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甲陽軍鑑 / 品第十四

惣別信玄公の合戰は働き前へに取りかけんと、思ふ國のゑづをもつて、各守侍大將打ち寄り、其國の嶮難の塲をさたして、一の手·二の手·横鎗·脇備·後備·小荷駄奉行所に依りてまほる旗遊軍·押勢などゝ申す事わり候ひて、卒爾にがけなどへころびおつる儀いづかたにても、さのみ無之、左樣にいたすを甲州の軍法といふ、但しかり田などにゆき人夫の一二人は在々などにて、自然穴へおつることも有るべし、味方が原合戰の刻みがけへ落ちたる武田武者一人もなく候、家康武者もみだりに北たる衆なければ、結句馬塲美濃守は濱松衆の体皆勝負をして死する故、此方へ向きたると信玄公御前にて家康衆をあさからずほめ候、信長衆佐久間右衛門は合戰にあはず濱松の城に迯げ入り、其外六七手は其夜に吉田岡崎迄落ちつるときく、是れは味方が原の儀馬をいるゝと云ふに付ての事、

新字:惣別信玄公の合戦は働き前へに取りかけんと、思ふ国のゑづをもつて、各守侍大将打ち寄り、其国の嶮難の塲をさたして、一の手·二の手·横鎗·脇備·後備·小荷駄奉行所に依りてまほる旗遊軍·押勢などゝ申す事わり候ひて、卒爾にがけなどへころびおつる儀いづかたにても、さのみ無之、左様にいたすを甲州の軍法といふ、但しかり田などにゆき人夫の一二人は在々などにて、自然穴へおつることも有るべし、味方が原合戦の刻みがけへ落ちたる武田武者一人もなく候、家康武者もみだりに北たる衆なければ、結句馬塲美濃守は浜松衆の体皆勝負をして死する故、此方へ向きたると信玄公御前にて家康衆をあさからずほめ候、信長衆佐久間右衛門は合戦にあはず浜松の城に迯げ入り、其外六七手は其夜に吉田岡崎迄落ちつるときく、是れは味方が原の儀馬をいるゝと云ふに付ての事、

書き下し

惣別信玄公の合戦は働き前へに取りかけんと、思ふ国のゑづをもつて、各守侍大将打ち寄り、其国の嶮難の塲をさたして、一の手·二の手·横鎗·脇備·後備·小荷駄奉行所に依りてまほる旗遊軍·押勢などゝ申す事わり候ひて、卒爾にがけなどへころびおつる儀いづかたにても、さのみ無之、左様にいたすを甲州の軍法といふ、但しかり田などにゆき人夫の一二人は在々などにて、自然穴へおつることも有るべし、味方が原合戦の刻みがけへ落ちたる武田武者一人もなく候、家康武者もみだりに北たる衆なければ、結句馬塲美濃守は浜松衆の体皆勝負をして死する故、此方へ向きたると信玄公御前にて家康衆をあさからずほめ候、信長衆佐久間右衛門は合戦にあはず浜松の城に迯げ入り、其外六七手は其夜に吉田岡崎迄落ちつるときく、是れは味方が原の儀馬をいるゝと云ふに付ての事、

現代語訳

総じて信玄公の合戦は、働いて攻めかかろうと思う国の絵図をもって、各守侍大将が集まり、その国の嶮難の場を詮議して、一の手・二の手・横鑓・脇備・後備・小荷駄奉行、所によって守る旗・遊軍・押勢などと申すことを定めて、軽率に崖などへ転び落ちることはどこでもさほどない。そのようにするのを甲州の軍法という。ただし刈田などに行って、人夫の一人二人は在所などで、たまたま穴へ落ちることもあろう。三方ヶ原の合戦の時、崖へ落ちた武田武者は一人もいない。家康武者もみだりに逃げた衆はいないので、かえって馬場美濃守は、浜松衆の様子は皆勝負をして死んだので、こちらへ向いていたと、信玄公の御前で家康衆を浅からず褒めた。信長衆の佐久間右衛門は合戦にあわずに浜松の城へ逃げ入り、そのほか六、七手はその夜に吉田・岡崎まで落ちたと聞く。これは三方ヶ原のことで、馬を入れるという話についてのことである。

解説

信玄の合戦は、攻める国の絵図を広げ、侍大将が集まって嶮難の場を詮議し、備えの役割を定めてから臨むものだった。だから崖に落ちるような失態はないという。三方ヶ原では、家康勢が逃げずに皆前を向いて死んだことを、馬場が信玄の前で褒めた。事前の地図と役割分担こそが事故を防ぐ。敵の潔さを認める姿勢にも、学ぶ所がある。準備の周到さが、戦場での事故を減らす一番の近道である。

この章句が説くこと

準備軍法役割信玄三方ヶ原家康

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