知次第にならんことこそ本意なれと言ふ。いざとて国に帰り、斯くと申ければ、長政聞て、是我過なり、両人中々又兵衛を討べき者にあらず、覚悟して帰りしこと感賞に堪えたりと言て、百石づゝの加禄を与へたり。 ○基次、黒田家を去りしより、漂遊十余年、孥を人に託し置き、孤にて刀甲を覆ひ、食を乞ひ伊勢に赴く時、藤堂高刑に明星の茶店にて遇ひ、従ひ安濃津に往く、一万石に禄するを請うて成らず、孤物を負て去る。是時猶金百両を甲に蔵し、以て備と為せり。
書き下し
○基次、播磨にて三浦主水の家に在り、一日數人と碁を圍む、暴雨疾雷基次の側に落つ、衆悶絶叫逃す。基次刀を拔き雷を斫りければ、刀刄鎔折す、左れども基次意氣自若たり、衆皆感歎せり。 ○基次京師に居たりしを、長政聞て討て來れとて、大剛の者二人忍ばせ遣はす、此者在京して狙ひける。或時基次上下を着し、僕一人を召連れ來るを、彼二人木戶際に待掛け居たるを、基次見付けて立止り、兩人は我等を打ちに來ると見えたり、討候へと言ひて靜に通りしに、兩人中中討つこの能はず、唯惘然として居たりけり。遙に行過ぎたる跡にて、兩人あきれて誠に武の冥加に盡きたる所なり、此上は兩人差違ひで死んと言ふに、一人が曰く、尤もなることなれども、今雯にて死なば、此譯を知る人なくして犬死ならん、一と先づ國に歸て此首尾委細に申述、其後切腹するとも、又は御仕置になるとも御下知次第にならんことこそ本意なれと言ふ。いざとて國に歸り、斯くと申ければ、長政聞て、是我過なり、兩人中々又兵衞を討べき者にあらず、覺悟して歸りしこと感賞に堪えたりと言て、百石づゝの加祿を與へたり。 ○基次、黑田家を去りしより、漂遊十餘年、孥を人に託し置き、孤にて刀甲を覆ひ、食を乞ひ伊勢に赴く時、藤堂高刑に明星の茶店にて遇ひ、從ひ安濃津に往く、一萬石に祿するを請うて成らず、孤物を負て去る。是時猶金百兩を甲に藏し、以て備と爲せり。
現代語訳
基次が播磨で三浦主水の家にいたとき、ある日数人と碁を囲んでいました。そこへ暴雨とはげしい雷が基次のそばに落ちました。皆は悶絶して叫び逃げましたが、基次は刀を抜いて雷を斬りつけたところ、刀の刃が溶け折れました。それでも基次は意気自若として動じず、皆が感嘆しました。 基次が京都にいたのを、長政が聞いて、討って来いと、大剛の者二人を忍ばせて遣わしました。この者たちは京に滞在して狙っていました。あるとき基次が裃を着て、僕一人を連れて来るのを、あの二人が木戸際に待ち構えているのを基次が見つけて立ち止まり、お二人は我らを討ちに来たと見える、討ちなされと言って、静かに通りました。二人はどうしても討つことができず、ただ呆然としていました。はるかに行き過ぎたあとで、二人はあきれ、誠に武士の冥加が尽きたところだ、この上は二人刺し違えて死のうと言いました。一人が、もっともだが、今ここで死ねば、この訳を知る人がなく犬死にになる、ひとまず国に帰ってこの首尾を詳しく申し述べ、その後で切腹するにせよ、お仕置きになるにせよ、ご指示のままになるのが本意だと言いました。そこで国に帰り、そのように申し上げると、長政は聞いて、これは我が過ちだ、二人は到底又兵衛を討てる者ではない、覚悟して帰ったことは感賞にたえないと言って、百石ずつの加禄を与えました。 基次が黒田家を去ってから漂泊すること十余年、妻子を人に預け、一人で刀と甲を覆い、食を乞いながら伊勢に赴く時、藤堂高刑に明星の茶店で会い、ついて安濃津に行きました。一万石の禄を願ったのですが叶わず、一人荷物を背負って去りました。このとき、なお金百両を甲に隠して備えとしていました。
解説

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