名将言行録 / 『名将言行録』後藤基次 渡るか否かを言い切る
○稷山の役、敵は大勢、味方は小勢なり、基次敵に向はず、我家人を引連れ、左の岡に登り、山上をあなたこなた往來せり。是は日本人大勢山陰に控へたる樣に見せしなり、人其老功に感ぜり。 ○岐阜の役、長政及び、田中吉政、藤堂高虎等の諸將犬山を押ゆ、岐阜を攻むる最中に犬山の城明け退きたるに付、長政、高虎何れも岐阜へ押詰むる内、岐阜落城に及びたり。長政高虎等殘念と思ひし所へ、大垣より島津義弘、石田三成等二萬餘にて鄕戸川まで押來る、長政等を始め、何れも幸ひと喜び鄕戸川へ馳向ふ。大垣勢川向に備へたるに、八月雨の洪水增して瀨枕打て流れ、早く水夥しく出る、何れも香ヶ島村の札の辻に集まり、各々床机に腰を掛け、功者共を集めて談合す、川を越て利あるべきか、又越さずして利あるべきかと評議に時を移す。去れども一決せず、時に高虎曰く、あれに罷在る銀の天衝の立物打ちたる胄を着、黑保侶掛けたる武者は黒田殿御内後藤又兵衞と見えたり、彼功者なれば呼寄せ了簡を尋聞んとありければ、長政曰く、皆歴々寄て埒明かざる評議を何にとて、又兵衞了簡仕るべきやと諫遮なり、高虎左樣にて之なし、又兵衞は古祕たることを申す者なりとて、扇にて招かれければ、基次黑保侶ゆり掛け參りたり。高虎曰く、如何に又兵衞此川を渡して利あるべきか、川を前に當て渡らずして利あるべきか、先程より相談究まらず、其許が了簡を尋ぬる所なりとありければ、基次莞爾と笑ひ、先程よりあれにて承はり候、憚ながら爰は御相談所とは存ぜず、其子細は今婁遲くして岐阜の手には御逢ひなされず、何を以て内府へ仰立られに成さるべきや、爰にて一戰成されずば、恐ながら各々樣男となり申間敷、勝にも負るにも構はず、乘越し一戰遊ばされ、此川を墓所に爲さるべしと眼に角を立申ければ、諸大將手を拍て、偖々尤も至極なり、兎角言に及ばずとて、鄕戸川を越て戰ひ、大に勝利を得たり。
新字:○稷山の役、敵は大勢、味方は小勢なり、基次敵に向はず、我家人を引連れ、左の岡に登り、山上をあなたこなた往来せり。是は日本人大勢山陰に控へたる様に見せしなり、人其老功に感ぜり。 ○岐阜の役、長政及び、田中吉政、藤堂高虎等の諸将犬山を押ゆ、岐阜を攻むる最中に犬山の城明け退きたるに付、長政、高虎何れも岐阜へ押詰むる内、岐阜落城に及びたり。長政高虎等残念と思ひし所へ、大垣より島津義弘、石田三成等二万余にて郷戸川まで押来る、長政等を始め、何れも幸ひと喜び郷戸川へ馳向ふ。大垣勢川向に備へたるに、八月雨の洪水增して瀨枕打て流れ、早く水夥しく出る、何れも香ヶ島村の札の辻に集まり、各々床机に腰を掛け、功者共を集めて談合す、川を越て利あるべきか、又越さずして利あるべきかと評議に時を移す。去れども一決せず、時に高虎曰く、あれに罷在る銀の天衝の立物打ちたる胄を着、黒保侶掛けたる武者は黒田殿御内後藤又兵衛と見えたり、彼功者なれば呼寄せ了簡を尋聞んとありければ、長政曰く、皆歴々寄て埒明かざる評議を何にとて、又兵衛了簡仕るべきやと諫遮なり、高虎左様にて之なし、又兵衛は古秘たることを申す者なりとて、扇にて招かれければ、基次黒保侶ゆり掛け参りたり。高虎曰く、如何に又兵衛此川を渡して利あるべきか、川を前に当て渡らずして利あるべきか、先程より相談究まらず、其許が了簡を尋ぬる所なりとありければ、基次莞爾と笑ひ、先程よりあれにて承はり候、憚ながら爰は御相談所とは存ぜず、其子細は今婁遅くして岐阜の手には御逢ひなされず、何を以て内府へ仰立られに成さるべきや、爰にて一戦成されずば、恐ながら各々様男となり申間敷、勝にも負るにも構はず、乗越し一戦遊ばされ、此川を墓所に為さるべしと眼に角を立申ければ、諸大将手を拍て、偖々尤も至極なり、兎角言に及ばずとて、郷戸川を越て戦ひ、大に勝利を得たり。
書き下し
