名将言行録 / 『名将言行録』木村重成 今福堤の殿
○十一月二十六日、佐竹義宣の軍勢八千餘人、今福堤の柵へ押寄せ戰ひけるに、一の城戸の守將矢野和泉守正倫、二の柵の守將飯田左馬亮家貞討死し、三の柵の守將大谷大學戰ひ難儀に及べり。援兵として重成五千餘人を率る、佐竹が勢を追拂はんと、眞先に進みたり。佐竹勢よりは鳥銃を飛ばずこと雨霰の如くなれば、木村半四郎と曰ふ者、一枚楯を持來り、之を持給へと言ふ。重成楯を地に置き、假令矢玉は迥るゝとも、運命は迥れ難しと言て、益々進みて遂に佐竹の軍勢を追拂ひ、一二三の柵を取固めたり。此時重成が隊長大井何右衞門見えず、重成大に驚き我預りし士を捨殺にしては、此後如何で諸士の下知を爲すべき、いざ尋ね來らんとて、只一騎三の城戶を押開き、討死の骸算を亂したる中を、大井何右衞門はなきか、木村長門が迎に來れりと大聲に呼はる。此時大井未だ死せず、重成喜び馬より飛下り、大井を抱き退かんとす。敵之を見て鳥銃を打掛ること雨の如し。堀尾山城守忠晴が陣より武者四五騎聲を揚げて追來る。何右衞門曰く、敵急なり、棄てて早く引取り給へと。重成聞て、我足下の迎に來れり、敵出るとて打棄てゝ退かんは、初めより出ざるに如かずと、鎗を取て敵に掛らんとす。此時重成が組下三十餘騎馬の頭を並べて乘出し、敵勢を立隔つ。重成命じ大井を抱て退かしめ、自ら三十餘騎を繰引に自身殿して靜靜と柵内へ引揚げたりしは、天晴三德を兼ねたりと言はんも、無理ならずと、敵も味方も感歎せざるはなかりけり。
新字:○十一月二十六日、佐竹義宣の軍勢八千余人、今福堤の柵へ押寄せ戦ひけるに、一の城戸の守将矢野和泉守正倫、二の柵の守将飯田左馬亮家貞討死し、三の柵の守将大谷大学戦ひ難儀に及べり。援兵として重成五千余人を率る、佐竹が勢を追払はんと、真先に進みたり。佐竹勢よりは鳥銃を飛ばずこと雨霰の如くなれば、木村半四郎と曰ふ者、一枚楯を持来り、之を持給へと言ふ。重成楯を地に置き、仮令矢玉は迥るゝとも、運命は迥れ難しと言て、益々進みて遂に佐竹の軍勢を追払ひ、一二三の柵を取固めたり。此時重成が隊長大井何右衛門見えず、重成大に驚き我預りし士を捨殺にしては、此後如何で諸士の下知を為すべき、いざ尋ね来らんとて、只一騎三の城戸を押開き、討死の骸算を乱したる中を、大井何右衛門はなきか、木村長門が迎に来れりと大声に呼はる。此時大井未だ死せず、重成喜び馬より飛下り、大井を抱き退かんとす。敵之を見て鳥銃を打掛ること雨の如し。堀尾山城守忠晴が陣より武者四五騎声を揚げて追来る。何右衛門曰く、敵急なり、棄てて早く引取り給へと。重成聞て、我足下の迎に来れり、敵出るとて打棄てゝ退かんは、初めより出ざるに如かずと、鎗を取て敵に掛らんとす。此時重成が組下三十余騎馬の頭を並べて乗出し、敵勢を立隔つ。重成命じ大井を抱て退かしめ、自ら三十余騎を繰引に自身殿して静静と柵内へ引揚げたりしは、天晴三徳を兼ねたりと言はんも、無理ならずと、敵も味方も感嘆せざるはなかりけり。
書き下し
○十一月二十六日、佐竹義宣の軍勢八千餘人、今福堤の柵へ押寄せ戰ひけるに、一の城戸の守將矢野和泉守正倫、二の柵の守將飯田左馬亮家貞討死し、三の柵の守將大谷大學戰ひ難儀に及べり。援兵として重成五千餘人を率る、佐竹が勢を追拂はんと、眞先に進みたり。佐竹勢よりは鳥銃を飛ばずこと雨霰の如くなれば、木村半四郎と曰ふ者、一枚楯を持來り、之を持給へと言ふ。重成楯を地に置き、假令矢玉は迥るゝとも、運命は迥れ難しと言て、益々進みて遂に佐竹の軍勢を追拂ひ、一二三の柵を取固めたり。此時重成が隊長大井何右衞門見えず、重成大に驚き我預りし士を捨殺にしては、此後如何で諸士の下知を爲すべき、いざ尋ね來らんとて、只一騎三の城戶を押開き、討死の骸算を亂したる中を、大井何右衞門はなきか、木村長門が迎に來れりと大聲に呼はる。此時大井未だ死せず、重成喜び馬より飛下り、大井を抱き退かんとす。敵之を見て鳥銃を打掛ること雨の如し。堀尾山城守忠晴が陣より武者四五騎聲を揚げて追來る。何右衞門曰く、敵急なり、棄てて早く引取り給へと。重成聞て、我足下の迎に來れり、敵出るとて打棄てゝ退かんは、初めより出ざるに如かずと、鎗を取て敵に掛らんとす。此時重成が組下三十餘騎馬の頭を並べて乘出し、敵勢を立隔つ。重成命じ大井を抱て退かしめ、自ら三十餘騎を繰引に自身殿して靜靜と柵内へ引揚げたりしは、天晴三德を兼ねたりと言はんも、無理ならずと、敵も味方も感歎せざるはなかりけり。
