名将言行録 / 『名将言行録』後藤基次 籠城策と疑う目
○大阪夏役、四月二十六日、城中軍議の時、天王寺表にて一戰せんと一決せし時、基次曰く、大軍にて野合の軍せんに、駿河の老公と相茶を取り候はんもの、凡そ日本には有間敷候、某が所存には、國府越、暗がり峠、新庄、龍田越等の險岨に要害を構へ、山道に敵を遮りて、一手二手切崩さんには、大軍と曰ふとも仄徑に行掛り、詮方なく、奈良か郡山邊へ後陣より敗走すべし、其後は大軍再び寄せ來らんに、五七日も手間取るべければ、味方又何程も防戰の手段候べしと。秀賴聞て、尤もなり、何事も後藤次第とて、基次に大和口の先手を命ぜられけり。 ○渡邊糺と、大野治長同座の處へ、基次參り面白きことを承はりたり。大住與左衞門は東へ內通のあるとなり、治長否々與左衞門に限り、其氣遣皆て之なく、あれは太閤の魚洗にてありしを、實なる者とて御取立成されて、秀賴公へ御機嫌能く物をあがらせよとて、御付成され候、今度籠城以後も方々餘多の倉の鑰を與左衞門一人が手前に取置き、晝夜を限らず御用を辨じ見廻り候、あの心入にては、中々二心有間敷者なりと言ふ。基次鈍なる者よりも、其樣なる者が結局氣遣に候と言ふ。案の如く敵外より火矢を射たる時、內より火を付けたるは與左衞門が所業なり。
新字:○大阪夏役、四月二十六日、城中軍議の時、天王寺表にて一戦せんと一決せし時、基次曰く、大軍にて野合の軍せんに、駿河の老公と相茶を取り候はんもの、凡そ日本には有間敷候、某が所存には、国府越、暗がり峠、新庄、竜田越等の険岨に要害を構へ、山道に敵を遮りて、一手二手切崩さんには、大軍と曰ふとも仄径に行掛り、詮方なく、奈良か郡山辺へ後陣より敗走すべし、其後は大軍再び寄せ来らんに、五七日も手間取るべければ、味方又何程も防戦の手段候べしと。秀頼聞て、尤もなり、何事も後藤次第とて、基次に大和口の先手を命ぜられけり。 ○渡辺糺と、大野治長同座の処へ、基次参り面白きことを承はりたり。大住与左衛門は東へ内通のあるとなり、治長否々与左衛門に限り、其気遣皆て之なく、あれは太閤の魚洗にてありしを、実なる者とて御取立成されて、秀頼公へ御機嫌能く物をあがらせよとて、御付成され候、今度籠城以後も方々余多の倉の鑰を与左衛門一人が手前に取置き、昼夜を限らず御用を弁じ見廻り候、あの心入にては、中々二心有間敷者なりと言ふ。基次鈍なる者よりも、其様なる者が結局気遣に候と言ふ。案の如く敵外より火矢を射たる時、内より火を付けたるは与左衛門が所業なり。
書き下し
○大阪夏役、四月二十六日、城中軍議の時、天王寺表にて一戰せんと一決せし時、基次曰く、大軍にて野合の軍せんに、駿河の老公と相茶を取り候はんもの、凡そ日本には有間敷候、某が所存には、國府越、暗がり峠、新庄、龍田越等の險岨に要害を構へ、山道に敵を遮りて、一手二手切崩さんには、大軍と曰ふとも仄徑に行掛り、詮方なく、奈良か郡山邊へ後陣より敗走すべし、其後は大軍再び寄せ來らんに、五七日も手間取るべければ、味方又何程も防戰の手段候べしと。秀賴聞て、尤もなり、何事も後藤次第とて、基次に大和口の先手を命ぜられけり。 ○渡邊糺と、大野治長同座の處へ、基次參り面白きことを承はりたり。大住與左衞門は東へ內通のあるとなり、治長否々與左衞門に限り、其氣遣皆て之なく、あれは太閤の魚洗にてありしを、實なる者とて御取立成されて、秀賴公へ御機嫌能く物をあがらせよとて、御付成され候、今度籠城以後も方々餘多の倉の鑰を與左衞門一人が手前に取置き、晝夜を限らず御用を辨じ見廻り候、あの心入にては、中々二心有間敷者なりと言ふ。基次鈍なる者よりも、其樣なる者が結局氣遣に候と言ふ。案の如く敵外より火矢を射たる時、內より火を付けたるは與左衞門が所業なり。
