名将言行録 / 『名将言行録』木村重成 評・大坂陣の花形重成
○大阪陣の花形であると同時に、戰國武士中にも傑出した青年武士である。父常陸介は、秀次の家臣で之に殉じた人であるから、大した門地の出身でもないのに、大阪冬の陣の講和使節に撰ばれた事などを考へても、重成自身の人物が傑出してゐた爲であらう。茶臼山に於ける使節振の見事さには、徳川方の諸將も感心したと見える。わづか二十を超えたばかりの若武者でありながら、戰場での武勇と云ひ平生の言語動作と云ひ、立派なものである。義經などと同じに、後世の同情者に依りて、少し理想化されたのではないかと思はれる位である。とにかく、この人は大阪陣が、生み出した英雄である。大阪陣に依つて、初て現はれ、かつ大阪陣で死んだ人である。良人に殉じたその愛妻と共に、大阪軍の花と云つてもよい。本文中に粗忽の茶道と口論し云々のところは、講談などで、重成が風呂には入つてるところを、茶坊主が頭を毆ぐる事になつてゐるが、この逸話に對し、原著者岡谷繁實は大勇ノ人ト云ヘドモ、年少氣剛ノ時ニ當リ、小忿ニ忍フ能ハザルトコロアリ。子房ノ如キ猶然リ。故ニ圯上ノ老人深ク之ヲ惜シム。重成年少ニシテ能ク忍耐ヲ涵養シ、以テ他日ノ報效ヲ期ス。其ノ志ノ遠大ナル知ル可キ也。志業成ラズシテ死スト云ヘドモ、後世大阪ノ事ヲ言フ者、必ズ重成ヲ贊揚ス。蓋シ、大ニ人ニ過グルノ節有ルニ非ズンバ、名空シ獲ザルナリと、批評してゐるが、大阪陣に於ける重成の評判がどんなによかつたかゞ分る。
新字:○大阪陣の花形であると同時に、戦国武士中にも傑出した青年武士である。父常陸介は、秀次の家臣で之に殉じた人であるから、大した門地の出身でもないのに、大阪冬の陣の講和使節に撰ばれた事などを考へても、重成自身の人物が傑出してゐた為であらう。茶臼山に於ける使節振の見事さには、徳川方の諸将も感心したと見える。わづか二十を超えたばかりの若武者でありながら、戦場での武勇と云ひ平生の言語動作と云ひ、立派なものである。義経などと同じに、後世の同情者に依りて、少し理想化されたのではないかと思はれる位である。とにかく、この人は大阪陣が、生み出した英雄である。大阪陣に依つて、初て現はれ、かつ大阪陣で死んだ人である。良人に殉じたその愛妻と共に、大阪軍の花と云つてもよい。本文中に粗忽の茶道と口論し云々のところは、講談などで、重成が風呂には入つてるところを、茶坊主が頭を殴ぐる事になつてゐるが、この逸話に対し、原著者岡谷繁実は大勇ノ人ト云ヘドモ、年少気剛ノ時ニ当リ、小忿ニ忍フ能ハザルトコロアリ。子房ノ如キ猶然リ。故ニ圯上ノ老人深ク之ヲ惜シム。重成年少ニシテ能ク忍耐ヲ涵養シ、以テ他日ノ報効ヲ期ス。其ノ志ノ遠大ナル知ル可キ也。志業成ラズシテ死スト云ヘドモ、後世大阪ノ事ヲ言フ者、必ズ重成ヲ賛揚ス。蓋シ、大ニ人ニ過グルノ節有ルニ非ズンバ、名空シ獲ザルナリと、批評してゐるが、大阪陣に於ける重成の評判がどんなによかつたかゞ分る。
書き下し
○大阪陣の花形であると同時に、戰國武士中にも傑出した青年武士である。父常陸介は、秀次の家臣で之に殉じた人であるから、大した門地の出身でもないのに、大阪冬の陣の講和使節に撰ばれた事などを考へても、重成自身の人物が傑出してゐた爲であらう。茶臼山に於ける使節振の見事さには、徳川方の諸將も感心したと見える。わづか二十を超えたばかりの若武者でありながら、戰場での武勇と云ひ平生の言語動作と云ひ、立派なものである。義經などと同じに、後世の同情者に依りて、少し理想化されたのではないかと思はれる位である。とにかく、この人は大阪陣が、生み出した英雄である。大阪陣に依つて、初て現はれ、かつ大阪陣で死んだ人である。良人に殉じたその愛妻と共に、大阪軍の花と云つてもよい。本文中に粗忽の茶道と口論し云々のところは、講談などで、重成が風呂には入つてるところを、茶坊主が頭を毆ぐる事になつてゐるが、この逸話に對し、原著者岡谷繁實は大勇ノ人ト云ヘドモ、年少氣剛ノ時ニ當リ、小忿ニ忍フ能ハザルトコロアリ。子房ノ如キ猶然リ。故ニ圯上ノ老人深ク之ヲ惜シム。重成年少ニシテ能ク忍耐ヲ涵養シ、以テ他日ノ報效ヲ期ス。其ノ志ノ遠大ナル知ル可キ也。志業成ラズシテ死スト云ヘドモ、後世大阪ノ事ヲ言フ者、必ズ重成ヲ贊揚ス。蓋シ、大ニ人ニ過グルノ節有ルニ非ズンバ、名空シ獲ザルナリと、批評してゐるが、大阪陣に於ける重成の評判がどんなによかつたかゞ分る。
現代語訳
○大阪陣の花形であると同時に、戦国武士の中でも傑出した青年武士である。父の常陸介は、秀次の家臣で、これに殉じた人であるから、大した家柄の出身でもないのに、大阪冬の陣の講和使節に選ばれたことなどを考えても、重成自身の人物が傑出していたためであろう。茶臼山における使節ぶりの見事さには、徳川方の諸将も感心したと見える。わずか二十を超えたばかりの若武者でありながら、戦場での武勇といい平生の言語動作といい、立派なものである。義経などと同じに、後世の同情者によって、少し理想化されたのではないかと思われる位である。とにかく、この人は大阪陣が生み出した英雄である。大阪陣によって初めて現れ、かつ大阪陣で死んだ人である。夫に殉じたその愛妻と共に、大阪軍の花と言ってもよい。本文中に粗忽の茶道と口論し云々のところは、講談などでは、重成が風呂に入っているところを、茶坊主が頭を殴ることになっているが、この逸話に対し、原著者の岡谷繁実は、大勇の人といえども、年少気剛の時に当たり、小さな怒りを忍ぶことができないところがある。子房のような人でもなお然りである。だから圯上の老人は深くこれを惜しんだ。重成は年少にして、よく忍耐を涵養し、それによって後日の報効を期した。その志の遠大なことは知るべきである。志業は成らずに死んだといえども、後世、大阪のことを言う者は、必ず重成を賛揚する。思うに、大いに人に過ぎる節がなければ、名は空しくは獲られないのである、と批評しているが、大阪陣における重成の評判がどんなによかったかが分かる。
解説

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