名将言行録 / 『名将言行録』藤堂高虎 高虎の即日出立
○慶長三年秀吉薨去に付、在韓の諸將歸朝致すべくの所、明の授兵に喰留められ、進退難儀に及ぶ由、聞えければ、大切の場合故、家康自身渡海致さるべくと言はれけれども、左にては內亂起り申べきとのことにて、前田利家達つて留められしに付、去らばとて諸將の內を撰ばるゝに、高虎、智勇才略其任に當りしとて、秀吉の遺命を奉じて、卽日首途す、是日暮に及びて、家康高虎へ、足下近日出帆たるべし、談し殘したることあり、今日か明朝の中來らるべしと申遣はさる。使の士高虎の邸に至り、是を達す、留守の臣高虎貴館より退き、急に行裝を爲し今日旣に出立すと答ふ。家康之を聞き大に感賞し、彼佐渡守は與右衞門と云へる微者なりしが、太閤の登用に預りて、漸々昇進したる者なれば、尋常の者にあらず、年壯の者は斯の如き手段を聞覺えて、後の龜鑑と爲すべしと、昵近の士に語られしとぞ。 ○四年、高虎、舊主秀長の爲めに、郡山の大光院を京都大德寺中に遷し建て、香花料を寄附し祀を修めり、是大和家亡て衰廢せしに依てなり、家康、其義擧を嘉みし、亦爲めに給せられし所あり。高虎上京せば、必ず參詣し、歲時家臣をして、追薦を致さしめり。
新字:○慶長三年秀吉薨去に付、在韓の諸将帰朝致すべくの所、明の授兵に喰留められ、進退難儀に及ぶ由、聞えければ、大切の場合故、家康自身渡海致さるべくと言はれけれども、左にては内乱起り申べきとのことにて、前田利家達つて留められしに付、去らばとて諸将の内を撰ばるゝに、高虎、智勇才略其任に当りしとて、秀吉の遺命を奉じて、即日首途す、是日暮に及びて、家康高虎へ、足下近日出帆たるべし、談し残したることあり、今日か明朝の中来らるべしと申遣はさる。使の士高虎の邸に至り、是を達す、留守の臣高虎貴館より退き、急に行装を為し今日既に出立すと答ふ。家康之を聞き大に感賞し、彼佐渡守は与右衛門と云へる微者なりしが、太閤の登用に預りて、漸々昇進したる者なれば、尋常の者にあらず、年壮の者は斯の如き手段を聞覚えて、後の亀鑑と為すべしと、昵近の士に語られしとぞ。 ○四年、高虎、旧主秀長の為めに、郡山の大光院を京都大徳寺中に遷し建て、香花料を寄附し祀を修めり、是大和家亡て衰廃せしに依てなり、家康、其義挙を嘉みし、亦為めに給せられし所あり。高虎上京せば、必ず参詣し、歳時家臣をして、追薦を致さしめり。
書き下し
○慶長三年秀吉薨去に付、在韓の諸將歸朝致すべくの所、明の授兵に喰留められ、進退難儀に及ぶ由、聞えければ、大切の場合故、家康自身渡海致さるべくと言はれけれども、左にては內亂起り申べきとのことにて、前田利家達つて留められしに付、去らばとて諸將の內を撰ばるゝに、高虎、智勇才略其任に當りしとて、秀吉の遺命を奉じて、卽日首途す、是日暮に及びて、家康高虎へ、足下近日出帆たるべし、談し殘したることあり、今日か明朝の中來らるべしと申遣はさる。使の士高虎の邸に至り、是を達す、留守の臣高虎貴館より退き、急に行裝を爲し今日旣に出立すと答ふ。家康之を聞き大に感賞し、彼佐渡守は與右衞門と云へる微者なりしが、太閤の登用に預りて、漸々昇進したる者なれば、尋常の者にあらず、年壯の者は斯の如き手段を聞覺えて、後の龜鑑と爲すべしと、昵近の士に語られしとぞ。 ○四年、高虎、舊主秀長の爲めに、郡山の大光院を京都大德寺中に遷し建て、香花料を寄附し祀を修めり、是大和家亡て衰廢せしに依てなり、家康、其義擧を嘉みし、亦爲めに給せられし所あり。高虎上京せば、必ず參詣し、歲時家臣をして、追薦を致さしめり。
現代語訳
○慶長三年、秀吉が亡くなったので、朝鮮にいる諸将は帰国するはずでしたが、明の援兵に食い止められて進退に難儀しているとの知らせが聞こえました。大切な場合なので、家康自身が渡海なさるべきだと言われましたが、そうすると国内で乱が起こるだろうということで、前田利家が強く留めました。それならばと諸将の中から人を選ぶことになり、高虎は智勇才略がその任に当たるということで、秀吉の遺命を奉じて即日出発しました。この日が暮れてから、家康は高虎へ、貴殿は近日出帆されるはずだが、話し残したことがある、今日か明朝のうちに来てほしいと使いを遣わされました。使いの士が高虎の屋敷に着いてこれを伝えると、留守の家臣は、高虎は貴館から退いて急に旅支度をし、今日すでに出立しましたと答えました。家康はこれを聞いて大いに感心し、あの佐渡守は与右衛門という身分の低い者だったが、太閤の登用にあずかり、次第に昇進した者であるから、尋常の者ではない。年若い者はこのようなやり方を聞き覚えて、後の手本とせよと、側近の士に語られたということです。 ○慶長四年、高虎は旧主の秀長のために、郡山の大光院を京都の大徳寺の中に移し建て、香花料を寄付して祭祀を営みました。これは大和の家が亡んで衰え廃れたためです。家康はその義挙をほめ、これもまたこのために給付されたところがありました。高虎は上京すれば必ず参詣し、毎年の節に家臣に追善供養をさせました。
解説

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