現代語訳
大坂夏の陣で、四月二十六日、城中の軍議の時、天王寺表で一戦しようと一決した折に、基次が言いました。大軍で野戦をして、駿河の老公(家康)と相手になれるような者は、おおよそ日本にはおりますまい。私の考えでは、国府越、暗がり峠、新庄、竜田越などの険しい所に要害を構え、山道に敵をさえぎって、一手二手を切り崩せば、大軍と言っても細い道に行きかかって手立てがなく、奈良か郡山のあたりへ後陣から敗走するでしょう。その後は大軍が再び寄せて来るにも、五日七日は手間取るはずで、味方はまたいくらでも防戦の手段があります、と。秀頼は聞いて、もっともだ、何事も後藤次第と言って、基次に大和口の先手を命じました。 渡辺糺と大野治長が同座しているところへ、基次が来て、面白いことを承りました。大住与左衛門は東へ内通しているとのこと、と言いました。治長は、いやいや与左衛門に限ってそのような心配は全くない、あれは太閤の魚洗であったのを、実直な者だと取り立てられ、秀頼公に御機嫌よく物を召し上がらせよと御付けなされた者で、今度の籠城以後も、方々の多くの倉の鍵を与左衛門一人の手元に置き、昼夜を問わず御用を弁じ見回っています、あの心がけでは、決して二心があるはずがない、と言いました。基次は、鈍な者よりも、そのような者がかえって気遣いなのです、と言いました。案の定、敵が外から火矢を射た時、内から火をつけたのは、与左衛門の仕業でした。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』後藤基次 見切りと快活な行軍○家康、大阪城中には御宿勘兵衞、後藤又兵衞ならでは別に人なしと言はれけり。 ○大阪冬役、上杉長勝鵜野に着陣し、其明日先手の者共向城になるべき地を見立に出けるが、秀賴天守より見て、基次に追拂ふべしとの命なり、基次靑屋口の櫓に上りて見けるが、斥候武者にて早々引取るべく間、追拂ふに及ぶべからざる旨申ける、使者歸て此由を申す、内に早や敵引取ぬ。秀賴基次が見切の程を感稱せり。 ○此役、道路俄に流言す。敵天滿の砦を陷れたりと、基次之を聞き、兵を率る天滿に向ふ途、諸將の陣頭を過ぐ、基次呼で曰く、今日後藤又兵衞君命に依り天滿の魁たり、諸君の陣中を騎馬にて過ぐ、請ふ不禮の罪を免されよと、既に天滿に至れば、全く訛傳なり、基次の意兵を擧げて空しく歸ることを羞ぢ、又聲言す、此行軍兵を收むるの法、薩摩入りと號するの秘傳なり、兒曹之に倣へと、衆以て眞と爲し、觀る者堵の如し、其快濶なること斯の如し。 ○今福の戰、基次鳥銃に中りたり、創を捫て曰く、創至て淺し、右府公の天命未だ傾かずと。人皆其豪放に驚けり。
-
