名将言行録 / 『名将言行録』木村重成 生い立ちと離間の見抜き
常陸介重玆の子、長門守に任ず。元和元年五月六日戰死、年二十三。 ○重成初め父重玆の禍に罹りし時、母に抱かれ近江馬淵に落行きたり。稍々長ずる頃、江州先の太守佐々木義鄕の介抱に依て文武の道を學びしに、其才衆に抽でければ、程なく秀賴に召出されたり。 ○慶長十九年、鐘銘のことより起り、大野修理亮治長、渡邊内藏助糺等片桐貞盛を誅せんとす。重成曰く、三尼貞盛の謀を猜み、是を以て非と爲す、是素より貞盛と不和なるが故なり、家康の三尼を遇するに愉色を以て之を待し、本多正純等潛に三ヶ條を誘す、貞盛之を承諾せしかば、則ち欺待を賜はる、故に三尼之を怪み、遂に君臣之を疑ふに至る、是正純等が策を設け、城中を離間するなり、若し其策に陷らば自ら滅亡するに至らん、是陳平が范增を離間せし策なりとありければ、秀賴旣に之に從はんとす。去れども治長等聽かず、遂に其の策に陷り、身死し國亡び、竟に天下の笑となれり。
新字:常陸介重玆の子、長門守に任ず。元和元年五月六日戦死、年二十三。 ○重成初め父重玆の禍に罹りし時、母に抱かれ近江馬淵に落行きたり。稍々長ずる頃、江州先の太守佐々木義郷の介抱に依て文武の道を学びしに、其才衆に抽でければ、程なく秀頼に召出されたり。 ○慶長十九年、鐘銘のことより起り、大野修理亮治長、渡辺内蔵助糺等片桐貞盛を誅せんとす。重成曰く、三尼貞盛の謀を猜み、是を以て非と為す、是素より貞盛と不和なるが故なり、家康の三尼を遇するに愉色を以て之を待し、本多正純等潜に三ヶ条を誘す、貞盛之を承諾せしかば、則ち欺待を賜はる、故に三尼之を怪み、遂に君臣之を疑ふに至る、是正純等が策を設け、城中を離間するなり、若し其策に陥らば自ら滅亡するに至らん、是陳平が范增を離間せし策なりとありければ、秀頼既に之に従はんとす。去れども治長等聴かず、遂に其の策に陥り、身死し国亡び、竟に天下の笑となれり。
書き下し
常陸介重玆の子、長門守に任ず。元和元年五月六日戰死、年二十三。 ○重成初め父重玆の禍に罹りし時、母に抱かれ近江馬淵に落行きたり。稍々長ずる頃、江州先の太守佐々木義鄕の介抱に依て文武の道を學びしに、其才衆に抽でければ、程なく秀賴に召出されたり。 ○慶長十九年、鐘銘のことより起り、大野修理亮治長、渡邊内藏助糺等片桐貞盛を誅せんとす。重成曰く、三尼貞盛の謀を猜み、是を以て非と爲す、是素より貞盛と不和なるが故なり、家康の三尼を遇するに愉色を以て之を待し、本多正純等潛に三ヶ條を誘す、貞盛之を承諾せしかば、則ち欺待を賜はる、故に三尼之を怪み、遂に君臣之を疑ふに至る、是正純等が策を設け、城中を離間するなり、若し其策に陷らば自ら滅亡するに至らん、是陳平が范增を離間せし策なりとありければ、秀賴旣に之に從はんとす。去れども治長等聽かず、遂に其の策に陷り、身死し國亡び、竟に天下の笑となれり。
現代語訳
常陸介重茲の子で、長門守に任ぜられました。元和元年五月六日に戦死しました。年二十三。 ○重成は、はじめ父の重茲が災いに遭ったとき、母に抱かれて近江の馬淵に落ちのびました。やや成長した頃、近江の先の太守である佐々木義郷の介抱によって文武の道を学びました。その才能は人にぬきんでていたので、ほどなく秀頼に召し出されました。 ○慶長十九年、鐘銘のことから事が起こり、大野修理亮治長、渡辺内蔵助糺らが片桐貞盛を誅しようとしました。重成は言いました。三人の尼君が貞盛の謀を疑うのは、これを非としているからだ。これはもともと貞盛と不和であるためである。家康が三人の尼君を機嫌よく待遇し、本多正純らがひそかに三か条を誘った。貞盛がこれを承諾したので、欺きもてなしを賜った。そのため三人の尼君はこれを怪しみ、ついに君臣がこれを疑うに至った。これは正純らが策を設けて、城中を離間させるのである。もしその策にはまれば、自ら滅亡に至るだろう。これは陳平が范増を離間した策である、と言ったので、秀頼はすでにこれに従おうとしていました。