名将言行録 / 『名将言行録』木村重成 感状を返上する
○秀賴、東國の軍勢追々攻登ると聞て、彌々合戰の支度に及びけり。偖去年鵜野、今福合戰に軍忠ある人々に感狀褒美を賜ふ。重成には去冬大軍と、度々戰しこと取分け今福堤の苦戰、日本無雙の勇士とも思召さるゝとて、其勇を稱し、感狀並に正宗の刀脇差を賜はりぬ。重成謹みて頂戴し、秀賴の前に差置て曰く、舊冬今福堤の合戰のこと、聊か重成が武勇にあらず、御預け置れたる持口の軍士、身命を捨て戰し故に、勝利を得させ給ふ、殊に大野治長、後藤基次を初め、七組の頭粉骨を盡し申されし故、鵜野の合戰にも、味方勝利を得候、如何で重成一人が高名にあらず、其上御感狀の儀强て重成には御無用なり、是は自然他主に仕へ申す時か、又は子孫に至て、其高名の御感狀を以て武士の面目と仕ることなり、重成に於ては二君に仕へ申すべき樣なし、又重成が子孫如何で御見放下さるべきことにあらず、重成は君へ御奉公仕る筈のものにて、忠戰仕るが究まりたることにて珍しからず、君の御運開かれなば、重成も共に武運に榮えて過分の俸祿に誇り申べし、若し御運盡させ給ひ、御生害の時は、重成腹搔切て黃泉の御供仕り、冥途までも君に仰ぎ、臣に從へられて御奉公仕る重成なり、然らば、御褒美を頂戴仕るべき道理之なく候と、涙ながらに返上しける。秀賴を始め在合ふ人々も皆感涙を浮べける。此重成が詞を聞き、城を遁出んと思ふ族も、士は義に依て名を立つべきものなりと言て、忽ち心を改めしとなり。
新字:○秀頼、東国の軍勢追々攻登ると聞て、弥々合戦の支度に及びけり。偖去年鵜野、今福合戦に軍忠ある人々に感状褒美を賜ふ。重成には去冬大軍と、度々戦しこと取分け今福堤の苦戦、日本無双の勇士とも思召さるゝとて、其勇を称し、感状並に正宗の刀脇差を賜はりぬ。重成謹みて頂戴し、秀頼の前に差置て曰く、旧冬今福堤の合戦のこと、聊か重成が武勇にあらず、御預け置れたる持口の軍士、身命を捨て戦し故に、勝利を得させ給ふ、殊に大野治長、後藤基次を初め、七組の頭粉骨を尽し申されし故、鵜野の合戦にも、味方勝利を得候、如何で重成一人が高名にあらず、其上御感状の儀強て重成には御無用なり、是は自然他主に仕へ申す時か、又は子孫に至て、其高名の御感状を以て武士の面目と仕ることなり、重成に於ては二君に仕へ申すべき様なし、又重成が子孫如何で御見放下さるべきことにあらず、重成は君へ御奉公仕る筈のものにて、忠戦仕るが究まりたることにて珍しからず、君の御運開かれなば、重成も共に武運に栄えて過分の俸禄に誇り申べし、若し御運尽させ給ひ、御生害の時は、重成腹搔切て黄泉の御供仕り、冥途までも君に仰ぎ、臣に従へられて御奉公仕る重成なり、然らば、御褒美を頂戴仕るべき道理之なく候と、涙ながらに返上しける。秀頼を始め在合ふ人々も皆感涙を浮べける。此重成が詞を聞き、城を遁出んと思ふ族も、士は義に依て名を立つべきものなりと言て、忽ち心を改めしとなり。
書き下し
○秀賴、東國の軍勢追々攻登ると聞て、彌々合戰の支度に及びけり。偖去年鵜野、今福合戰に軍忠ある人々に感狀褒美を賜ふ。重成には去冬大軍と、度々戰しこと取分け今福堤の苦戰、日本無雙の勇士とも思召さるゝとて、其勇を稱し、感狀並に正宗の刀脇差を賜はりぬ。重成謹みて頂戴し、秀賴の前に差置て曰く、舊冬今福堤の合戰のこと、聊か重成が武勇にあらず、御預け置れたる持口の軍士、身命を捨て戰し故に、勝利を得させ給ふ、殊に大野治長、後藤基次を初め、七組の頭粉骨を盡し申されし故、鵜野の合戰にも、味方勝利を得候、如何で重成一人が高名にあらず、其上御感狀の儀强て重成には御無用なり、是は自然他主に仕へ申す時か、又は子孫に至て、其高名の御感狀を以て武士の面目と仕ることなり、重成に於ては二君に仕へ申すべき樣なし、又重成が子孫如何で御見放下さるべきことにあらず、重成は君へ御奉公仕る筈のものにて、忠戰仕るが究まりたることにて珍しからず、君の御運開かれなば、重成も共に武運に榮えて過分の俸祿に誇り申べし、若し御運盡させ給ひ、御生害の時は、重成腹搔切て黃泉の御供仕り、冥途までも君に仰ぎ、臣に從へられて御奉公仕る重成なり、然らば、御褒美を頂戴仕るべき道理之なく候と、涙ながらに返上しける。秀賴を始め在合ふ人々も皆感涙を浮べける。此重成が詞を聞き、城を遁出んと思ふ族も、士は義に依て名を立つべきものなりと言て、忽ち心を改めしとなり。
現代語訳
○秀頼は、東国の軍勢が次々に攻め上ってくると聞いて、いよいよ合戦の支度に及びました。そして去年の鴫野、今福の合戦で軍功のあった人々に、感状と褒美を賜りました。重成には、去年の冬、大軍と度々戦ったこと、とりわけ今福堤での苦戦に対して、日本無双の勇士とも思われると、その勇を称え、感状並びに正宗の刀と脇差を賜りました。重成は謹んで頂戴し、秀頼の前に差し置いて言いました。去年の冬の今福堤の合戦のことは、いささかも重成の武勇ではございません。お預けになった持ち口の軍士が、身命を捨てて戦ったために、勝利を得られたのです。ことに大野治長、後藤基次をはじめ、七組の頭が粉骨を尽くしたので、鴫野の合戦でも味方は勝利を得ました。どうして重成一人の高名でございましょうか。そのうえ、御感状のことは、強いて重成にはご無用です。これは、たまたま他の主君に仕えるときか、あるいは子孫に至って、その高名の感状をもって武士の面目とすることでございます。重成に至っては、二君に仕えることはございません。また重成の子孫をどうしてお見放しになることがございましょう。重成は君に御奉公する筈の者であり、忠戦いたすことは決まりきったことで、珍しくもございません。君のご運が開かれれば、重成も共に武運に栄え、過分の俸禄を誇ることもございましょう。もしご運が尽きて、ご生害のときは、重成は腹を搔き切って黄泉のお供をいたし、冥途までも君を仰ぎ、臣として従い、ご奉公する重成でございます。そうであれば、ご褒美を頂戴する道理はございません、と涙ながらに返上しました。秀頼をはじめ居合わせた人々も皆、感涙を浮かべました。この重成の言葉を聞き、城を逃げ出そうと思っていた者たちも、士は義によって名を立てるべきものだと言って、たちまち心を改めたということです。
解説

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