名将言行録・『名将言行録』後藤基次 恩に報いる死に方○此役、基次平野に陣す。家康及び、秀忠より相國寺揚西堂を使にて、平野へ遣はし、今度味方致し候はゞ播磨の國を賜はるべきとのことなり、基次承はり忝き次第身に餘りし間、御請申度こと山々なり、但し東方御手弱ならば兎も角もなれども、東方は朝日の出る如きの御勢、大阪は落城十日二十日に過ぐべからず、此節に臨みて心替はり致さんこと、武士の本意にあらず、其上去年より大阪の扶持を得て、別心は罷成らざる間、此段は御免し賜はるべしとて承引せず、少時して、是は御返事にては之なし、御使僧まで申達するなり、日本士多しと雖も、我等に勝れる者之なし、其仔細は、去年より賴まれ奉りたる御主は、誰かと存ずれば、唐まで御手を延されたる豐國大明神の御子秀賴公なり、又今度御味方致しなば、大國賜はるべくと仰下されしは、神の位に等しき駿河江戶の兩御所なり、去りながら右にも申す通、御馴染なれば秀賴公の御手を引申べきなり、但し兩御所の忝き御意は水には致さず、其御恩報には戰始まりなば、一日も早く討死致すべし、其譯は基次存命ならば、一日にも落べき大阪十日掛り申べく、又我等討死致しなば、十日掛る大阪も一日に落申べし、之を恩報に致すべくと言ひしかば、聞く者涙に咽びたり。果して戰始まると基次討死す、爰を以て兩將軍にも殊の外感稱せられたり。後秀忠、黑田長政を召し後藤又兵衞は忠節者なれば、子供を免し候へとのことなり、長政畏り、假令又兵衞罷在るとも免し申べきに、死後を申し、如何にも御請申上たる由答申たり。嫡子、隱岐守は、大阪役後切腹、次男又市は細川忠興に仕へ、末子は三浦次兵衞と名乘り、松平光伸に仕ふと云ふ。
-
名将言行録・『名将言行録』後藤基次 伏兵を見破られた話○此役、城兵千波を燒きける時、基次見て、備前勢必ず付慕ふべし、若き人々待伏して功名あれと言ければ、基次が詞違はじとて、各々待伏しける所に、敵付來らず、後藤が功名だてと嘲りけり、基次積りも時々は違ふことあるものなり、必ず備前勢の付慕ふべきに其儀なきは不審なり、花房助兵衞職之が未だ生存へて居るならんと言へり。此時池田家にて戸川肥後守達安を始めとして、烟紛れに慕はんと言ひしに、職之聞て、城中に後藤と曰ふ功者あり、必ず兵を伏せ置きたるべしと制して付しめず、烟消えて見れば、職之が言ひし如く、果して兵を伏せ待掛け居たり。和平の後、基次遠安が弟彌左衞門と談話の時、千波の事に及び、付慕はざるは如何にと問へば、職之が制止しける由を言たり。兩人の計りしこと、更に違はざりければ、敵味方とも聞く人舌を振ひけるとぞ。 ○十二月三日、基次本丸に至り、此兩日敵茶磨山と岡山との間を保侶武者急はしげに、彼方此方へ驅廻り申すは、如何樣一兩日中に總攻致すと相見ゆる間、御用意之あるべくと申ける。夫より持口々々へ加勢等あり、果して四日の夜より攻寄せたり。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 夜討ちの議論○元和元年、東西の和睦既に破れ、關東の大軍伏見まで着すると聞えしかば、秀賴諸將を集め、軍議す。幸村、家康の軍立は常にはやりたると承はりしが、少しも違はず、其故は只今伏見へ着陣して軍兵の疲をも休めずして、早や茶磨山に押寄すべきとの沙汰、はやり過たるに候はずや、伏見より大和路を押すに、行程十三里なり、彌々疲れぬべし、然らば明夜は東國勢共如何に存ずるとも、冑を枕とし一眠せぬことや候べき、是夜討すべき圖に當れりと存ずるなり、幸村罷向て一擧に勝敗を決すべしと申ければ、後藤基次進み出て、如何にも此謀然るべし、去れども眞田殿を以て夜討の大將とせんに、萬に一つ討死あらん時には、諸人の力落しなるべし、抑々今度諸國の浪人ども馳集まること、偏に眞田殿一人を以て目當に仕りしなり、去らば、夜討には斯く申す基次に仰付られかしと申に、幸村は兎角我等向候べしと言ふ。