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名将言行録 / 『名将言行録』小西行長 大垣城の撤退論

○五年九月、行長、宇喜田、島津、石田等の人々と大垣城に在り、三成岐阜城東軍の爲めに只一日に攻破られ、又我先手、島左近は有馬、中村と戰ひ、軍は利あるに似たりと雖も、味方大勢討死す。之を見て味方は氣を失ひ、敵は兩所の軍に勝て、勢既に天地を呑み、敵味方の兵氣雲泥の差別あり。今多からぬ勢を以て、勝誇りたる東軍と戰ふとも利あるまじ、先づ關ヶ原まで引退き、味方の多勢と合して、廣野に於て軍せん、如何あらんと申けるに、何れも尤もと同じける時に、行長只一人聞かぬ振にて居たりしが、諸將の評議を聞き、怒て高らかに申す樣、偖々臆病なる人々の評議哉、凡そ軍の勝負は五度も、十度も戰負け一度の勝に大利を定むるは、皆是軍の習なり、今日本二つに相分れ合戰を致さんに、十度二十度の勝敗の替はりはあるべし、且つ味方の負と言ふは、岐阜の軍計りなり、杭瀨川の戰は、味方多く死すると雖も、軍利を得て大敵を追拂へば、更に負とは覺えず、偖敵の負と言ふは、大津、田邊、阿濃津、伏見等の城是皆敵方負けならずや、東國勢は多しと雖も、七萬五千三百餘人、味方の勢は十三萬八千六百餘人、左すれば、若干倍せずや、此大軍を味方に持て、岐阜落城に物懲し逃支度致さんには、何にとして、軍に勝べき、只今當所の軍勢を以て、東軍と戰はんに、さらに不足は候まじ、然れ共、覺束なくば、關ヶ原の軍兵等を此處へ招き寄せ快く一戰し、萬一勝利なきならば大阪へ楯籠り、人數を所々へ分配し、城々に籠置きなば、敵手分をして、之を攻ん、多からぬ東軍を諸方へ分けさせ、其後油斷を見て内府の旗本へ擊て掛るものならば、爭か勝利を得ざるべき、然るに岐阜落城に物懲し、味方臆したり、敵は氣に乘りたり。

新字:○五年九月、行長、宇喜田、島津、石田等の人々と大垣城に在り、三成岐阜城東軍の為めに只一日に攻破られ、又我先手、島左近は有馬、中村と戦ひ、軍は利あるに似たりと雖も、味方大勢討死す。之を見て味方は気を失ひ、敵は両所の軍に勝て、勢既に天地を呑み、敵味方の兵気雲泥の差別あり。今多からぬ勢を以て、勝誇りたる東軍と戦ふとも利あるまじ、先づ関ヶ原まで引退き、味方の多勢と合して、広野に於て軍せん、如何あらんと申けるに、何れも尤もと同じける時に、行長只一人聞かぬ振にて居たりしが、諸将の評議を聞き、怒て高らかに申す様、偖々臆病なる人々の評議哉、凡そ軍の勝負は五度も、十度も戦負け一度の勝に大利を定むるは、皆是軍の習なり、今日本二つに相分れ合戦を致さんに、十度二十度の勝敗の替はりはあるべし、且つ味方の負と言ふは、岐阜の軍計りなり、杭瀨川の戦は、味方多く死すると雖も、軍利を得て大敵を追払へば、更に負とは覚えず、偖敵の負と言ふは、大津、田辺、阿濃津、伏見等の城是皆敵方負けならずや、東国勢は多しと雖も、七万五千三百余人、味方の勢は十三万八千六百余人、左すれば、若干倍せずや、此大軍を味方に持て、岐阜落城に物懲し逃支度致さんには、何にとして、軍に勝べき、只今当所の軍勢を以て、東軍と戦はんに、さらに不足は候まじ、然れ共、覚束なくば、関ヶ原の軍兵等を此処へ招き寄せ快く一戦し、万一勝利なきならば大阪へ楯籠り、人数を所々へ分配し、城々に籠置きなば、敵手分をして、之を攻ん、多からぬ東軍を諸方へ分けさせ、其後油断を見て内府の旗本へ撃て掛るものならば、争か勝利を得ざるべき、然るに岐阜落城に物懲し、味方臆したり、敵は気に乗りたり。