しかし治長らは聞かず、ついにその策にはまり、身は死に国は亡び、ついには天下の笑いものになりました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』木村重成 温和な人柄○重成は、常々物柔らかなる人にて、人の過を咎めず、堪忍を第一としたり。時人嘲弄して長州は手ぬるくして、物の用に立間敷男なりと沙汰する程なり。一日大阪城中にて粗忽の茶道ありて口論し、重成が烏帽子を扇にて打たり。重成打笑ひ、士の法にしては、汝は討捨つべきものなれども、汝を殺せば我も又死す。我は一大事あらん時の御用に立んと思ふなれば、代ゆるべき命を持たず、去る故に見捨置くぞと言ひしを、臆病の士なりとて、上下爪彈して誹りしが、今福の戰に、重成佐竹の備へ突掛り、大剛の働を爲す、後藤基次之を見て大に感歎せり。其時人に申けるは、先年言ひし言葉は誠に此節をや心がけたるならんとて、何れも感じける。去れども重成は、彌々謙遜して驕らず、基次之を熱々と見て、長門守が氣色は今度今福にての働を十分に思はぬ體なり、天晴重ねて何事かあらんには、眞先掛て十死一生の働をすべき氣色なりと語りけるが、果して夏役比類なき戰死を遂げり。 ○重成士を好み、嘗て浪士の名譽の者には、金銀を與へ、或は米穀を扶助し、愛憐を施せり。之に依り、今度大阪の募に應ぜざる輩も、重成が厚情を感じ、來り屬する者少なからざりしとぞ。 ○重成好み書を讀み古今に通達す。家康、板倉勝重をして屢々之を招かる、重成二心を抱くは士たるの道にあらざるなりと言て、應ぜず、暗弱の秀賴に仕へ、終始其節を改めず、竟に之に殉せり。
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名将言行録・『名将言行録』木村重成 最期の備えと家康の評○重成、五月初より食事進まざりしかば、妻之を憂て、此度は落城近きにあるべしと聞ゆれば、御食事の進まざるにやと申けるに、重成聞て、全く左にあらず、昔後三年の戰に、瓜割四郎と囘ふ者、天性臆病にして、朝の食事喉を下らずして、敵陣にて首の骨を射切られしに、其疵口より食事出て、諸人に恥を曝しけるとなり。我等も敵に首を取らるべし、死骸の見苦しからぬ樣に心掛て、食事を愼むなりと答ふ。妻之を聞き欣然として退き、乃ち心事を書し瘢室に入て死す。時に年十八、妻は眞野豊後守頼包の女なり。 ○重成、久しく風邪に侵され、長髮にて居たりしが、五日に浴湯し、髮を洗ひ、香を燒き込めて、頓て江口の曲舞紅花の春の朝を靜に謠ひ、餘念なく小鼓を擊てり。明る六日井伊直孝と戰て討死す。家康、重成が首を見らるゝに、髮に燒き込めし香の薰ぜしかば、大に感じ時今皐月の初めなるに、聊か首に臭氣なく、香を燒き込めしこと勇士の能き嗜みなり、何れも打寄て其首を嗅ぐべしと言はれければ、何れも首を嗅ぎて褒賞せり。又冑の忍の緒の端を切てあるを見て曰く、討死を覺悟したる心天晴なる勇將哉と、讃美せられけり。或人簡程の嗜みに月代の延びたるは如何にと呼きけるを、家康聞て、斯く最後を磨く木村が月代の延びたるは子細あるべし、總て月代の剃立は冑下の惡きものなり、若くは左樣のことにてもあらん、希世の壯士が討死に健のことを難ずること勿れと言はれけり。
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名将言行録・『名将言行録』木村重成 主君を諫める言葉群居の輩其ゆゆしさを感じて一言も出さず、伊奈忠政御念入り候、早々御退出あれと申して、重成は退出せり。 ○元和元年、重成秀賴が臆せるを憂ひ、諫めて曰く、生あるもの誰か死を惜まざらん、去れども義に依て死を輕んずるは弓箭執る身の習にて候、平宗盛死を恐れて、笑を後世に殘せしは、君の知給ふ所なり、舊冬左衞門佐幸村が諫め奉るに依り、漸々一度御陣廻りありたるのみ、斯る御事にては御運開かせ給ふこと如何あるべきや、夫戰の勝敗は兵の多少にあらず、將の强臆に寄り候へば、仰ぎ願くは有功の者を賞し、軍氣を勵まし給ひ、戰あらんには、御身眞先掛て諸營を巡視し給ひて、將卒を勵まし給ふべしと。秀賴にも尤もなりとありて、其諫を納らる。
