名将言行録 / 『名将言行録』後藤基次 恩に報いる死に方
○此役、基次平野に陣す。家康及び、秀忠より相國寺揚西堂を使にて、平野へ遣はし、今度味方致し候はゞ播磨の國を賜はるべきとのことなり、基次承はり忝き次第身に餘りし間、御請申度こと山々なり、但し東方御手弱ならば兎も角もなれども、東方は朝日の出る如きの御勢、大阪は落城十日二十日に過ぐべからず、此節に臨みて心替はり致さんこと、武士の本意にあらず、其上去年より大阪の扶持を得て、別心は罷成らざる間、此段は御免し賜はるべしとて承引せず、少時して、是は御返事にては之なし、御使僧まで申達するなり、日本士多しと雖も、我等に勝れる者之なし、其仔細は、去年より賴まれ奉りたる御主は、誰かと存ずれば、唐まで御手を延されたる豐國大明神の御子秀賴公なり、又今度御味方致しなば、大國賜はるべくと仰下されしは、神の位に等しき駿河江戶の兩御所なり、去りながら右にも申す通、御馴染なれば秀賴公の御手を引申べきなり、但し兩御所の忝き御意は水には致さず、其御恩報には戰始まりなば、一日も早く討死致すべし、其譯は基次存命ならば、一日にも落べき大阪十日掛り申べく、又我等討死致しなば、十日掛る大阪も一日に落申べし、之を恩報に致すべくと言ひしかば、聞く者涙に咽びたり。果して戰始まると基次討死す、爰を以て兩將軍にも殊の外感稱せられたり。後秀忠、黑田長政を召し後藤又兵衞は忠節者なれば、子供を免し候へとのことなり、長政畏り、假令又兵衞罷在るとも免し申べきに、死後を申し、如何にも御請申上たる由答申たり。嫡子、隱岐守は、大阪役後切腹、次男又市は細川忠興に仕へ、末子は三浦次兵衞と名乘り、松平光伸に仕ふと云ふ。
新字:○此役、基次平野に陣す。家康及び、秀忠より相国寺揚西堂を使にて、平野へ遣はし、今度味方致し候はゞ播磨の国を賜はるべきとのことなり、基次承はり忝き次第身に余りし間、御請申度こと山々なり、但し東方御手弱ならば兎も角もなれども、東方は朝日の出る如きの御勢、大阪は落城十日二十日に過ぐべからず、此節に臨みて心替はり致さんこと、武士の本意にあらず、其上去年より大阪の扶持を得て、別心は罷成らざる間、此段は御免し賜はるべしとて承引せず、少時して、是は御返事にては之なし、御使僧まで申達するなり、日本士多しと雖も、我等に勝れる者之なし、其仔細は、去年より頼まれ奉りたる御主は、誰かと存ずれば、唐まで御手を延されたる豊国大明神の御子秀頼公なり、又今度御味方致しなば、大国賜はるべくと仰下されしは、神の位に等しき駿河江戸の両御所なり、去りながら右にも申す通、御馴染なれば秀頼公の御手を引申べきなり、但し両御所の忝き御意は水には致さず、其御恩報には戦始まりなば、一日も早く討死致すべし、其訳は基次存命ならば、一日にも落べき大阪十日掛り申べく、又我等討死致しなば、十日掛る大阪も一日に落申べし、之を恩報に致すべくと言ひしかば、聞く者涙に咽びたり。果して戦始まると基次討死す、爰を以て両将軍にも殊の外感称せられたり。後秀忠、黒田長政を召し後藤又兵衛は忠節者なれば、子供を免し候へとのことなり、長政畏り、仮令又兵衛罷在るとも免し申べきに、死後を申し、如何にも御請申上たる由答申たり。嫡子、隠岐守は、大阪役後切腹、次男又市は細川忠興に仕へ、末子は三浦次兵衛と名乗り、松平光伸に仕ふと云ふ。
書き下し
○此役、基次平野に陣す。家康及び、秀忠より相國寺揚西堂を使にて、平野へ遣はし、今度味方致し候はゞ播磨の國を賜はるべきとのことなり、基次承はり忝き次第身に餘りし間、御請申度こと山々なり、但し東方御手弱ならば兎も角もなれども、東方は朝日の出る如きの御勢、大阪は落城十日二十日に過ぐべからず、此節に臨みて心替はり致さんこと、武士の本意にあらず、其上去年より大阪の扶持を得て、別心は罷成らざる間、此段は御免し賜はるべしとて承引せず、少時して、是は御返事にては之なし、御使僧まで申達するなり、日本士多しと雖も、我等に勝れる者之なし、其仔細は、去年より賴まれ奉りたる御主は、誰かと存ずれば、唐まで御手を延されたる豐國大明神の御子秀賴公なり、又今度御味方致しなば、大國賜はるべくと仰下されしは、神の位に等しき駿河江戶の兩御所なり、去りながら右にも申す通、御馴染なれば秀賴公の御手を引申べきなり、但し兩御所の忝き御意は水には致さず、其御恩報には戰始まりなば、一日も早く討死致すべし、其譯は基次存命ならば、一日にも落べき大阪十日掛り申べく、又我等討死致しなば、十日掛る大阪も一日に落申べし、之を恩報に致すべくと言ひしかば、聞く者涙に咽びたり。果して戰始まると基次討死す、爰を以て兩將軍にも殊の外感稱せられたり。後秀忠、黑田長政を召し後藤又兵衞は忠節者なれば、子供を免し候へとのことなり、長政畏り、假令又兵衞罷在るとも免し申べきに、死後を申し、如何にも御請申上たる由答申たり。嫡子、隱岐守は、大阪役後切腹、次男又市は細川忠興に仕へ、末子は三浦次兵衞と名乘り、松平光伸に仕ふと云ふ。
現代語訳