現代語訳
○十一月二十六日、佐竹義宣の軍勢八千余人が今福の堤の柵へ押し寄せて戦いました。一の城戸の守将矢野和泉守正倫、二の柵の守将飯田左馬亮家貞が討ち死にし、三の柵の守将大谷大学も戦いに難儀しました。援兵として重成は五千余人を率い、佐竹の勢いを追い払おうと、真っ先に進みました。佐竹勢は鉄砲を雨あられのように撃ってきたので、木村半四郎という者が、一枚楯を持ってきて、これを持ってくださいと言いました。重成は楯を地に置き、たとえ矢や弾は避けられても、運命は避けられないと言って、ますます進み、ついに佐竹の軍勢を追い払って、一、二、三の柵を取り固めました。このとき、重成の隊長の大井何右衛門の姿が見えず、重成は大いに驚いて、預かった士を見捨てて死なせては、この後どうして諸士に指図できようか。さあ探しに行こうと、ただ一騎で三の城戸を押し開き、討ち死にした死骸が入り乱れる中を、大井何右衛門はいないか、木村長門が迎えに来たぞと大声で呼ばわりました。このとき大井はまだ死んでおらず、重成は喜んで馬から飛び降り、大井を抱いて退こうとしました。敵はこれを見て鉄砲を雨のように撃ちかけました。堀尾山城守忠晴の陣から武者が四、五騎、声を挙げて追ってきました。何右衛門は、敵が急です。私を棄てて早くお引き取りくださいと言いました。重成は聞いて、私は足下を迎えに来たのだ。敵が出たからといって打ち棄てて退くのは、初めから出ないのに及ばない、と言って、鎗を取って敵に掛かろうとしました。このとき、重成の組下三十余騎が馬の頭を並べて乗り出し、敵勢を隔てました。重成は命じて大井を抱いて退かせ、自ら三十余騎を繰り引きにして、自身が殿をつとめ、静々と柵内へ引き上げたのは、あっぱれ三徳を兼ねたと言っても無理ではないと、敵も味方も感嘆しない者はなかったということです。
解説

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名将言行録・『名将言行録』木村重成 温和な人柄○重成は、常々物柔らかなる人にて、人の過を咎めず、堪忍を第一としたり。時人嘲弄して長州は手ぬるくして、物の用に立間敷男なりと沙汰する程なり。一日大阪城中にて粗忽の茶道ありて口論し、重成が烏帽子を扇にて打たり。重成打笑ひ、士の法にしては、汝は討捨つべきものなれども、汝を殺せば我も又死す。我は一大事あらん時の御用に立んと思ふなれば、代ゆるべき命を持たず、去る故に見捨置くぞと言ひしを、臆病の士なりとて、上下爪彈して誹りしが、今福の戰に、重成佐竹の備へ突掛り、大剛の働を爲す、後藤基次之を見て大に感歎せり。其時人に申けるは、先年言ひし言葉は誠に此節をや心がけたるならんとて、何れも感じける。去れども重成は、彌々謙遜して驕らず、基次之を熱々と見て、長門守が氣色は今度今福にての働を十分に思はぬ體なり、天晴重ねて何事かあらんには、眞先掛て十死一生の働をすべき氣色なりと語りけるが、果して夏役比類なき戰死を遂げり。 ○重成士を好み、嘗て浪士の名譽の者には、金銀を與へ、或は米穀を扶助し、愛憐を施せり。之に依り、今度大阪の募に應ぜざる輩も、重成が厚情を感じ、來り屬する者少なからざりしとぞ。 ○重成好み書を讀み古今に通達す。家康、板倉勝重をして屢々之を招かる、重成二心を抱くは士たるの道にあらざるなりと言て、應ぜず、暗弱の秀賴に仕へ、終始其節を改めず、竟に之に殉せり。