書き下し

○五年九月、行長、宇喜田、島津、石田等の人々と大垣城に在り、三成岐阜城東軍の爲めに只一日に攻破られ、又我先手、島左近は有馬、中村と戰ひ、軍は利あるに似たりと雖も、味方大勢討死す。之を見て味方は氣を失ひ、敵は兩所の軍に勝て、勢既に天地を呑み、敵味方の兵氣雲泥の差別あり。今多からぬ勢を以て、勝誇りたる東軍と戰ふとも利あるまじ、先づ關ヶ原まで引退き、味方の多勢と合して、廣野に於て軍せん、如何あらんと申けるに、何れも尤もと同じける時に、行長只一人聞かぬ振にて居たりしが、諸將の評議を聞き、怒て高らかに申す樣、偖々臆病なる人々の評議哉、凡そ軍の勝負は五度も、十度も戰負け一度の勝に大利を定むるは、皆是軍の習なり、今日本二つに相分れ合戰を致さんに、十度二十度の勝敗の替はりはあるべし、且つ味方の負と言ふは、岐阜の軍計りなり、杭瀨川の戰は、味方多く死すると雖も、軍利を得て大敵を追拂へば、更に負とは覺えず、偖敵の負と言ふは、大津、田邊、阿濃津、伏見等の城是皆敵方負けならずや、東國勢は多しと雖も、七萬五千三百餘人、味方の勢は十三萬八千六百餘人、左すれば、若干倍せずや、此大軍を味方に持て、岐阜落城に物懲し逃支度致さんには、何にとして、軍に勝べき、只今當所の軍勢を以て、東軍と戰はんに、さらに不足は候まじ、然れ共、覺束なくば、關ヶ原の軍兵等を此處へ招き寄せ快く一戰し、萬一勝利なきならば大阪へ楯籠り、人數を所々へ分配し、城々に籠置きなば、敵手分をして、之を攻ん、多からぬ東軍を諸方へ分けさせ、其後油斷を見て内府の旗本へ擊て掛るものならば、爭か勝利を得ざるべき、然るに岐阜落城に物懲し、味方臆したり、敵は氣に乘りたり。

現代語訳

慶長五年九月、小西行長は宇喜多、島津、石田らの人々と大垣城にいました。三成の岐阜城が東軍にわずか一日で攻め落とされ、さらに味方の先手である島左近も有馬、中村と戦って、戦況は有利に見えたものの味方は大勢が討ち死にしました。これを見て味方は気力を失い、敵は二か所の戦いに勝って勢いが天地をのむほどになり、敵と味方の士気には雲泥の差がつきました。今、少ない軍勢で勝ち誇る東軍と戦っても勝ち目はないでしょう、まず関ヶ原まで引き下がり、味方の大軍と合流して広い野で戦いたいと思いますが、いかがでしょうかと人々が申し出ると、皆がもっともだと同意しました。そのとき行長ただ一人は聞こえないふりをしていましたが、諸将の評議を聞いて怒り、声高に言いました。なんと臆病な人々の評議であることか。そもそも戦の勝ち負けは、五度も十度も負けながら、最後の一度の勝ちで大きな利を定めるのが戦の常である。今、日本が二つに分かれて合戦をするのだから、十度二十度と勝敗が入れ替わることはあるだろう。しかも味方の負けと言えるのは岐阜の戦いだけだ。杭瀬川の戦いは味方に死者が多く出たとはいえ、戦では利を得て大敵を追い払ったのだから、負けとは思わない。一方、敵の負けというのは、大津、田辺、安濃津、伏見などの城がみな敵方の負けではないか。東国の勢は多いといっても七万五千三百余人、味方の勢は十三万八千六百余人、そうであれば何倍もの差ではないか。この大軍を味方に持ちながら、岐阜落城に懲りて逃げ支度をするようでは、どうして戦に勝てようか。今この場所の軍勢だけで東軍と戦っても、まったく不足はあるまい。それでも心もとないなら、関ヶ原の兵をここへ呼び寄せて存分に一戦し、万一勝てなければ大坂へ立てこもり、兵を所々の城に分けて籠もらせておけば、敵は手分けしてこれを攻めるだろう。少ない東軍を諸方に分散させ、その後に油断を見て内府の旗本へ攻めかかるなら、どうして勝利を得られないことがあろうか。それなのに岐阜落城に懲りて味方は臆し、敵は勢いに乗ってしまった。

解説

関ヶ原の前夜、大垣城の評定で、西軍の諸将は関ヶ原への後退を唱え、小西行長ただ一人が戦いを続けるべきだと怒って反対したという場面です。行長の言い分は、勝負は一度や二度の敗北で決まらず、数でも味方が上回るという計算に基づいています。ただし兵数は岡谷が集めた逸話の数字で、確かめられたものではありません。注目したいのは、一度の負けで組織全体が萎縮する様子です。小さな失敗のあとに撤退論が広がる職場は、今も珍しくありません。数字で状況を測り直す冷静さが、行長の言葉の核心です。
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この章句が説くこと

大垣城小西行長士気兵数撤退論評定

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