名将言行録 / 『名将言行録』後藤基次 家老が推した名代
○長政、一日老臣を集め、一朝事ある時我に代はりて人數を扱ふべき者は誰ならんと問ふ。菅和泉守政利曰く、御家武邊にて御成立故、御家人誰にても一器量ある輩なり、去れども御名代となり、大なる武邊を致すべき者は、後藤又兵衞にて候、尤も畜類にてはありけれども、朝鮮にて猛虎御陣へ入り來り、御厩の馬共を噛殺しけれども、一人も出合はざる間、某罷出切掛りけれども、中々猛り難儀の所に又兵衞驅出で切留め申たり、箇樣の時も諸人に秀でし間、兎角究まる所の武邊は、又兵衞にて之あるべきかと存ずるなりと申ければ、長政は基次を憎み居たりし時なれば、不興して座を立てり。 ○關ヶ原の役、基次、長政に向ひ、敵に島津と曰ふ老功の武者之あれば、必ず夜討すべし、御用心然るべくと申す。長政尤もと思ひ家康に告ぐ。家康曰く、夜討は有間敷ぞ、氣遣なせそとて、如何にも緩々として居られたり。長政歸て右の上意心得ず、御運の末にやと氣遣ひけれども、夜討なし。是は前方夜討させ間敷爲めに、藤堂高虎に袖切と曰ふ計策をさせられしとぞ。 ○此役、長政靑墓に陣す。時に敵兵二萬餘伊勢路より出、金屋師原に至る。細川忠興、福島正則、藤堂高虎等皆誰が兵なるやと問ふ。基次跪きて曰く、是は毛利の軍なりと、諸將皆曰く、旗の紋分明ならず、又兵衞の眼犬眼通を得たるやとて、各々歸營す。翌日斥候を出だし之を見せしむるに、果して毛利の兵なり、人皆基次の眼識に服せり。
新字:○長政、一日老臣を集め、一朝事ある時我に代はりて人数を扱ふべき者は誰ならんと問ふ。菅和泉守政利曰く、御家武辺にて御成立故、御家人誰にても一器量ある輩なり、去れども御名代となり、大なる武辺を致すべき者は、後藤又兵衛にて候、尤も畜類にてはありけれども、朝鮮にて猛虎御陣へ入り来り、御厩の馬共を噛殺しけれども、一人も出合はざる間、某罷出切掛りけれども、中々猛り難儀の所に又兵衛駆出で切留め申たり、箇様の時も諸人に秀でし間、兎角究まる所の武辺は、又兵衛にて之あるべきかと存ずるなりと申ければ、長政は基次を憎み居たりし時なれば、不興して座を立てり。 ○関ヶ原の役、基次、長政に向ひ、敵に島津と曰ふ老功の武者之あれば、必ず夜討すべし、御用心然るべくと申す。長政尤もと思ひ家康に告ぐ。家康曰く、夜討は有間敷ぞ、気遣なせそとて、如何にも緩々として居られたり。長政帰て右の上意心得ず、御運の末にやと気遣ひけれども、夜討なし。是は前方夜討させ間敷為めに、藤堂高虎に袖切と曰ふ計策をさせられしとぞ。 ○此役、長政青墓に陣す。時に敵兵二万余伊勢路より出、金屋師原に至る。細川忠興、福島正則、藤堂高虎等皆誰が兵なるやと問ふ。基次跪きて曰く、是は毛利の軍なりと、諸将皆曰く、旗の紋分明ならず、又兵衛の眼犬眼通を得たるやとて、各々帰営す。翌日斥候を出だし之を見せしむるに、果して毛利の兵なり、人皆基次の眼識に服せり。
書き下し
○長政、一日老臣を集め、一朝事ある時我に代はりて人數を扱ふべき者は誰ならんと問ふ。菅和泉守政利曰く、御家武邊にて御成立故、御家人誰にても一器量ある輩なり、去れども御名代となり、大なる武邊を致すべき者は、後藤又兵衞にて候、尤も畜類にてはありけれども、朝鮮にて猛虎御陣へ入り來り、御厩の馬共を噛殺しけれども、一人も出合はざる間、某罷出切掛りけれども、中々猛り難儀の所に又兵衞驅出で切留め申たり、箇樣の時も諸人に秀でし間、兎角究まる所の武邊は、又兵衞にて之あるべきかと存ずるなりと申ければ、長政は基次を憎み居たりし時なれば、不興して座を立てり。 ○關ヶ原の役、基次、長政に向ひ、敵に島津と曰ふ老功の武者之あれば、必ず夜討すべし、御用心然るべくと申す。長政尤もと思ひ家康に告ぐ。家康曰く、夜討は有間敷ぞ、氣遣なせそとて、如何にも緩々として居られたり。長政歸て右の上意心得ず、御運の末にやと氣遣ひけれども、夜討なし。是は前方夜討させ間敷爲めに、藤堂高虎に袖切と曰ふ計策をさせられしとぞ。 ○此役、長政靑墓に陣す。時に敵兵二萬餘伊勢路より出、金屋師原に至る。細川忠興、福島正則、藤堂高虎等皆誰が兵なるやと問ふ。基次跪きて曰く、是は毛利の軍なりと、諸將皆曰く、旗の紋分明ならず、又兵衞の眼犬眼通を得たるやとて、各々歸營す。翌日斥候を出だし之を見せしむるに、果して毛利の兵なり、人皆基次の眼識に服せり。
現代語訳
長政があるとき老臣を集め、いざというとき自分に代わって人数を扱える者は誰だろうかと尋ねました。菅和泉守政利が言いました。御家は武辺で成り立っておりますので、御家人はどなたも一器量ある方々ですが、御名代となって大きな武辺をなすべき者は、後藤又兵衛でございます。もっとも獣の話ではございますが、朝鮮で猛虎が御陣に入ってきて御厩の馬たちを噛み殺しましたのに、誰も出合わなかったので、私が罷り出て切りかかりましたが、虎はなかなか猛り狂い難儀をしておりますところへ、又兵衛が駆けて来て切り留めました。このようなときも人に秀でておりますので、ともかく極まるところの武辺は又兵衛でございましょうと申しました。長政は基次を憎んでいた時だったので、不機嫌になって座を立ちました。 関ヶ原の戦で、基次は長政に向かい、敵に島津という老練の武者がいるので、必ず夜討ちをするでしょう、ご用心なさるのがよろしいと申しました。長政はもっともだと思い、家康に告げました。家康は、夜討ちはあるまいぞ、気遣いするなと言って、いかにもゆったりと構えておられました。長政は帰ってこの上意が納得できず、御運の末ではないかと気を揉みましたが、夜討ちはありませんでした。これは、あらかじめ夜討ちをさせないために、藤堂高虎に袖切という計略をさせておかれたからだということです。 この戦で、長政は青墓に陣を取りました。そのとき敵兵二万余が伊勢路から出て金屋師原に至りました。細川忠興、福島正則、藤堂高虎らが皆、誰の兵だろうかと尋ねました。基次がひざまずいて、これは毛利の軍です、と言うと、諸将は皆、旗の紋がはっきりしないのに、又兵衛の眼は犬の眼のようにすぐれた眼通を得ているのかと言って、それぞれ陣営に帰りました。翌日、斥候を出して見させたところ、はたして毛利の兵でした。人々は皆、基次の眼識に感服しました。
解説

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