名将言行録 / 『名将言行録』藤堂高虎 岐阜の勢いを抑える
○五年東西一時に亂る。東方の諸將旣に岐阜城を陷れ、其勢に乘じ、直ちに大垣を拔き、長驅して京に入らんとす。高虎肯ぜず、內府の至るを待たんと言ふ。皆曰く、岐阜旣に潰え、敵膽を落せり、此勢失ふべからずと。高虎曰く、軍機誠に然り、然れども我等獨り追て西上し大軍の後繼もなく、敵其前を遮り、又其後を擁せば、則ち進退必ず危し。且つ我等先づ事を了らば、內府至らるゝとも徒に手を供せらるるのみなり。威を取り覇を定むるの時なれば、宜しく斯の如く爲すべからずと、諸將其議に服し、赤阪に次し、家康の出馬を待つ、此事大に家康の旨に叶へり。關ヶ原の役終て後、池田輝政、福島正則相共に高虎の功を稱して、往者岐阜を攻ろや、若し三成の爲めに夾擊せられなば危からん。高虎岐阜を捨て河渡に趣き、敵をして川を渡ろを得ざらしむ。是に於て吾輩功を逞しくするを得たり、關ヶ原の戰裏切の徒をして、大谷吉隆の軍を挫き、吾輩をして其向ふ所を專にせしめ、復た左顧の憂なからしむ、是勝を全くすることを得し所以なりと言はれけり。
新字:○五年東西一時に乱る。東方の諸将既に岐阜城を陥れ、其勢に乗じ、直ちに大垣を抜き、長駆して京に入らんとす。高虎肯ぜず、内府の至るを待たんと言ふ。皆曰く、岐阜既に潰え、敵胆を落せり、此勢失ふべからずと。高虎曰く、軍機誠に然り、然れども我等独り追て西上し大軍の後継もなく、敵其前を遮り、又其後を擁せば、則ち進退必ず危し。且つ我等先づ事を了らば、内府至らるゝとも徒に手を供せらるるのみなり。威を取り覇を定むるの時なれば、宜しく斯の如く為すべからずと、諸将其議に服し、赤阪に次し、家康の出馬を待つ、此事大に家康の旨に叶へり。関ヶ原の役終て後、池田輝政、福島正則相共に高虎の功を称して、往者岐阜を攻ろや、若し三成の為めに夾撃せられなば危からん。高虎岐阜を捨て河渡に趣き、敵をして川を渡ろを得ざらしむ。是に於て吾輩功を逞しくするを得たり、関ヶ原の戦裏切の徒をして、大谷吉隆の軍を挫き、吾輩をして其向ふ所を専にせしめ、復た左顧の憂なからしむ、是勝を全くすることを得し所以なりと言はれけり。
書き下し
○五年東西一時に亂る。東方の諸將旣に岐阜城を陷れ、其勢に乘じ、直ちに大垣を拔き、長驅して京に入らんとす。高虎肯ぜず、內府の至るを待たんと言ふ。皆曰く、岐阜旣に潰え、敵膽を落せり、此勢失ふべからずと。高虎曰く、軍機誠に然り、然れども我等獨り追て西上し大軍の後繼もなく、敵其前を遮り、又其後を擁せば、則ち進退必ず危し。且つ我等先づ事を了らば、內府至らるゝとも徒に手を供せらるるのみなり。威を取り覇を定むるの時なれば、宜しく斯の如く爲すべからずと、諸將其議に服し、赤阪に次し、家康の出馬を待つ、此事大に家康の旨に叶へり。關ヶ原の役終て後、池田輝政、福島正則相共に高虎の功を稱して、往者岐阜を攻ろや、若し三成の爲めに夾擊せられなば危からん。高虎岐阜を捨て河渡に趣き、敵をして川を渡ろを得ざらしむ。是に於て吾輩功を逞しくするを得たり、關ヶ原の戰裏切の徒をして、大谷吉隆の軍を挫き、吾輩をして其向ふ所を專にせしめ、復た左顧の憂なからしむ、是勝を全くすることを得し所以なりと言はれけり。
現代語訳
○慶長五年、東西が一時に乱れました。東方の諸将はすでに岐阜城を陥れ、その勢いに乗じて、まっすぐ大垣を抜き、長駆して京に入ろうとしました。高虎は承知せず、内府が到着するのを待つべきだと言いました。皆は、岐阜がすでに潰れ、敵は肝を落としている。この勢いを失ってはならないと言いました。高虎は言いました。軍機としては確かにそのとおりである。しかし我らだけが追って西へ上り、大軍の後続もなく、敵がその前を遮り、またその後ろを押さえれば、進退は必ず危うくなる。そのうえ、我らが先に事を終えてしまえば、内府が到着されても、ただ手をこまねいているだけになってしまう。威を取り覇を定める時であるから、そのようにしてはならない、と。諸将はその議に従い、赤坂に宿営して家康の出馬を待ちました。このことは大いに家康の意に適いました。関ヶ原の戦が終わった後、池田輝政、福島正則は共に高虎の功を称えて言われました。先日岐阜を攻めたとき、もし三成に挟み撃ちにされていたら危なかった。高虎が岐阜を捨てて河渡に向かい、敵に川を渡らせなかった。ここにおいて我々は功を遂げることができた。関ヶ原の戦で裏切った者たちが大谷吉隆の軍を挫き、我々にその向かうところを思うままにさせ、再び左顧の憂いがなくなった。これが勝利を全うできた理由である、と。
解説

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