名将言行録 / 『名将言行録』藤堂高虎 高虎の先鋒
○天平九年、高虎、羽柴秀長に從て、但馬の土寇を伐し時、高虎家臣、居相政貞と共に夜忍び往て賊壘を覘ふ。遞卒物音を聞き、籬を隔てゝ、鎗にて突きしに、高虎、股に傷けり。高虎傷つきながら、靜に衣袖を以て拭ひし故、血付かず、賊其鋒に血付かざるを見て、人にあらずと思ひ去れり。高虎遂に壘に入り巡視して歸らんとせし時、賊二人刀を舞はし追尾す。高虎政貞と共に、其賊を斬り左右に首を提て歸れり。 ○西海の役、島津家久歩騎一萬五千を以て、宮部繼潤を目白の砦に攻ること急なり。秀長の營と一里計りを隔てり、秀長之を聞き、赴き援はんとす、護軍尾藤左衞門尉知定固く之を止む、高虎先鋒に在り、奮て、寡は衆に敵せずと雖も、前軍の敗を座視せば何を以て人に見えんやと言て、其兵數百人を引具し、直ちに圍を潰て營に入る。行々大呼して曰く、大和大納言の大軍、今將に來らんとす、其先鋒藤堂與右衞門先づ至ると、高虎身長け六尺二寸唐冠樣の大兜鍪を蒙り叱咤風生じ、敵軍披靡せり。遂に纖潤を激し、門を開き突出づ、衆皆殊死戰す、黑田孝高、小早川隆景等繼ぎ至り、夾みて之を擊つ、家久敗れ身を挺して逃れり。是日高虎なかりせば、幾んど殆し、纖潤深く再造の恩を謝し、具に其狀を具上す。秀吉其豪武神速を稱す。役畢つて後、正五位佐渡守に爲されたり。
新字:○天平九年、高虎、羽柴秀長に従て、但馬の土寇を伐し時、高虎家臣、居相政貞と共に夜忍び往て賊塁を覘ふ。逓卒物音を聞き、籬を隔てゝ、鎗にて突きしに、高虎、股に傷けり。高虎傷つきながら、静に衣袖を以て拭ひし故、血付かず、賊其鋒に血付かざるを見て、人にあらずと思ひ去れり。高虎遂に塁に入り巡視して帰らんとせし時、賊二人刀を舞はし追尾す。高虎政貞と共に、其賊を斬り左右に首を提て帰れり。 ○西海の役、島津家久歩騎一万五千を以て、宮部継潤を目白の砦に攻ること急なり。秀長の営と一里計りを隔てり、秀長之を聞き、赴き援はんとす、護軍尾藤左衛門尉知定固く之を止む、高虎先鋒に在り、奮て、寡は衆に敵せずと雖も、前軍の敗を座視せば何を以て人に見えんやと言て、其兵数百人を引具し、直ちに囲を潰て営に入る。行々大呼して曰く、大和大納言の大軍、今将に来らんとす、其先鋒藤堂与右衛門先づ至ると、高虎身長け六尺二寸唐冠様の大兜鍪を蒙り叱咤風生じ、敵軍披靡せり。遂に繊潤を激し、門を開き突出づ、衆皆殊死戦す、黒田孝高、小早川隆景等継ぎ至り、夾みて之を撃つ、家久敗れ身を挺して逃れり。是日高虎なかりせば、幾んど殆し、繊潤深く再造の恩を謝し、具に其状を具上す。秀吉其豪武神速を称す。役畢つて後、正五位佐渡守に為されたり。
書き下し
○天平九年、高虎、羽柴秀長に從て、但馬の土寇を伐し時、高虎家臣、居相政貞と共に夜忍び往て賊壘を覘ふ。遞卒物音を聞き、籬を隔てゝ、鎗にて突きしに、高虎、股に傷けり。高虎傷つきながら、靜に衣袖を以て拭ひし故、血付かず、賊其鋒に血付かざるを見て、人にあらずと思ひ去れり。高虎遂に壘に入り巡視して歸らんとせし時、賊二人刀を舞はし追尾す。高虎政貞と共に、其賊を斬り左右に首を提て歸れり。 ○西海の役、島津家久歩騎一萬五千を以て、宮部繼潤を目白の砦に攻ること急なり。秀長の營と一里計りを隔てり、秀長之を聞き、赴き援はんとす、護軍尾藤左衞門尉知定固く之を止む、高虎先鋒に在り、奮て、寡は衆に敵せずと雖も、前軍の敗を座視せば何を以て人に見えんやと言て、其兵數百人を引具し、直ちに圍を潰て營に入る。行々大呼して曰く、大和大納言の大軍、今將に來らんとす、其先鋒藤堂與右衞門先づ至ると、高虎身長け六尺二寸唐冠樣の大兜鍪を蒙り叱咤風生じ、敵軍披靡せり。遂に纖潤を激し、門を開き突出づ、衆皆殊死戰す、黑田孝高、小早川隆景等繼ぎ至り、夾みて之を擊つ、家久敗れ身を挺して逃れり。是日高虎なかりせば、幾んど殆し、纖潤深く再造の恩を謝し、具に其狀を具上す。秀吉其豪武神速を稱す。役畢つて後、正五位佐渡守に爲されたり。
現代語訳
