名将言行録 / 『名将言行録』木村重成 最期の備えと家康の評
○重成、五月初より食事進まざりしかば、妻之を憂て、此度は落城近きにあるべしと聞ゆれば、御食事の進まざるにやと申けるに、重成聞て、全く左にあらず、昔後三年の戰に、瓜割四郎と囘ふ者、天性臆病にして、朝の食事喉を下らずして、敵陣にて首の骨を射切られしに、其疵口より食事出て、諸人に恥を曝しけるとなり。我等も敵に首を取らるべし、死骸の見苦しからぬ樣に心掛て、食事を愼むなりと答ふ。妻之を聞き欣然として退き、乃ち心事を書し瘢室に入て死す。時に年十八、妻は眞野豊後守頼包の女なり。 ○重成、久しく風邪に侵され、長髮にて居たりしが、五日に浴湯し、髮を洗ひ、香を燒き込めて、頓て江口の曲舞紅花の春の朝を靜に謠ひ、餘念なく小鼓を擊てり。明る六日井伊直孝と戰て討死す。家康、重成が首を見らるゝに、髮に燒き込めし香の薰ぜしかば、大に感じ時今皐月の初めなるに、聊か首に臭氣なく、香を燒き込めしこと勇士の能き嗜みなり、何れも打寄て其首を嗅ぐべしと言はれければ、何れも首を嗅ぎて褒賞せり。又冑の忍の緒の端を切てあるを見て曰く、討死を覺悟したる心天晴なる勇將哉と、讃美せられけり。或人簡程の嗜みに月代の延びたるは如何にと呼きけるを、家康聞て、斯く最後を磨く木村が月代の延びたるは子細あるべし、總て月代の剃立は冑下の惡きものなり、若くは左樣のことにてもあらん、希世の壯士が討死に健のことを難ずること勿れと言はれけり。
新字:○重成、五月初より食事進まざりしかば、妻之を憂て、此度は落城近きにあるべしと聞ゆれば、御食事の進まざるにやと申けるに、重成聞て、全く左にあらず、昔後三年の戦に、瓜割四郎と囘ふ者、天性臆病にして、朝の食事喉を下らずして、敵陣にて首の骨を射切られしに、其疵口より食事出て、諸人に恥を曝しけるとなり。我等も敵に首を取らるべし、死骸の見苦しからぬ様に心掛て、食事を慎むなりと答ふ。妻之を聞き欣然として退き、乃ち心事を書し瘢室に入て死す。時に年十八、妻は真野豊後守頼包の女なり。 ○重成、久しく風邪に侵され、長髪にて居たりしが、五日に浴湯し、髪を洗ひ、香を焼き込めて、頓て江口の曲舞紅花の春の朝を静に謡ひ、余念なく小鼓を撃てり。明る六日井伊直孝と戦て討死す。家康、重成が首を見らるゝに、髪に焼き込めし香の薫ぜしかば、大に感じ時今皐月の初めなるに、聊か首に臭気なく、香を焼き込めしこと勇士の能き嗜みなり、何れも打寄て其首を嗅ぐべしと言はれければ、何れも首を嗅ぎて褒賞せり。又冑の忍の緒の端を切てあるを見て曰く、討死を覚悟したる心天晴なる勇将哉と、讃美せられけり。或人簡程の嗜みに月代の延びたるは如何にと呼きけるを、家康聞て、斯く最後を磨く木村が月代の延びたるは子細あるべし、総て月代の剃立は冑下の悪きものなり、若くは左様のことにてもあらん、希世の壮士が討死に健のことを難ずること勿れと言はれけり。
書き下し
○重成、五月初より食事進まざりしかば、妻之を憂て、此度は落城近きにあるべしと聞ゆれば、御食事の進まざるにやと申けるに、重成聞て、全く左にあらず、昔後三年の戰に、瓜割四郎と囘ふ者、天性臆病にして、朝の食事喉を下らずして、敵陣にて首の骨を射切られしに、其疵口より食事出て、諸人に恥を曝しけるとなり。我等も敵に首を取らるべし、死骸の見苦しからぬ樣に心掛て、食事を愼むなりと答ふ。妻之を聞き欣然として退き、乃ち心事を書し瘢室に入て死す。時に年十八、妻は眞野豊後守頼包の女なり。 ○重成、久しく風邪に侵され、長髮にて居たりしが、五日に浴湯し、髮を洗ひ、香を燒き込めて、頓て江口の曲舞紅花の春の朝を靜に謠ひ、餘念なく小鼓を擊てり。明る六日井伊直孝と戰て討死す。家康、重成が首を見らるゝに、髮に燒き込めし香の薰ぜしかば、大に感じ時今皐月の初めなるに、聊か首に臭氣なく、香を燒き込めしこと勇士の能き嗜みなり、何れも打寄て其首を嗅ぐべしと言はれければ、何れも首を嗅ぎて褒賞せり。又冑の忍の緒の端を切てあるを見て曰く、討死を覺悟したる心天晴なる勇將哉と、讃美せられけり。或人簡程の嗜みに月代の延びたるは如何にと呼きけるを、家康聞て、斯く最後を磨く木村が月代の延びたるは子細あるべし、總て月代の剃立は冑下の惡きものなり、若くは左樣のことにてもあらん、希世の壯士が討死に健のことを難ずること勿れと言はれけり。
現代語訳
○重成は五月の初めから食事が進まなくなったので、妻がそれを憂えて、このたびは落城が近いと聞こえますので、お食事が進まないのでしょうかと尋ねました。重成は聞いて、全くそうではない。昔、後三年の戦いで、瓜割四郎という者が、生まれつき臆病で、朝の食事が喉を通らず、敵陣で首の骨を射切られたところ、その傷口から食べ物が出て、人々の前に恥をさらしたということだ。我々も敵に首を取られるだろう。死骸が見苦しくないようにと心がけて、食事を慎んでいるのだと答えました。妻はこれを聞いて、喜んで退き、そこで心中を書き残し、別室に入って自害しました。時に年十八、妻は真野豊後守頼包の娘でした。 ○重成は長く風邪にかかり、長髪のままでいましたが、五日に湯浴みをして髪を洗い、香を焚き込め、やがて江口の曲舞の紅花の春の朝をしずかに謡い、余念なく小鼓を打ちました。翌六日、井伊直孝と戦って討ち死にしました。家康が重成の首をご覧になると、髪に焚き込めた香が薫ったので、大いに感心されました。時は今、皐月の初めなのに、少しも首に臭気がなく、香を焚き込めたことは勇士の良いたしなみである。みな集まってその首を嗅ぐがよい、と言われたので、みな首を嗅いで褒めました。また、兜の忍の緒の端を切ってあるのを見て、討ち死にを覚悟した心はあっぱれな勇将だ、と讃美されました。ある人がこれほどのたしなみに、月代が延びているのはどうしたことかとささやいたのを、家康が聞いて、こうして最期を磨いた木村が月代を延ばしたのには、子細があるだろう。総じて月代を剃り立てると、兜の下の具合が悪いものだ。あるいはそういうことかもしれない。世にまれな壮士が討ち死にに臨んだ際のことを非難してはならない、と言われました。
解説

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