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名将言行録・『名将言行録』木村重成 評・大坂陣の花形重成○大阪陣の花形であると同時に、戰國武士中にも傑出した青年武士である。父常陸介は、秀次の家臣で之に殉じた人であるから、大した門地の出身でもないのに、大阪冬の陣の講和使節に撰ばれた事などを考へても、重成自身の人物が傑出してゐた爲であらう。茶臼山に於ける使節振の見事さには、徳川方の諸將も感心したと見える。わづか二十を超えたばかりの若武者でありながら、戰場での武勇と云ひ平生の言語動作と云ひ、立派なものである。義經などと同じに、後世の同情者に依りて、少し理想化されたのではないかと思はれる位である。とにかく、この人は大阪陣が、生み出した英雄である。大阪陣に依つて、初て現はれ、かつ大阪陣で死んだ人である。良人に殉じたその愛妻と共に、大阪軍の花と云つてもよい。本文中に粗忽の茶道と口論し云々のところは、講談などで、重成が風呂には入つてるところを、茶坊主が頭を毆ぐる事になつてゐるが、この逸話に對し、原著者岡谷繁實は大勇ノ人ト云ヘドモ、年少氣剛ノ時ニ當リ、小忿ニ忍フ能ハザルトコロアリ。子房ノ如キ猶然リ。故ニ圯上ノ老人深ク之ヲ惜シム。重成年少ニシテ能ク忍耐ヲ涵養シ、以テ他日ノ報效ヲ期ス。其ノ志ノ遠大ナル知ル可キ也。志業成ラズシテ死スト云ヘドモ、後世大阪ノ事ヲ言フ者、必ズ重成ヲ贊揚ス。蓋シ、大ニ人ニ過グルノ節有ルニ非ズンバ、名空シ獲ザルナリと、批評してゐるが、大阪陣に於ける重成の評判がどんなによかつたかゞ分る。
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名将言行録・『名将言行録』木村重成 敵の若武者への心づかい○十二月十三日、東軍壘に逼り鬨を喧とぞ揚たりける。重成櫓に上り一見して後、眞田幸村に逢ひ、只今某が持口に攻寄せたる關東勢の旗の紋、六文錢なり、定めて御一家とこそ存ずるなり、夫に付相尋ね申すは殊の外若輩なる武者二騎眞先に進みて弓銃を事ともせず、冑を傾け仕寄申す、何人の子にて候やらん、櫓より御覽賜はるべしとぞ申ける。幸村見申すに及ばず、如何にも六文錢の旗の紋は同苗伊豆守の紋なり、其先に進みて仕寄申す若輩者は、一人は河内守と申して十八歲、今一人は外記と申て十七歲、二人共に某が甥にて候、哀れ其者を侍分の人に仰付られて討取らせ賜はるべし、然らば十餘歲にて木村殿の持口にて討死致したると申名の後世に傳はらんには、一族の喜慶何事か之に過ぎ候はんと申す。重成聞て、左にあらず一族引分りての軍何にとて後日の御咎あるべきぞ、必ず御和睦に罷成りなば、目出度對面成さるべし、御心底察し申たりと言て、士卒に下知し必ず二騎の若武者を鳥銃にて打つべからず、隨分用捨致せと痛はりけり。
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名将言行録・『名将言行録』木村重成 感状と和平論の拒否○冬役、大野主馬治房が組の士、塙團衞門直之、蜂須賀至鎭が陣に夜討して功名あり、重成を頼みて感狀を賜はらんことを申す。重成聞て、上にも能く閲召たれば感狀に於て定めて下し賜はるべし。但し貴殿感狀を賜はり、誰に披露せられんや、一本鎗の士ならば、又他國の主君に奉公せん時の眉目にすべし、大野兄弟は大阪の長臣たる身、君と存亡を共にすべき人の、何の爲めの感狀ぞやと言ければ、治房耻て詞なかりけり。 ○此役、淀婦人東軍の兵威に怖れ、和平の心生じ、秀賴の爲めとさへあらば、江戸表へも下向すべしとの儀に付、織田源五郎長益入道有樂、大野治長、其旨秀賴に告ぐ。秀賴肯せず、此上は近習出頭の者に諫言させ、然るべしとのことにて、長益、治長、重成を閑所に招き、御和談の上淀殿を江戸表へ御差下し、然るべくと申上られ候へとなり。重成聞て、只今各々の申聞けらる趣は、事の始めに片桐が申したる趣に少しも違ひ之なし、只今に至り左樣の儀を申上る儀は、重成に於ては罷成らず、各々方幾重にも御申上らるべしと言ふ。偖斯の如きの次第にも成るものにて候や、畢竟秀賴公の御運の末と歎き入り存ずるの外之なくと答へければ、二人詞なかりしとぞ。其後淀婦人より遂て申さるゝに付、秀賴も稍々得心にて和議に及びしとなり。