基次は後の合戰大事なれば、是非とも眞田殿には御殘りあるべしと爭論して終に一決せずして止みにけり。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田幸村 宇治瀬田の献策○大阪冬役、軍議の時、幸村東兵未だ半も上らざれば、幾内至て無勢なり、故に太閤、明智御誅伐の吉例に任せ、山崎表へ御人數を出され、天王山に再び御旗を建られ、森と某に御先手を仰付らるべし、又長曾我部、後藤は大和口より責入り、宇治勢多の橋を切落し、石部を境にして陣を張り、伏見の城を攻落し、京師を燒拂ひ、先づ畿内西國の往還を差塞ぎなば、日本國の諸侍味方へ志あるは勿論、其外何れとも心を定めざる輩は、悉く馳參らんこと疑ひなしと、理を盡して申ければ、滿座皆之に同ぜり。獨り大野治長、眞田殿の申さるゝこと如何にも御尤もなれども、當城の事は日本第一の名城なり、恐くは日本國が寄來るとも、五年や十年にや兵糧は澤山なり、容易く落べきとは存ぜず、斯る名城に、一向に楯籠らせ給はんには、太閤厚恩の輩次第次第馳集るべし、兎角御出陣のこと然るべからずと言ふ。且つ源頼政、木曾義仲何れも宇治、勢田の橋を引き戰ひしが、皆利あらず、大不吉の例なり、然し勝べき理もあらば承はらんと言ふ。幸村、某山崎の例を言ひしは、小を以て大に向ふが故なり、又頼政、義仲の敗軍は去ることなれども、今其例を取るに足らず、今某が宇治、勢田を引くと言ふは、兵の利は先ずるを本とす。籠城は慥なる後詰なくば敵に氣を呑まれ、士卒退屈怠り自ら氣力衰へ、降參返り忠あるものなり、當時日本國を引受て、僅に二里に足らぬ此城を命に掛て楯籠らんに、誰かは馳參るべき様なし、且は又一戰に及ばず、むざ〳〵と初めより籠城せんこと言甲斐なく存ずるなりと再應申しゝかば、關東よりの間人小幡勘兵衞景憲、承久の事、新田楠木が故事を引き、宇治、勢田にて敗れしことを言て、幸村が策を阻す。治長及び、渡邊糺等景憲の言を信用し、幸村の策を用ひず、又重ねて軍議とて、何れも退出せり。幸村、後藤基次と秀頼公の御運は是までと、何れも討死の覺悟を究めたりとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』後藤基次 大坂入城と辞した賜物○慶長の末年、秀賴兵を募る。基次募に應じ、大阪に入る、時に從者九人、馬一匹なり。秀賴より三千人扶持を賜はり、二の丸目付總軍都督となれども、持參の金子僅十兩許にて肯て祿を請けず、日夜軍務に出精せり。之に依り淀婦人より小袖一重、綿直垂、夜着、蒲團一具を賜はり、寒氣を凌ぐべしと言越さる。基次錦の直垂は大將の裝束故に之を衣ざるも無禮なれば拜受すべし、余は國元より門人等が餞別、又自身も僅の旅金もあれば、今に於て事足れり、軍中には餘計に物を蓄ること無益なり、又妻子もなければ與ふる者もなし、又某が召使者には未だ褒美を與ふべき者あらず、又何の勳功もなく、空しく賞を受る理なし、若し所用あらば、重ねて願ふべしと申ければ、誠に靑砥左衞門藤綱以來の俊傑と、人皆感心せり。使者復命に、基次が居所を見るに、朝夕の膳も輕卒と同座して食し、此寒中に屛風もなく、雪風に身を晒し、其貧苦見るに忍びずと申ければ、秀賴の夫人、不自由なき樣に早く取揃て遣はすべしとのことにて、牢禮彦三郎、瀧波彌八郎、當用を見計らひ、使者に目錄を渡す。