○稷山の役、敵は大勢、味方は小勢なり、基次敵に向はず、我家人を引連れ、左の岡に登り、山上をあなたこなた往來せり。是は日本人大勢山陰に控へたる樣に見せしなり、人其老功に感ぜり。 ○岐阜の役、長政及び、田中吉政、藤堂高虎等の諸將犬山を押ゆ、岐阜を攻むる最中に犬山の城明け退きたるに付、長政、高虎何れも岐阜へ押詰むる内、岐阜落城に及びたり。長政高虎等殘念と思ひし所へ、大垣より島津義弘、石田三成等二萬餘にて鄕戸川まで押來る、長政等を始め、何れも幸ひと喜び鄕戸川へ馳向ふ。大垣勢川向に備へたるに、八月雨の洪水增して瀨枕打て流れ、早く水夥しく出る、何れも香ヶ島村の札の辻に集まり、各々床机に腰を掛け、功者共を集めて談合す、川を越て利あるべきか、又越さずして利あるべきかと評議に時を移す。去れども一決せず、時に高虎曰く、あれに罷在る銀の天衝の立物打ちたる胄を着、黑保侶掛けたる武者は黒田殿御内後藤又兵衞と見えたり、彼功者なれば呼寄せ了簡を尋聞んとありければ、長政曰く、皆歴々寄て埒明かざる評議を何にとて、又兵衞了簡仕るべきやと諫遮なり、高虎左樣にて之なし、又兵衞は古祕たることを申す者なりとて、扇にて招かれければ、基次黑保侶ゆり掛け參りたり。高虎曰く、如何に又兵衞此川を渡して利あるべきか、川を前に當て渡らずして利あるべきか、先程より相談究まらず、其許が了簡を尋ぬる所なりとありければ、基次莞爾と笑ひ、先程よりあれにて承はり候、憚ながら爰は御相談所とは存ぜず、其子細は今婁遲くして岐阜の手には御逢ひなされず、何を以て内府へ仰立られに成さるべきや、爰にて一戰成されずば、恐ながら各々樣男となり申間敷、勝にも負るにも構はず、乘越し一戰遊ばされ、此川を墓所に爲さるべしと眼に角を立申ければ、諸大將手を拍て、偖々尤も至極なり、兎角言に及ばずとて、鄕戸川を越て戰ひ、大に勝利を得たり。
現代語訳
稷山の戦では、敵は大勢で味方は小勢でした。基次は敵に向かわず、自分の家来を引き連れて左の岡に登り、山の上をあちらこちらと往来しました。これは日本人が大勢、山陰に控えているように見せたのです。人々はその老練に感心しました。 岐阜の戦で、長政および田中吉政、藤堂高虎などの諸将は犬山を押さえていました。岐阜を攻めている最中に犬山城が明け退いたので、長政と高虎はいずれも岐阜へ押し詰めるうち、岐阜は落城しました。長政、高虎らが残念に思っていたところへ、大垣から島津義弘、石田三成らが二万余で郷戸川まで押し寄せてきました。長政をはじめ、皆は幸いだと喜び、郷戸川へ馳せ向かいました。大垣勢は川向こうに陣を構えていましたが、八月の雨で洪水が増し、瀬枕を打って流れ、水がおびただしく出ていました。諸将は香ヶ島村の札の辻に集まり、それぞれ床几に腰を掛け、経験豊かな者たちを集めて相談しました。川を越えて有利か、越さないで有利かと評議して時が移りましたが、一決しません。そのとき高虎が、あそこにおる銀の天衝の立物を打った兜を着け、黒母衣を掛けた武者は、黒田殿の家中の後藤又兵衛と見える、彼は功者だから呼び寄せて意見を聞こうと言いました。長政は、皆歴々が集まって埒の明かない評議を、どうして又兵衛が思案できようかと止めましたが、高虎は、そうではない、又兵衛は古い秘伝のようなことを言う者だと扇で招かれたので、基次は黒母衣を揺らしながら参りました。高虎が、どうだ又兵衛、この川を渡って利があるか、川を前にして渡らずに利があるか、先ほどから相談が決まらず、そなたの考えを尋ねたいと言うと、基次はにっこり笑い、先ほどからあちらで承っておりました、恐れながらここは相談所ではないと存じます、そのわけは、今から岐阜の手には間に合わず、何をもって内府にご報告なさるおつもりか、ここで一戦なさらなければ、恐れながら皆様は男になれません、勝つにも負けるにも構わず、乗り越えて一戦なさり、この川を墓所となされませ、と目に角を立てて申しました。諸大将は手を打って、いかにももっともだ、何も言うには及ばないと言い、郷戸川を越えて戦い、大勝利を得ました。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
