名将言行録 / 『名将言行録』小西行長 夜討案と退却論
得失損差の違ありとて、此陣所を退んこと、後世の誹と云ひ、當座の軍損と云ひ、一方ならぬ誤なり、某が存ずるは、内府今日赤阪へ着陣なれば、備は未だ定まるべからず、今夜此方より逆寄し、一戰して可ならん歟、倩倩往事を案ずるに、内府は生得廣野の合戰は得手にて、人數を見切り、軍兵を指麾すること、恐くは今の世に、誰か雌雄を爭はん、方々も見らるゝ如く姉川、長篠、長湫、樂田、羽黒等の戰場にて、僅の勢を以て、大軍を切崩せり、斯る名譽の人と尋常の如く軍せば、合戰更に利はあらじ、今度先々夜討して敵の變化を伺ひ、見屆て然る後術あるべし、只運を天に打任せ、味方の兵を三に分て一手を家康旗本へ夜討させ、一手は旗本近く陣取りたる備を攻め、一手は諸方の援兵の通路を留め所々の陣屋々々、且つ赤阪の町屋在家共をも、只一同に燒立て、其變動に從ひ術あらんと。去れども、諸將肯はず、凡そ夜討の軍兵僅なる國迫合百騎千騎の小合戰にこそ夜討の勝負はあるものなれ、是は夫と事替はり、日本二つに立分れ、天下分目の合戰なるに、夜討の勝負を好まんこと、且つ敵を怖るゝに似たり、次には諸將の武勇甲斐なきに似るべしと言て同意せず、三成、貴殿の言はるゝ所、圖に當りけれども、今度味方の兵の中に、敵に心を通じたる者大勢あると承はる、然らば只今の策を敵方へ告んこと必定なり、之に依り、待設けたる所に夜討せんこと却て敵の擒となり、味方若干滅じなん、憖なる夜討して、敵に利を付るならば、後日の軍仕惡かるべし、只速かに當所を退て味方の大勢と心を合はせ、一戰の功を立んと言ふ。行長之を聞き、夜討の術、人々の御心に入らんずば、兎も角もなり、但し當表を退き、關ヶ原まで引れんこと甚だ以て惡かるべし、惣て軍の習一足退く時は、虎も鼠の如しと言へり。
新字:得失損差の違ありとて、此陣所を退んこと、後世の誹と云ひ、当座の軍損と云ひ、一方ならぬ誤なり、某が存ずるは、内府今日赤阪へ着陣なれば、備は未だ定まるべからず、今夜此方より逆寄し、一戦して可ならん歟、倩倩往事を案ずるに、内府は生得広野の合戦は得手にて、人数を見切り、軍兵を指麾すること、恐くは今の世に、誰か雌雄を争はん、方々も見らるゝ如く姉川、長篠、長湫、楽田、羽黒等の戦場にて、僅の勢を以て、大軍を切崩せり、斯る名誉の人と尋常の如く軍せば、合戦更に利はあらじ、今度先々夜討して敵の変化を伺ひ、見届て然る後術あるべし、只運を天に打任せ、味方の兵を三に分て一手を家康旗本へ夜討させ、一手は旗本近く陣取りたる備を攻め、一手は諸方の援兵の通路を留め所々の陣屋々々、且つ赤阪の町屋在家共をも、只一同に焼立て、其変動に従ひ術あらんと。去れども、諸将肯はず、凡そ夜討の軍兵僅なる国迫合百騎千騎の小合戦にこそ夜討の勝負はあるものなれ、是は夫と事替はり、日本二つに立分れ、天下分目の合戦なるに、夜討の勝負を好まんこと、且つ敵を怖るゝに似たり、次には諸将の武勇甲斐なきに似るべしと言て同意せず、三成、貴殿の言はるゝ所、図に当りけれども、今度味方の兵の中に、敵に心を通じたる者大勢あると承はる、然らば只今の策を敵方へ告んこと必定なり、之に依り、待設けたる所に夜討せんこと却て敵の擒となり、味方若干滅じなん、憖なる夜討して、敵に利を付るならば、後日の軍仕悪かるべし、只速かに当所を退て味方の大勢と心を合はせ、一戦の功を立んと言ふ。行長之を聞き、夜討の術、人々の御心に入らんずば、兎も角もなり、但し当表を退き、関ヶ原まで引れんこと甚だ以て悪かるべし、惣て軍の習一足退く時は、虎も鼠の如しと言へり。
書き下し