この戦で、基次は平野に陣を取りました。家康と秀忠から、相国寺の揚西堂を使いにして平野へ遣わし、このたび味方すれば播磨の国を賜るとのことでした。基次は承り、かたじけない次第で身に余ることで、お請けしたいことは山々です、ただし東方がお手弱ならばともかく、東方は朝日の出るような勢いで、大坂は落城まで十日か二十日を過ぎないでしょう、この時に臨んで心変わりすることは、武士の本意ではありません、そのうえ去年から大坂の扶持を得ており、別心はできませんので、この件はお許しください、と言って承知しませんでした。しばらくして、これは返事ではなく、御使僧に申し述べるのです、と前置きし、日本に士は多くいますが、我々に勝る者はいません、そのわけは、去年から頼まれた主君は、誰かと申せば、唐までお手を延ばされた豊国大明神の御子、秀頼公です。また今度味方すれば大国を賜るとおっしゃったのは、神の位に等しい駿河と江戸の両御所です。しかしながら先に申すとおり、ご縁があるので秀頼公のお手を引くのです。ただし両御所のかたじけない御意は無にしません。その御恩に報いるため、戦が始まれば一日も早く討ち死にします。そのわけは、基次が生きていれば、一日で落ちるはずの大坂が十日かかり、また我らが討ち死にすれば、十日かかる大坂も一日で落ちましょう。これを恩に報いることとします、と言ったので、聞く者は涙にむせびました。はたして戦が始まると基次は討ち死にしました。この点で、両将軍にもことのほか称賛されました。後に秀忠が黒田長政を召して、後藤又兵衛は忠節の者だから、子どもを許してやれとのことでしたが、長政は畏まり、たとえ又兵衛が生きていても許すべきところ、死後のことを仰せになるとは、いかにもお請けいたします、と答えました。嫡子の隠岐守は大坂の役の後に切腹し、次男の又市は細川忠興に仕え、末子は三浦次兵衛と名乗り松平光伸に仕えたと言います。
解説

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名将言行録・『名将言行録』後藤基次 家老が推した名代○長政、一日老臣を集め、一朝事ある時我に代はりて人數を扱ふべき者は誰ならんと問ふ。菅和泉守政利曰く、御家武邊にて御成立故、御家人誰にても一器量ある輩なり、去れども御名代となり、大なる武邊を致すべき者は、後藤又兵衞にて候、尤も畜類にてはありけれども、朝鮮にて猛虎御陣へ入り來り、御厩の馬共を噛殺しけれども、一人も出合はざる間、某罷出切掛りけれども、中々猛り難儀の所に又兵衞驅出で切留め申たり、箇樣の時も諸人に秀でし間、兎角究まる所の武邊は、又兵衞にて之あるべきかと存ずるなりと申ければ、長政は基次を憎み居たりし時なれば、不興して座を立てり。 ○關ヶ原の役、基次、長政に向ひ、敵に島津と曰ふ老功の武者之あれば、必ず夜討すべし、御用心然るべくと申す。長政尤もと思ひ家康に告ぐ。家康曰く、夜討は有間敷ぞ、氣遣なせそとて、如何にも緩々として居られたり。長政歸て右の上意心得ず、御運の末にやと氣遣ひけれども、夜討なし。是は前方夜討させ間敷爲めに、藤堂高虎に袖切と曰ふ計策をさせられしとぞ。 ○此役、長政靑墓に陣す。時に敵兵二萬餘伊勢路より出、金屋師原に至る。細川忠興、福島正則、藤堂高虎等皆誰が兵なるやと問ふ。基次跪きて曰く、是は毛利の軍なりと、諸將皆曰く、旗の紋分明ならず、又兵衞の眼犬眼通を得たるやとて、各々歸營す。翌日斥候を出だし之を見せしむるに、果して毛利の兵なり、人皆基次の眼識に服せり。
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名将言行録・『名将言行録』後藤基次 評・浪人の就職運動後藤又兵衞は、黑田如水に養はれたので、主君長政と兄弟のやうにして育つた。それだけに、主君に對して素直になれなかつたらしい。その上、長政が剛傑であるだけに、武勇自慢で、常に後藤又兵衞と暗默の中に武勇競爭をやる氣持があつたので、君臣の間がうまく行かなかつたのであらう。 後藤などは、生れながらの境遇で、長政の家臣となつてゐたものゝ、武將としての器量では、長政と同格もしくは、それ以上で、悠に國持大名になれる資格があつたのであらう。 戰國時代の侍大將の中には、その主君以上の人物が、相當ゐたのであらう。 黑田を浪人した後、長政に他家への奉公を構はれたゝめに、十年も浪人してゐたのであらう。 大阪陣は、ある意味では、當時無數に存在した浪人の現狀打開運動、乃至は就職運動でもあつたのである。 結果的に云つても、大阪陣で働いた浪人の一部分は、その働きに依つて、戰後諸大名に抱へられてゐる。 さう云ふ浪人の中に在つて、節義を守つて堂々と討死してゐる後藤などが、後世の賞め者となるのは當然である。相國寺の揚西堂の話は、ウソにしても、これに似た誘惑は相當あつたに違ひないのである。 後藤は、黑田家で三萬石を領してゐた。三萬石と云へば、手兵千人足らずである。一介の侍大將で、後世にあの位、勇兵を轟かすことが出來れば、本人も地下で會心の微笑を浮べてゐることだらう。