李衛公問対・卷下守るの法は、要は敵に示すに不足を以てするに在り。攻むるの法は、要は敵に示すに有餘を以てするに在るなり。
-
『学問のすゝめ』十七編・人望論・藪医者が玄関を広大にして人望は智徳に属すること当然の道理にして、必ず然るべきはずなれども、天下古今の事実においてあるいはその反対を見ること少なからず。藪医者が玄関を広大にして盛んに流行し、売薬師が看板を金にして大いに売り弘め、山師の帳場に空虚なる金箱を据え、学者の書斎に読めぬ原書を飾り、人力車中に新聞紙を読みて宅に帰りて午睡を催す者あり、日曜日の午後に礼拝堂に泣きて月曜日の朝に夫婦喧嘩する者あり。滔々たる天下、真偽雑駁、善悪混同、いずれを是としいずれを非とすべきや。はなはだしきに至りては、人望の属するを見て、本人の不智不徳を卜すべき者なきにあらず。ここにおいてか、やや見識高き士君子は世間に栄誉を求めず、あるいはこれを浮世の虚名なりとして、ことさらに避くる者あるもまた無理ならぬことなり。士君子の心がけにおいて称すべき一ヵ条と言うべし。
-
『韓非子』說林上二十二小蛇有りて大蛇に謂ひて曰く、『子行きて我之に随へば、人以て蛇の行く者と為すのみ、必ず子を殺すもの有らん。相銜みて我を負ひて以て行くに如かず、人我を以て神君と為さん』と。乃ち相銜み負ひて以て公道を越ゆ。人皆之を避けて曰く、『神君なり』と。今子は美にして我は悪し。
-
『韓非子』說林上二十二今子は美にして我は悪し。...子我が舍人と為るに如かず。...逆旅の君、之を待つこと甚だ敬して、因て酒肉を獻ず。
-
『管子』法禁用其の人に稱わず、家其の列より富み、其の禄甚だ寡なくして資財甚だ多き者は、聖王の禁ずる所なり。世に拂いて以て行と為し、上を非りて以て名と為し、常に上の法制に反して、以て國に羣を成す者は、聖王の禁ずる所なり。貧窮を飾りて、勤勞に發し、貧賤に權り、身に職事無く、家に常姓無く、上下の間に列なり、言を議して民の為とする者は、聖王の禁ずる所なり。士を壺して以て亡資と為し、田を修めて以て亡本と為し、則ち之を生かし私を養いて死せず、然る後に矯を失いて以て深く、上と市を為す者は、聖王の禁ずる所なり。小節を審飾して以て民に示し、時に大事を言いて以て上を動かし、遠く交わりて以て羣を踰え、爵を假りて以て朝に臨む者は、聖王の禁ずる所なり。
-
名将言行録・『名将言行録』原虎胤 陰の横鎗と鬼の評判○天文二十二年、虎胤故ありて武田家を去り、北條家に仕ふ。氏康弓箭の智識を得たりとて、喜ぶこと斜めならず。氏康、今川、武田兩將と駿河の賀島にて戰し時、虎胤をして武田の師に當らしむ。虎胤曰く、武田は目前我古主なり、是に向て弓を轡き候こと、快よからず候、願くは今川の手を承はらんとありければ、氏康其義に感じて、之を許るす。氏康、兩家と川を隔て陣す。此時虎胤、笠原新三郎が、千五百計りの人數の中に加はりて、我一手は別に相印を附たり。兼ねて笠原に言合はせ、川を涉りて戰半なる時、其鹽合を見て、笠原伴はりて敗るゝ眞似す。虎胤一手は引分けて殘れり。今川の兵之を追ふ。虎胤則ち橫擊しければ、今川の兵大に潰走す。其時今川の一部、虎胤が手に掛らんとす。芳賀伯耆とめの備にて、太鼓を打て靜に進む。今川の兵救ふことを得ずして引退く所を、虎胤追擊て、首數百を得たり。是を陰の橫鎗と云ふ。其形を隱くして顯はさざるに依て名づけしなり。 ○虎胤、十人の足輕を百人の樣に使ひ、敵に重さを掛け、己が同心共に敵を虜にする樣に思はせ、叩き廻はして、味方に氣を付け、勇み掛て戰を始め、何つも眞先に進みて荒勝負せり。手疵を負へば、鹽を揉み込み抔せり。故に人皆鬼の如く怖れあへり。