得失損差の違ありとて、此陣所を退んこと、後世の誹と云ひ、當座の軍損と云ひ、一方ならぬ誤なり、某が存ずるは、内府今日赤阪へ着陣なれば、備は未だ定まるべからず、今夜此方より逆寄し、一戰して可ならん歟、倩倩往事を案ずるに、内府は生得廣野の合戰は得手にて、人數を見切り、軍兵を指麾すること、恐くは今の世に、誰か雌雄を爭はん、方々も見らるゝ如く姉川、長篠、長湫、樂田、羽黒等の戰場にて、僅の勢を以て、大軍を切崩せり、斯る名譽の人と尋常の如く軍せば、合戰更に利はあらじ、今度先々夜討して敵の變化を伺ひ、見屆て然る後術あるべし、只運を天に打任せ、味方の兵を三に分て一手を家康旗本へ夜討させ、一手は旗本近く陣取りたる備を攻め、一手は諸方の援兵の通路を留め所々の陣屋々々、且つ赤阪の町屋在家共をも、只一同に燒立て、其變動に從ひ術あらんと。去れども、諸將肯はず、凡そ夜討の軍兵僅なる國迫合百騎千騎の小合戰にこそ夜討の勝負はあるものなれ、是は夫と事替はり、日本二つに立分れ、天下分目の合戰なるに、夜討の勝負を好まんこと、且つ敵を怖るゝに似たり、次には諸將の武勇甲斐なきに似るべしと言て同意せず、三成、貴殿の言はるゝ所、圖に當りけれども、今度味方の兵の中に、敵に心を通じたる者大勢あると承はる、然らば只今の策を敵方へ告んこと必定なり、之に依り、待設けたる所に夜討せんこと却て敵の擒となり、味方若干滅じなん、憖なる夜討して、敵に利を付るならば、後日の軍仕惡かるべし、只速かに當所を退て味方の大勢と心を合はせ、一戰の功を立んと言ふ。行長之を聞き、夜討の術、人々の御心に入らんずば、兎も角もなり、但し當表を退き、關ヶ原まで引れんこと甚だ以て惡かるべし、惣て軍の習一足退く時は、虎も鼠の如しと言へり。
現代語訳
損得や差があるからといってこの陣所を退くのは、後世のそしりといい、当座の戦の損といい、並大抵でない誤りです。私が考えるには、内府は今日赤坂に着陣したばかりで、備えはまだ定まっていないはずです。今夜こちらから逆襲をかけ、一戦するのがよいのではないでしょうか。よくよく過去を思い返すと、内府は生まれつき広野の合戦を得意とし、兵数を見切り軍勢を指揮することでは、おそらく今の世に彼と優劣を争える者はいません。皆さんも見ておられるとおり、姉川、長篠、長久手、楽田、羽黒などの戦場で、わずかな軍勢で大軍を切り崩しました。このような名のある人とありふれた戦い方をしても、合戦に利はないでしょう。今回はまず夜討をして敵の出方をうかがい、見届けたうえで手を打つべきです。ただ運を天に任せ、味方の兵を三つに分け、一隊は家康の旗本へ夜討をかけ、一隊は旗本近くに陣取る備えを攻め、一隊は諸方からの援軍の通路を断ち、所々の陣屋や赤坂の町屋まで一斉に焼き立て、その変動に従って手を考えるのです、と行長は言いました。しかし諸将は承知せず、およそ夜討とは、兵が少ない国同士の小競り合いや、百騎千騎の小合戦でこそ勝負があるもので、これはそれとは違い、日本が二つに分かれた天下分け目の合戦である。そこで夜討の勝負を好むのは、敵を恐れているようであり、次には諸将の武勇が頼りないように見えるだろうと言って同意しませんでした。三成は、あなたの言われる所は的を射ているが、今度の味方の兵の中には敵に内通した者が大勢いると聞いている。そうであればこの策は敵に伝わるに違いない。待ち構えた所へ夜討をかければかえって敵の捕らえるところとなり、味方が大勢滅びるだろう。中途半端な夜討で敵に利を与えれば、後日の戦がやりにくくなる。ただ速やかにここを退き、味方の大勢と心を合わせて一戦の功を立てよう、と言いました。行長はこれを聞き、夜討の策が皆様のお気に召さないのなら、それはそれで仕方がない。ただしここを退いて関ヶ原まで引き下がるのは、はなはだ悪い。総じて戦の習いでは、一足退くときは虎も鼠のようになると言う、と言いました。
解説

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