○天正九年、高虎は羽柴秀長に従って但馬の土豪を討ちました。そのとき高虎は家臣の居相政貞と共に夜に忍び込んで、賊の砦の様子をうかがいました。見張りの兵が物音を聞き、垣根を隔てて鎗で突いたので、高虎は股に傷を負いました。高虎は傷つきながらも、静かに衣の袖で拭いたので、血は付きませんでした。賊は鎗の穂先に血が付いていないのを見て、人ではないと思って立ち去りました。高虎はそのまま砦に入って巡視して帰ろうとしたとき、賊が二人、刀を振り回して追ってきました。高虎は政貞と共にその賊を斬り、左右に首を提げて帰りました。 ○西海の戦で、島津家久が歩兵・騎兵一万五千をもって、宮部継潤を目白の砦に激しく攻めました。秀長の陣とは一里ばかり離れており、秀長はこれを聞いて援けに赴こうとしましたが、護軍の尾藤左衛門尉知定が固くこれを止めました。高虎は先鋒にいて、奮い立って言いました。寡兵は大軍に敵わないといっても、前軍の敗れるのを座視していては、何をもって人に顔向けできようか、と。そしてその兵数百人を率いて、まっすぐ囲みを破って陣に入りました。行く道々で大声で叫びました。大和大納言の大軍が今まさに来ようとしている、その先鋒の藤堂与右衛門がまず到着した、と。高虎は身長六尺二寸、唐冠の形の大きな兜をかぶり、叱咤して風が生じるほどで、敵軍は押し倒されて崩れました。ついに継潤を励まし、門を開いて突き出ました。人々は皆決死の戦いをし、黒田孝高、小早川隆景らが続いて到着し、敵を挟んで撃ちました。家久は敗れ、身一つで逃げました。この日高虎がいなければ、ほとんど危うかったところでした。継潤は深く再び命を救われた恩を謝し、詳しくその状況を秀吉に報告しました。秀吉はその豪胆さと迅速さを称えました。戦が終わった後、正五位佐渡守に叙されました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』藤堂高虎 旧恩を忘れぬ人柄○高虎人となり、忠厚故舊に篤し、肥後の國除せらるゝや、高虎、清正の好みを念ひ、京師本國寺に清正の位牌あり、然れども祭る者なし、高虎爲めに茶園を宇治に置き、以て其供に給し、歲貢今に至り絶せず。 ○高虎、初め織田七兵衞信澄に仕へ、八十石賜はり保侶役を勤めり、後去て秀吉に仕へ、家を起したり。信澄の子蘆尾庄九郎昌隆と稱し、落魄して居たりしを、高虎之を德川家に薦め、終に廕下と爲し、織田主水信重と改め、二千石を賜はらせぬ。人皆高虎の舊を忘れざるを稱せり。 ○高虎、嘗て黑田長政と隙あり、客あり長政を誹謗す、高虎色を變じ、某彼と惡しゝ、其臧否口を絶て言はず、子が意彼を詆られれば、則ち我嘉ばんと思はるゝやと言ければ、客之を謝せり。 ○高虎、德川三代の恩遇日に加はり、燕居に召さるゝこと、月として之なきはなし。高虎の邸に臨宴せられしこと歲率ね一再、凡そ駕を諸大名の邸に枉らるゝことあれば必ず召し、宴に陪せしめらる。元旦、饗宴、猪日、試樂及び玄猪會、皆毎に宗藩に伴し、永く恩例となれり。劔馬金帛及び、諸寶器の如き、恩賜頻繁最も勝て計ふべからず、未だ嘗て功に伐らず、大阪の事平らぎ、益封を賜ふ。僧天海來り賀し、竊に其薄きを歎ず、高虎色を正して曰く、天下の爲めに力を効す、固より其職分なり、豈に敢て報を望まんや、功を以て利と爲すこと、吾が聞く所にあらざるなりと。
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名将言行録・『名将言行録』藤堂高虎 敵将の助言と人材登用○石田三成、虜となる。高虎對面し、舊好のことゞもを語り、武士は相互ひなり、是非なきことゝ、懃懃に挨拶し、儲今度擒者備味方より見ては見え難し、敵方より見給ひて如何と思はるゝことあらば、古の好もあれば告げ給へ、後日の益あらんことを願ふ所なりと言ふ。三成、左言はるゝ上は、言を殘すべきにあらず、先手の鐵砲頭、働小身に見えたり、小身と大身と、働格別なるものなり、今度の働小身に見えて如何なり、自今以後大身にせられなば可ならんか、此外に申べきことなしと言ふ。是より高虎鐵砲頭を千石高にせり。 ○高虎、渡邊勘兵衞了を二萬石にて抱えたり。加藤嘉明之を聞き、和泉はむさとしたることをするもの哉、我ならば二萬石にて二百石取る待を百人抱ゆべし、如何に勘兵衞鬼神なりとも、侍百人向ひたらんには、微塵になるべしと言ふ、高虎之を聞て、左馬は何ぞ不智なることを言ふもの哉、平侍二百や三百堅めたる所は、人が踏破て通るべく、爰は勘兵衞が堅めたりと言ば、敵の肝を冷し、利ありと言はれけり。 ○高虎、家康の爲めに諸大名をして家室を致し、質と爲さしめんと欲し、先づ我より始め、天下の首唱となる。爰に於て諸大名皆家を攜へ江戸に至り、永く泰平の基を固くせり。