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名将言行録・『名将言行録』木村重成 感状を返上する○秀賴、東國の軍勢追々攻登ると聞て、彌々合戰の支度に及びけり。偖去年鵜野、今福合戰に軍忠ある人々に感狀褒美を賜ふ。重成には去冬大軍と、度々戰しこと取分け今福堤の苦戰、日本無雙の勇士とも思召さるゝとて、其勇を稱し、感狀並に正宗の刀脇差を賜はりぬ。重成謹みて頂戴し、秀賴の前に差置て曰く、舊冬今福堤の合戰のこと、聊か重成が武勇にあらず、御預け置れたる持口の軍士、身命を捨て戰し故に、勝利を得させ給ふ、殊に大野治長、後藤基次を初め、七組の頭粉骨を盡し申されし故、鵜野の合戰にも、味方勝利を得候、如何で重成一人が高名にあらず、其上御感狀の儀强て重成には御無用なり、是は自然他主に仕へ申す時か、又は子孫に至て、其高名の御感狀を以て武士の面目と仕ることなり、重成に於ては二君に仕へ申すべき樣なし、又重成が子孫如何で御見放下さるべきことにあらず、重成は君へ御奉公仕る筈のものにて、忠戰仕るが究まりたることにて珍しからず、君の御運開かれなば、重成も共に武運に榮えて過分の俸祿に誇り申べし、若し御運盡させ給ひ、御生害の時は、重成腹搔切て黃泉の御供仕り、冥途までも君に仰ぎ、臣に從へられて御奉公仕る重成なり、然らば、御褒美を頂戴仕るべき道理之なく候と、涙ながらに返上しける。秀賴を始め在合ふ人々も皆感涙を浮べける。此重成が詞を聞き、城を遁出んと思ふ族も、士は義に依て名を立つべきものなりと言て、忽ち心を改めしとなり。
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名将言行録・『名将言行録』木村重成 主君を諫める言葉群居の輩其ゆゆしさを感じて一言も出さず、伊奈忠政御念入り候、早々御退出あれと申して、重成は退出せり。 ○元和元年、重成秀賴が臆せるを憂ひ、諫めて曰く、生あるもの誰か死を惜まざらん、去れども義に依て死を輕んずるは弓箭執る身の習にて候、平宗盛死を恐れて、笑を後世に殘せしは、君の知給ふ所なり、舊冬左衞門佐幸村が諫め奉るに依り、漸々一度御陣廻りありたるのみ、斯る御事にては御運開かせ給ふこと如何あるべきや、夫戰の勝敗は兵の多少にあらず、將の强臆に寄り候へば、仰ぎ願くは有功の者を賞し、軍氣を勵まし給ひ、戰あらんには、御身眞先掛て諸營を巡視し給ひて、將卒を勵まし給ふべしと。秀賴にも尤もなりとありて、其諫を納らる。
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名将言行録・『名将言行録』木村重成 最期の備えと家康の評○重成、五月初より食事進まざりしかば、妻之を憂て、此度は落城近きにあるべしと聞ゆれば、御食事の進まざるにやと申けるに、重成聞て、全く左にあらず、昔後三年の戰に、瓜割四郎と囘ふ者、天性臆病にして、朝の食事喉を下らずして、敵陣にて首の骨を射切られしに、其疵口より食事出て、諸人に恥を曝しけるとなり。我等も敵に首を取らるべし、死骸の見苦しからぬ樣に心掛て、食事を愼むなりと答ふ。妻之を聞き欣然として退き、乃ち心事を書し瘢室に入て死す。時に年十八、妻は眞野豊後守頼包の女なり。 ○重成、久しく風邪に侵され、長髮にて居たりしが、五日に浴湯し、髮を洗ひ、香を燒き込めて、頓て江口の曲舞紅花の春の朝を靜に謠ひ、餘念なく小鼓を擊てり。明る六日井伊直孝と戰て討死す。家康、重成が首を見らるゝに、髮に燒き込めし香の薰ぜしかば、大に感じ時今皐月の初めなるに、聊か首に臭氣なく、香を燒き込めしこと勇士の能き嗜みなり、何れも打寄て其首を嗅ぐべしと言はれければ、何れも首を嗅ぎて褒賞せり。又冑の忍の緒の端を切てあるを見て曰く、討死を覺悟したる心天晴なる勇將哉と、讃美せられけり。或人簡程の嗜みに月代の延びたるは如何にと呼きけるを、家康聞て、斯く最後を磨く木村が月代の延びたるは子細あるべし、總て月代の剃立は冑下の惡きものなり、若くは左樣のことにてもあらん、希世の壯士が討死に健のことを難ずること勿れと言はれけり。
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